「では、輪湖さん。今日もよろしくお願いします」
雫がそう言って面談を始めると、輪湖も「はい、よろしくお願いします」と、小さく頭を下げていた。表情はま解れてはいなかったけれど、自分と会うのもまだ二回目だし、初めて訪れる鑑別所に、簡単にリラックスすることはできないだろうと雫は感じる。
十分に想定できた反応だったから、雫も動揺することはなかった。
「では、まずは軽くお話をしましょうか。輪湖さん、あれからどうですか? 学校の方は。勉強でも部活でも何でもいいので、少し今の状況を教えていただけるとありがたいのですが」
「……勉強の方は、あまり調子が良いとは言えないかもしれないです。当然ですけど、俺が停学していた期間にも授業は進んでいますし」
なるべく物腰柔らかに訊いた雫に、輪湖は少し迷いながらも弱音をこぼしていた。まるっきり警戒していたらそんな言葉は出てこないから、少しは自分に心を許してくれているのかもしれないと雫は思う。
「そうですか。それは大変ですね。何か学校で補習を実施したりはしていないのでしょうか?」
「いえ、そういうのも特にないです。停学したのは俺だけなんで、たった一人のために補習を開くのは、と考えてるのかもしれないです」
雫は輪湖に同情を抱く。確かに停学の原因は輪湖にあるのかもしれないが、それでも学校に通えなかった期間の補習をしないのは、因果応報を超えた罰を与えているようで、酷な話だ。学校は、全ての生徒に開かれているべきだろう。
「それは辛いですね。私からも教頭先生に連絡してみます。では、一方で部活はどうですか? 輪湖さんは前回お話したときには、バスケットボール部に入っているとおっしゃってましたが」
「そっちはまあなんとかやれてます。チームメイトもあんなことをした俺を煙たがってもいいはずなのに、以前と同じように接してきてくれていますし、試合にはなかなか出れないんですけど、徐々に上手くなってきている実感があります。今学校に行けてるのは、バスケ部があるおかげです」
「それは何よりです。自分を受け入れてくれる人がいる、場所があることは一番の心の支えになりますからね。大変なことはあっても、それでも輪湖さんが学校に通えていると知って、私もホッとしました」
雫の言葉に、輪湖も小さく頷いている。
今時学校に通うのが絶対的な正解ではないが、それでも輪湖の場合は、学校に通うことが居場所づくりに繋がるだろう。自分の心配が杞憂に終わって、雫は心の中で息を吐く。
でも、安心はしていられない。まだ今日の面談は始まったばかりだ。いつまでも雑談をしていられない。
雫は、まだ硬さの残る輪湖に問う。
「では、輪湖さん、そろそろ本題に入ってもよろしいですか?」
輪湖が微妙に首を縦に振る。雫は思い切って続ける。
「単刀直入に訊きます。今、教室ではどうですか? 谷口さんとの関係はいかがですか?」
輪湖が答えづらい、あるいは答えたくないことを訊いている実感は雫にもある。それでも、須藤から依頼された少年相談を進めるためには、どうしても訊かなければならないことだ。
輪湖がかすかに視線を机に落とす。雫の質問に答えるまで、少しの間があった。
「……そうですね。今は特にこれといった関係はないです。もちろん俺からも謝りましたし、谷口くんたちも悪いと思ったのか、最近では少し話し声を抑えてくれるようになりました。席替えがあって、席も離れたこともあって、今は何とかやり過ごせています」
「そうですか。それならよかったです。別に谷口さんと仲良くしろとは私も言いませんから。お互いただ教室にいられるのなら、それでいいと私は考えています」
「は、はい」
「あの、輪湖さん。もしかしたら答えたくないかもしれませんが、それでも必要だから訊きますね。輪湖さんは今までに今回のように、カッとなって耐えられなくなるようなことはあったのでしょうか?」
「いいえ、なかったです。今までも嫌だなと思うことはあったんですけど、それでもどうにか耐えられてました」
「そうですか。では、どうして今回だけは耐えられなかったのでしょうか? 何か思い当たることなどはありますか?」
雫がそう尋ねると、輪湖は再び視線を雫から外した。どこを見ているのか判然としない目に、考えを巡らせているのだろうと雫は察する。
輪湖が次に口を開くまでには、また少なくない間があった。
「それはやっぱり、我慢しきれなくなったんだと思います。小さなストレスが少しずつ溜まっていっていて、溢れ出てしまったんだと思います」
「そのストレスというのは、大きな声で話していた谷口さんたちに対するものでしょうか。それとも他に何か、ストレスを感じる要因があったのでしょうか」
「……えっと、主に谷口くんたちに対してです」
「主にということは、他にも何かストレスを感じるようなことがあったのですか?」
「それは、まあ色々です。勉強のこととか色々」
言葉を濁した輪湖に、「その色々の中身を教えていただけませんか?」という言葉が、雫には喉まで出かかる。だけれど、それを訊いても輪湖は具体的な内容を言ってくれないような気がした。
代わりに言った「輪湖さん、困っていることがあったら、何でも言っていただいて構わないんですよ」という言葉にも、輪湖は「いえ、大丈夫です」と返していて、まだ自分に完全に心を開いてはいないことが、雫には改めて伺える。輪湖が何かに悩んでいることは明白だったが、あと一歩が踏み込めない。
「本当ですか?」と追及したい思いをぐっと飲みこんで、雫は話題を変える。五月に補導された、未成年飲酒の件についてだ。
これも訊きづらいことには違いなかったが、一緒に補導された友人とは今も関係が続いているのかと訊くと、輪湖は「いえ、今はもう会っていないです」と否定していた。
それが本当かどうかは、雫には分からない。今も会って飲酒をしている可能性だって、ないとは言い切れない。
それでも、性悪説を根拠に輪湖を疑うことはしたくなかったので、雫は「そうですか」と理解を示す。
さらに、飲酒に及んだ背景には何か悩んでいることやストレスがあったのではないかとも訊いたが、それでも輪湖は「いえ、単に断り切れなかっただけです」以上の答えを返してはくれなかった。
雫は、輪湖が心に抱えている事情を知りたいと思う。そのために様々な言葉を使って、それとなく訊いてみる。
しかし、輪湖は詳しいことは話してはくれず、雲をつかむような感覚を抱いたまま、輪湖との面談の時間は終了していた。
「今日はありがとうございました」と面談を結び、雫は輪湖とともに、春代が待っている第二面接室へと戻る。春代は戻ってきた輪湖を見るなり、気がかりで仕方がなかったという表情を浮かべていたが、それでも二人で話す時間は、今は雫には与えられない。
入れ替わるように、「では、お母さん。第一面接室にお願いします」と春代に声をかける。春代も頷いて、二人は今度は輪湖を第二面接室に残して、第一面接室に向かった。
一人残された輪湖がどんな思いで待たなければならないのかを考えると、雫には忍びない思いがした。
(続く)