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第64話


 那須川から雫と平賀に、教材の内容の一部変更を認める許可が下りたのは、雫が輪湖や春代との面談をした、その日の夕方のことだった。

 三週間後に迫った講演に向けて、二人は急ピッチで準備を進めていく。本を読んで知識を増やしながら、雫は平賀とともに、教材の内容をどのように変更するかを話し合う。

 教材は何年も講演の現場で使われていることもあって、的確で合理的で、その内容を変更することは雫たちには容易ではなかった。

 違法薬物を使用したからといって、人生が終わるわけではない。もし薬物依存の状態に陥ってしまったら、適切な医療機関や自助グループに繋がること。そういった内容を追加するには、雫たちは既存の内容を少し削らなければならなかった。

 でも、改めて教材を読んでみると、どの記述も雫にとっては削れない大事なものに思える。

 頭を悩ませながら、雫たちはアイデアを出し合う。毎日のように業務と業務の間の空いている時間を使って、雫たちは教材の内容を少しずつ変更させていった。

「以上で、今回の講演を終わります。ご清聴ありがとうございました」

 発表ソフトを用いて講演の予行演習を終えた平賀が、深々と頭を下げる。隣で一緒に頭を下げながら、雫は心の中で拍手をした。

 教材の内容を変更すると決まってから一週間と半ばが経って、雫たちはひとまず仮の変更案を作成できていた。

「どうでしょうか? 那須川さん。ひとまずはこのような形になったのですが」

 予行演習を終えた平賀は、座って聞いていた那須川に感想を求めた。雫も平賀とともに変更した教材を発表しながら、常に那須川の反応は窺っていた。

 会議室には、ピンと張り詰めたような空気が流れる。でも、当の那須川は実に落ち着いた表情をしていた。

「ありがとうございます。お二人の意図は分かりました。もしも違法薬物を使用してしまったり、薬物依存症になってしまった場合にどのようにすればいいのかが、具体的に説明されていましたね。以前の内容は違法薬物を一回でも使用させないことに重点を置いていて、もちろんそれは絶対に必要なことなんですけど、でもそれは裏返したら一回でも使用したら終わりという空気を醸成していましたから。そうではないと、たとえ違法薬物を使用してしまったとしても、回復する手段があると伝えることは、とても意味のあることに感じました」

「ありがとうございます」そう答えた平賀に続きながら、雫はかすかな手ごたえを得る。平賀と二人で頭を振り絞って新たに作った教材に、肯定的な評価が下されたことに安堵する思いがする。

 だけれど、那須川は「ですが、その上で一つ懸念していることがあります」と言葉を続けていたから、雫は一転して身構えずにはいられない。

「今の平賀さんたちの説明だと、違法薬物を使用しても大丈夫と言っているように聞こえます。もちろん平賀さんたちにそんな意図がないのは分かっていますが、自分は依存症にはならないし、なってもすぐに回復できると甘く見て、違法薬物に興味を持ってしまう生徒も出かねないのではないでしょうか」

 那須川が懸念するところは、雫にもよく分かった。二人で教材の内容をどう変更するか考えているときに、既に出た視点だったからだ。

 そう受け止められないように、バランスに気を遣ったつもりだったのだが、那須川に改めて指摘されると、再考する必要性も雫には感じられる。

 それでも、平賀は引き締まった表情を崩してはいなかった。

「那須川さん、ご意見ありがとうございます。確かにその可能性は僕たちも考えました。でも、その上で僕は、違法薬物を使用してしまっても大丈夫と伝えたいです。もちろん依存症に陥った状態から回復できるかどうかはその人次第ですし、違法薬物との戦いは一生続くんですけど、それでも回復の道はあることを伝えたいです」

「そうですね。平賀さんの言いたいことも分かります。でも、私はこの内容では、少し甘いかなと感じてしまいました。違法薬物の所持・使用はれっきとした犯罪だというのに」

「確かに那須川さんのおっしゃる通りです。でも、僕はむしろ今までが厳しすぎたと思っています。違法薬物を一度でも使わないことに越したことはありません。でも、その意識が強すぎることは、薬物犯罪で逮捕されたり、薬物依存症に陥ってしまった方を排除することに繋がります。たとえ、薬物犯罪で逮捕されて懲役刑に処されても、いつかは刑務所を出て社会で暮らさなければならなくなりますし、そのときに『あいつは違法薬物を使用した犯罪者だ』と強固なレッテルを貼られることは、本人の孤立にも繋がってしまいます。また逮捕までいかなくても、依存症に陥ってしまった方も同様です。絶対に使用してはいけない薬物を使用してしまった自分をダメな存在だと思ってしまえば、こんな自分が回復できるわけがないと、思いこむことにも繋がるのではないでしょうか。転ばぬ先の杖ではありませんが、回復する手段があることを示すことは使用してしまった本人にとっても、またその周囲にとっても有益なことだと、僕たちは考えました」

 滔々と語る平賀は、はっきりとした確信をもとに喋っているようで、それが雫にとっては頼もしい。それでも、那須川はまだ心を許したような様子ではなかった。

「……分かりました。では、平賀さんたちはこの内容で、本当に責任が持てますか? 講義の内容を曲解して違法薬物の使用に及ぶ生徒が出たら、どうするおつもりですか?」

「それは、しかるべき形で責任を取らせていただきたいと考えています」

 平賀は即答していた。自分たちが一〇〇パーセントコントロールできる問題ではないのに。

 でも、那須川に「山谷さんはどうですか?」と訊かれれば、雫も「はい。私も平賀さんに同じです」と答えるほかない。

 責任を取るとは具体的にどうするのか。それを想像すると雫は恐ろしく感じたが、それでもこの内容を認めてもらうためには頷くしかなかった。

「冗談ですよ。もし本当に違法薬物を使用する生徒が出てきてしまったとしても、それはお二人のせいではありませんから」

 ふっと小さく微笑んだ那須川に、何がおかしいのかは分からなかったけれど、雫の緊張は少し和らいだ。その穏やかな表情のまま、那須川は続ける。

「分かりました。この内容でいきましょう」

「……本当ですか?」

「はい。違法薬物の害は生徒たちも保健体育の授業で知っているでしょうし、一つくらいは異なった視点の説明があってもいいのではないでしょうか」

 那須川が認めてくれたことに、雫たちは顔を見合わせる。平賀の瞳が、頭を振り絞って考えた甲斐があったと語っていた。

「ただし、講演をするのはこの内容を須藤先生に見てもらって、承認を得てからにしてください。もし修正してほしいと言われた場合は、それに応じてください。また私が見させていただきます」

「もちろんです。那須川さん、ありがとうございます」

「いえ、よく考えましたね。この内容なら平賀さんたちの意図も、生徒たちにはきっと伝わると思いますよ」

 そう言って表情を緩めた那須川に、雫の心も同じように緩んでいく。

 でも、まだ何も決まっていないと、雫は気を引き締め直した。改訂した内容を須藤に認めてもらわなければならないのだ。

 須藤とのメールのやり取りは、平賀の担当だ。平賀がうまく説明してくれることを、雫は強く願った。


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