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第63話


 二人それぞれとの面談を終えて、家に帰っていったことを見届けると、職員室に戻った雫は自席について、一つ息を吐いた。今日の面談が終わったことにひとまず安堵する気持ちはあったものの、それでもこの先輪湖たちとどう接していこうかという懸念は、かえって膨らんだ感覚がある。

 ため息に似た吐息は、正面の机に座って昼食を食べている別所にも伝わったらしく、「山谷さん、どうしたの? 今の輪湖さんたちとの面談で、何か気がかりなことでもあったの?」と声をかけられる。

 雫は少し迷ったものの、それでも別所に今しがたの二人との面談の内容を打ち明けることにする。外部には漏らさないという守秘義務を、別所は必ず守ってくれるだろうという信頼があった。

「そっか。なるほどね。輪湖さんには、そんな事情があったんだ」

「はい。まだ確証は持てないんですけど、でも新しい家庭環境への順応に苦労していることが、輪湖さんのストレスになっているのかもしれないとは、正直なところ私は思ってしまいました」

「確かにその可能性はあるかもしれないね。家庭環境は、子供の成育とは切っても切り離せないからね」

「はい。あの、別所さん、私どうすればいいでしょうか? どうすれば輪湖さんのストレスを取り除けて、穏やかな生活を送ってもらえるようにできるでしょうか?」

「うーん、どうすればいいかって言われても、なかなか難しい問題だよね……。輪湖さんの家庭に、私たちが必要以上に介入するわけにもいかないだろうし……」

「なんだよ。そんなのほっとけばいいだろ。当人同士の問題なんだし」

 行き詰まりかけた二人の会話に口を挟んだのは、またしても湯原だった。コンビニエンスストアのパンを頬張りながら、倦んだような目を雫たちに向けている。

「いや、湯原さん、それはちょっとあんまりじゃないですか? ほっといておくことを選ぶなんて、それこそ私たちが相談を受けている意味がないじゃないですか」

「じゃあ、何だよ。お前はその輪湖って子と、その父親を引き離したいのか? それこそ横暴だろ。俺たちがしていいことじゃねぇよ」

「確かにそれはそうですけど……。でも、ただ指をくわえて見てるだけっていうのは、私にはできません。輪湖さたちのために何かしたいです」

「何かって何だよ。大体、お前は前提からして間違ってるんだよ。何だよ。ストレスを取り除いてあげたいって。そうじゃなくて、家庭環境のことでストレスがあるなら取り除くんじゃなくて、それにうまく対処する方法をまず教えるべきだろ」

「それは……」

「今のストレスを溜めこんで、うまく対処できない状態が続くと、遅かれ早かれその子はまた爆発しかねないぞ。また同級生に暴行を加えたり、未成年飲酒したらどうすんだよ。そうしたら、今度こそ警察に引っ張られるんだぞ。そうしたら、学校も退学になるかもな。停学処分を喰らって、ただでさえ後がない状況なのに。スリーアウト、チェンジだ」

 湯原の言うことは、雫にも十分に理解できた。確かに現状のままでは、そういった未来が訪れないとも限らない。

 では、それを防ぐためにはどうしたらいいのか。そのための方策を、雫はまだ持ち合わせていなかった。

「湯原君。言いたいことは分かるけど、その言い方はちょっとないんじゃない?」

 困り始めた雫に助け舟を出すかのように、別所が口を挟む。自分と同じように思っている人間の存在は、雫にいくばくかの勇気を与えた。

「そ、そうですよ。湯原さん、どうしてそう悪い方向にばかり考えるんですか?」

「いや、その可能性だって、ないとは言い切れないだろ。俺たちはもしもの場合も考えて、少年たちに接しなければならないんだからよ」

「……もしかして湯原さん、過去に担当していた子のことが頭にあるんですか?」

 そう尋ねた雫に、湯原は眉を吊り上げてみせた。不機嫌そうな表情が、雫に威圧感を与える。

「はぁ? お前何言ってんだよ」

「別所さんからざっくりとですが聞きました。湯原さん、かつて未成年飲酒に及んだ虞犯少年を担当したことがあるんですよね?」

 湯原は、別所に目を向ける。「どうして言うんですか」とでも言うかのように。それでも、別所は澄ました表情をしていて、「伝えたところで困るようなことでもないでしょ」という風に思っていることが、雫にも察せられた。

「でも、湯原さんが担当したその少年は不処分となった後に、また未成年飲酒をしてひき逃げ事故を起こしてしまった。そのときの後悔というか、やりきれない気持ちを、輪湖さんのケースに重ね合わせているんじゃないんですか?」

 口を閉じたくなる気持ちを抑えて、雫は一歩踏み込んで湯原に訊いてみる。「そんなことねぇよ」と湯原は即座に否定していたが、その言葉の奥にある思いを雫は想像する。

 そうしていたのは雫だけではなかったようで、別所が「本当に?」と、念を押すように確認していた。先輩職員から追及されて、さすがの湯原も少しバツの悪そうな表情をしている。

「本当ですよ。重ね合わせてなんかいませんって。でも、そう簡単に根拠もなく少年を絶対的に信頼するのは控えるべきだって、俺はそのとき思ったんです。もちろん、どうせこの子はまた非行に及ぶはずだって、思ってるわけじゃないですよ。でも、先のことなんて誰にも分からないですし、再非行に及ぶ可能性だって、考慮しなければならないじゃないですか。俺たちは神父や牧師じゃないんですから」

 自分は、関わった少年が無事に更生してくれることを願いたい。雫はそういったスタンスで鑑別に臨んでいたけれど、湯原の言うこともまったく否定することはできなくて、わずかにでも価値観は揺らぐ。

 最初から疑ってかかっていては少年に信用されることはないけれど、それでも未来は誰にも分からないことは、その通りだ。頭の中で、天秤が揺れる音がする。

「まあそれはそうだし、そう思うのも自由なんだけど、でもそれを担当する少年の前では出さないようにしてね。湯原君ただでさえ背が高くて、ちょっと威圧感あるんだから」とたしなめた別所に、湯原も「はい、分かっています」と頷いている。

 でも、雫はそんなにすぐに折り合いをつけることはできなかった。

 輪湖たちに次に会うのは、また二週間後のことだ。でも、そのときにどんな顔をして何を言えばいいのか、雫にはすぐには掴めなかった。



(続く)


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