「では、お母さん。改めて今日はよろしくお願いします」
輪湖のときとは違って向かい合う形で座り、簡単に自己紹介をしてから、雫は春代との面談をスタートさせた。
春代は輪湖よりも深く頭を下げていたけれど、顔には緊張が色濃く残っていた。
「それでは、最初にお訊きします。お母さんから見て、今の郁哉さんはどう見えていますか?」
「どう見えているとは、どういうことですか?」
「郁哉さんの、今のご家庭での様子はどうですか? 何か気づいたり思っていることがあれば、教えていただきたいのですが」
「そうですね……。今は比較的つつがなく過ごせていると思います。停学になる前後の時期はカリカリしていて、大丈夫かなと思ったんですけど、それも最近になって少し落ち着いてきたのかな、と」
向き合っていることもあって、春代の目はしっかりと雫に向けられていた。だから、春代が嘘をついたり話を盛っているとは、雫には考えづらい。
たとえ、先ほど輪湖から訊いたことと少し齟齬があったとしても、だ。
「なるほど、そうですか。それはやはり、部活動に参加できていることが大きいのでしょうか?」
「多分そうだと思います。家でもバスケの話や部活仲間の話をすることが多いですし、今のあの子にとって、部活動が一番の支えになっているのは間違いないと思います」
「そうですか。では、勉学の面はどうですか? 郁哉さんは停学していた期間に授業が先に進んでしまって、大変に感じているようですが」
「それは私たちも承知しています。あの子は正直なところ、元々勉強がとても得意というわけではなかったですし。今は通信講座等を受講することも、視野に入れている状況です」
「なるほど、それはいいかもしれませんね。学力がつけば、本人の自信になるかもしれないですし」
「はい。私たちも、あの子のためにできることは何でもしたいと思っています」
春代が輪湖を大事に思っていることが、雫にはひしひしと伝わってくる。輪湖家が愛情のある家庭だということも、同時に察せられる。
でも、それがかえって輪湖の負担になっているのかもしれない。先ほどの面談では、輪湖が現状に満足しているとは、雫にはあまり思えなかった。
「では、訊きづらいことを訊くようで申し訳ないのですが、お母さんは先日の谷口さんに対する件は。どのようにお感じになりましたか? できれば率直な思いをお訊きしたいのですが」
面談を進めるために、雫は一歩踏み込む。「はい」と返事をした春代は、かすかに視線を下げていた。振り返ること自体が辛いと言うように。
でも、輪湖のことを思うなら、ここは避けては通れない。雫は春代が思いのままを話してくれることを、願うしかなかった。
「……そうですね。本当にショックでした。普段は大人しくて、少し臆病なところもある子なので、あんなことをするなんて、夢にも思っていませんでした。きっと色々思うところがあったんだと思います。でなければ、人を殴るなんて、できるような子ではないですから」
「そうですか。では、五月に未成年飲酒で補導されたときはいかがでしたか? あまり振り返りたくないこととは思いますが、それでもそのときの心境を教えていただけますか?」
「……はい。そのときも大きなショックを受けました。本当によくないことなんですけど、まずはあの子にお酒を勧めた友達を恨みました。でも、あの子の顔を見るにつれ、だんだん自分たちに原因があるような気がしてきて。私たちの育て方が間違っていたのではないか。私はあの子に、満足できるような環境を与えられていただろうか。そう今でも思っています」
「いえ、お母さんは何も悪くないですよ」輪湖家の事情をほとんど知らない自分がそう言ったところで、説得力があるのか雫には分からなかった。その言葉は春代を慰める役割を果たすかもしれないが、同時に「私たちのこともよく知らないで」と思わせる可能性もある。
思えば輪湖や輪湖家について分かっていることは、雫には心許なくなるほど少なかった。面談を進めていくからには、輪湖たちのことをもっと知らなければならない。
「あの、今おっしゃったことのなかで一つ気になる個所があったのですが。郁哉さんに満足できるような環境を与えられていただろうか、とはどういった意味でしょうか?」
雫がそう尋ねると、春代は少し口ごもる様子を見せながらも、決心したように再び顔を上げた。
「……あの、山谷さんにはお話ししていなかったんですけど、私あの子が小学四年生のときに、一度離婚してるんです」
春代が口にした内容は、たとえ一瞬でも雫を驚かせる。でも、すぐにそれは失礼なことだと雫は思い直す。離婚は珍しいことでも何でもないし、そういった色眼鏡で輪湖たちを見てはいけないだろう。
雫はなるべく今までと変わらない声色で、「そうなんですか」と相槌を打った。小さく頷く春代は思いの丈を吐露するように続ける。
「はい。やむを得ない理由で離婚したんですけど、でもあの子もまあまあ大きかったですし、きっと感じるものは大いにあったんだと思います。二人になってからも、私はあの子が望むような環境を与えられるように努力したんですけど、それが本当にあの子の望み通りになっていたのかどうかは、今でも分からないです」
「そうですか……。でも、教頭先生から訊いたお話では、今は夫婦で郁哉さんと暮らしているようですが」
「それは再婚したんです。去年、別の人と。私の夫、新しく郁哉のお父さんになった人は、中学校で教師をしていることもあって、とても真面目で筋の通った人です。郁哉のことも自分の息子のように、とはいっても戸籍上では本当に息子なんですけど、大切にしてくれていて。私たちも二人きりで暮らしていた頃よりは、経済的にも大分安定することができました」
「ただ」そこで春代は言葉を区切ったから、雫は何かただならぬ気配を感じてしまう。
「ただ、何ですか?」と訊き返すと、春代はまたかすかに目を伏せた。
「あの子はまだ三人での新しい暮らしに、慣れていないのかもしれません。夫は私の目から見れば優しく理解のある人なんですけど、あの子からしてみれば、二人で暮らしていたところに突然割り込んできた存在のように思えているのかもしれないです。会話もあるのですが、それもどこかぎこちなくて。もしかしたら口にしていないだけで、何か思うところがあるのかもしれないです」
そう吐露した春代に、雫は点と点が一本の線で結ばれたような感覚がした。去年からの新しい家庭環境が、輪湖にストレスを与えていたのかもしれない。
もちろんそうだと決めつけるのは早計だが、それでもその可能性は排除できないだろう。
自分には何ができるだろう。雫には、明確な答えのない迷路に入り込んだような感覚があった。
「なるほど、そうですか。お母さん、打ち明けてくださってありがとうございます。おかげで郁哉さんのことをより理解できそうです」
「はい。どうかよろしくお願いします」
「はい」と頷く雫。でも、心の中では確証は一つもなかった。
自分はこれから、どう輪湖たちに接していけばいいのか。あやふやな未来だけが、今の雫の前にはあった。
それからも雫は、春代との面談を続ける。輪湖の幼い頃の様子や、今の性格について語る春代。それを聞き入れながらも、雫は次に面談をするときはどのように振る舞おうかと考えてしまっていた。
(続く)