須藤からの返信が届いたのは、平賀が改訂した教材の内容をメールで送った翌日のことだった。平賀から「この内容で良いそうです」と言われたときには、雫もひとまず胸をなでおろす。あとは生徒に向かって発表するだけだ。
さっそく翌日から雫は平賀とともに時間を見つけては、講演の練習に励んだ。今は資料を見ながらでもいいが、当日までには何も見なくても過不足ない説明ができるようにまで持っていかなければならない。
わずかな時間でも雫たちは集中して練習に取り組み、雫は宿舎に帰っても自分の担当する箇所を何度も確認していた。
そんななかで、曜日は再び土曜日を迎える。その日も雫は朝から緊張を感じっぱなしだった。いくら回数を重ねても、決して慣れることはない。
この日、雫は輪湖や春代と面談を行う。今回は二人同席での面談だ。本当は輪湖の父親である
去年一緒になったばかりの父親との関係がどうなのか、雫は知りたかったけれど、面談は今回では終わるわけではないから、また次の機会を待てばいいと気持ちを切り替えた。
職員室にチャイムが鳴ったのは、午前一〇時を回る数分ほど前のことだった。誰が来たのかは分かりきっていたから、雫はすぐに職員室を出て玄関に向かっていく。
カードキーをかざして玄関を開けると、そこにはやはり輪湖と春代が立っていた。鑑別所に来るのは二回目でも、表情はまだどことなく硬い。身構えているようですらある二人に、雫は声をかけて第一面接室に案内する。
机を挟んで向かい合って座ると、雫は穏やかな声で第一声を発した。
「郁哉さん、春代さん。改めておはようございます。今日も何卒よろしくお願いします」
そう言って小さく頭を下げた雫に、輪湖たちも鏡写しのように同じ反応をする。遠慮がちなお辞儀にやはりまだ緊張していることが、再度雫には窺えた。
「では、まず初めに郁哉さん。最近はどのように過ごしていますか? 前回の面談から何か変わったところはありますか?」
「い、いえ、特にはないです。勉強は相変わらず難しいんですけど、部活に打ち込むことでなんとかバランスが取れていると言いますか。この二週間で変わったことは、今はちょっと思いつかないです」
「そうですか。では、お母さんの方はどうですか? お母さんから見て、この二週間で郁哉さんに何か目立った変化はありましたか?」
「そうですね……。郁哉が言うようにあまり思い浮かばないかもしれないです。やっぱり勉強には苦労しているようですけど、でも部活が心の支えになっているようで、学校にはつつがなく通えていると思います。ご飯のときに話していても、友達との話題は出てきていますし、友人関係にも問題はないように私には見受けられます」
「分かりました。お二人とも前回の面談からの二週間で、目立った出来事や変化はないということで、よろしいですか?」
「あの、この二週間に起こったことじゃないんですけど、私たち冬休みになったら、郁哉を塾に行かせようかと話していて。勉強が少し遅れ気味なのを、そこで取り戻そうと思っているのですが」
「なるほど。郁哉さんはどうですか? 塾に行くことについて同意していますか?」
「はい。今勉強についていけていないのも、僕の行動が招いた事態ですし、背に腹は代えられないと思っています」
「ううん、郁哉のせいじゃないよ。今の状況は、色んな要因が積み重なった結果だから。郁哉が自分を責める必要なんてないんだよ」
「私も、お母さんの言う通りだと思います。反省することと自分を責めることは別ですから。しっかりと今の状況になった要因を考えて、それを繰り返さないようにすることが、今の郁哉さんたちには必要なのではないでしょうか」
雫がそう指摘すると、輪湖も小さく頷いていた。未だ緊張の色は見られるものの、輪湖の態度は面談を重ねるごとに素直になってきていて、少しは自分に心を開いてきているのかもしれないと雫は思う。
「では、この二週間で目立った出来事や変化はないということですね。私としても、それは何よりだと感じます。現状維持は、決して簡単なことではないですから」
「はい。でも、正直なところ、私には一つ気がかりなことがあるんです」
「気がかりなこと、ですか?」
「ええ、郁哉は家では愚痴や不満を少しもこぼさないんです。気を遣って明るく振る舞おうとしているようで。もし愚痴や不満があったら、私としては率直に打ち明けてほしいのですが。ストレスを溜めこんでしまったら、また何が起こるか分かりませんから」
「なるほど。郁哉さん、そうなんですか?」
雫に尋ねられて、輪湖はわずかに目を泳がせていた。忙しない視線に、うまく言葉を取り繕うとしていることを雫は感じる。
「い、いや別に友達にはそういうことを言えてますし、部活で少なからずストレスが発散できていますから。家でそういうことを言う必要性を感じないだけです。だってそんなことを言ったって、誰もいい思いはしないじゃないですか」
確かにその通りだと、雫は思う。愚痴や不満は基本的に人にあまり良い印象を与えない。
だけれど、ストレスを溜めこむのは心身ともに毒だ。愚痴や不満を吐露することで、本人の気持ちが軽くなることはあるし、それを聞いてくれる存在がいることは、心強くも感じられるだろう。
だから、それができない輪湖の精神状態を雫は慮る。
「でも、郁哉さん。ストレスを溜めこんでしまっては、郁哉さんにとっていいことはないですよ。たまには遠慮せずに、吐き出してもいいのではないでしょうか」
「で、でもそんなことをしたら、聞いたその人がストレスを溜めてしまいますよね?」
「ううん、郁哉。そんなことないよ。郁哉が愚痴や不満を言ってくれないの、お母さんたちはかえって寂しく感じてるから。郁哉にとって、家は安心して愚痴や不満を言えるような環境じゃないの?」
「いや、そういうわけじゃないけど……。でも、そんなこと言ったら、お母さんにもお父さんにも悪いじゃんか。ウチ、ただでさえそういう家庭なんだから」
「郁哉は、私たちに気を遣ってくれてるのね。でも、お父さんもお母さんもそんなことないから。私たちは郁哉の本音を聞きたいといつも思ってるよ。気を遣って飾り立てているような言葉じゃなくて」
「私も、お母さんのおっしゃる通りだと思います。安心して愚痴や不満を言える場所があることは、自分にも居場所があると思えて、心の安定に繋がりますから」
「い、いや、でも……」
「郁哉さん、よかったらこの場で練習をしてみませんか?」
「練習、ですか?」
「はい。今ここには私たちしかいません。もちろん、私たちは郁哉さんが何を言っても受け入れますし、お父さんとお母さんが揃った前では言えないようなことを、この機会に言ってみるのはどうでしょうか」
自分たちが輪湖の言動を誘導していることは、雫にも分かっていた。でも、このままストレスを溜めこんでいては、また非行に繋がる可能性もないとは言えない。輪湖に今必要なのはガス抜きであり、ピンと張っている糸を多少なりとも弛ませることだ。
雫は、輪湖が本音を吐露してくれることを望む。だけれど、輪湖はどこか疑うような視線をやめてはいなかった。
「……本当にいいんですか?」
「はい、大丈夫です。私たちは決して気を悪くしたりしませんから。むしろ郁哉さんの本心が聞けることが、嬉しいくらいです」
そう言った雫に、春代も頷いている。今自分たちにできることは、少しでも輪湖が話しやすい雰囲気を作ることだ。
雫はなるべく穏やかな表情を心がける。今言った言葉に嘘偽りがないことを、輪湖にも分かってほしかった。
そのことが伝わったのか、おずおずとだが輪湖は「じゃ、じゃあ、はい」と言ってくれる。勇気を出して愚痴や不満を吐露しようとしている輪湖を、雫たちは温かな目で見守った。
「僕、いや俺は学校が辛いです。あんなことをしたから当然なんですけど、多くのクラスメイトから敬遠されていて、教室に居づらいです。勉強も停学している間に進んでいってしまって、まだついていけていないですし、それを誰もフォローしてくれないのも腹が立ちます。もちろん一番悪いのは俺なんですけど、それでも困っている生徒を助けるのが、学校や先生の役割ですよね。自分で頑張ってねと言われているようで、嫌気が差します。誰も助けてくれないことが時々うんざりします。それも全部俺のせいだと言えばそうなんですが」
輪湖が口にした言葉は、その口調から紛れもない本音であることが、雫には分かった。愚痴や不満を吐露するということは、それだけ相手を信頼している証拠だから、たとえ自分たちから促したものであっても、雫は快く思える。
「ううん、そんなことない。確かにどんな理由があったにせよ、郁哉のしたことは悪いことだけど、でも今こんな状況になってるのは、郁哉だけのせいじゃないから。学校の対応もどうかと思う。先生たちに勉強面でのサポートがお願いできないか、お母さんからももう一度頼んでみるね」
「う、うん。ありがとう」
「郁哉さん、こちらこそありがとうございます。郁哉さんの本心を知れて、私もよかったです。日頃生活を送っていれば、どんな人でもストレスと無縁とはいきませんからね。それを吐き出せる場所があるということは、心の安定にとても大切なことですから」
「は、はい、そうですね」
輪湖の返事は、何かが詰まったような言い方だった。心細そうにしている瞳は、まるでまだ何か言いたいことやこぼしたいことがあるように、雫には見える。
「どうしたんですか? 郁哉さん、まだ何か言いたいことがおありなんですか?」
「い、いえ、そういうわけでは……」
「大丈夫ですよ。この際、言いたいことは全部言ってしまいましょう。その方が、私も郁哉さんの心のうちをより知れて、面談も進めやすくなりますから」
雫は、さらに水を向けてみる。いっそ輪湖には、心に溜まっている澱を全て吐き出してほしいと。
それでも、輪湖は少し迷うような表情を見せていた。ちらりと視線を横に向けて、春代の顔色を窺ってもいる。
しばし逡巡した後に出てきた言葉は「い、いえ、大丈夫です」というものだった。
その反応にも、雫は気を悪くはしない。学校についての愚痴や不満を吐き出すだけでも、おそらく輪湖には勇気が必要なことだったのだ。一気にそこまで求めるのは、少し酷だろう。
「そうですか。まあ、いきなり洗いざらい言うのも少し難しいですよね。焦らず一つずつ、また本心を話してくれれば幸いです。また面談をする機会もあるでしょうから」
「は、はい。すいません。まだちょっと思い切りがつかなくて」
「いえ、大丈夫ですよ。これからゆっくりと輪湖さんのペースで進めていきましょう」
そう言った雫に、輪湖も小さく頷いていた。春代の顔色を窺ったところを見るに、やはり今の家庭にも思うところがあるのだろう。
でも、雫は無理に訊き出すことはしない。それは家庭の中で吐露されるべきだ。自分にできることは輪湖が少しでもそういった気持ちになれるよう、面談を通じて手助けをすること。
そう思いながら、雫は輪湖たちとの面談を続けた。多少なりとも愚痴や不満を吐露したことで、少し吹っ切れた部分があったのか、輪湖はそれからも比較的素直に話していて、雫も面談に手ごたえが得られていた。