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第60話


 平賀が話を終えると、会議室は色のない沈黙に包まれた。雫も話の内容を整理するのでいっぱいで、すぐに何かを言うことはできない。

 身近に逮捕された人間がいない雫にとって、平賀の話はそれだけ真に迫るものに感じられた。

「そんなことがあったんですか……」辛うじて雫は言葉を捻りだす。それでも、平賀の表情はどことなく飄々としていて、後ろめたさはさほど感じていないようだった。

「はい。でも、そんなに重く受け止めなくても大丈夫ですよ。もう一〇年以上も前のことですから」

「あの、その友梨佳さんは、それからどうされたんですか?」

「その翌月から、近所のクリーニング店でアルバイトとして働き始めました。自助グループにも同じ頃に通い出して。しばらくはクリーンを続けられていたそうです」

「いたそうです、ですか?」

「はい。その後二年くらいは僕も嵯峨さんと連絡を取ったり会ったりしていたんですけど、どちらからともなく疎遠になってしまって。嵯峨さんも契約社員とはいえ、地域の建設会社に事務として就職できていましたし、お互いに仕事が忙しくなっていったんですよね」

「そうなんですか。これからもずっと関係を続けるみたいな感じでしたけど」

「まあそれは色々あったんですよ、僕たちも。でも、先日高校の同窓会で、一〇数年ぶりに再会しまして」

「えっ、そうなんですか?」

「はい。しばらく会わなかった分、お互い年を取ったなとは思ったんですけど、雰囲気はあまり変わっていなくて。久しぶりに会えてよかったです。聞けば、あれからクリーンをまだ続けられているみたいで。何はともあれホッとしました」

「それはよかったですね」

「はい。でも、これからも違法薬物はずっと彼女の脅威になり続けるでしょうし、回復に終わりはないんです。違法薬物をやめ続けるために、彼女もそれなりの努力をしているはずですし、実際今もまだ不安に思うときがあると言っていました」

「そうなんですか。こんな軽々しく言っていいのか分からないですけど、それは大変そうですね」

「ええ。僕も一〇〇パーセント理解することはできないのですが、それでも山谷さんの言うように、とても大変なことだと思います。彼女がそういった人生を送るようになってしまったのも、当たり前ですけど違法薬物を使用してしまったことがきっかけで。だから、最初の一回を使わせないようにする『ダメ。ゼッタイ。』は、理に適っているとは思うんです」

「でも、その言い方だと平賀さんは『ダメ。ゼッタイ。』に、少し思うところがあるように聞こえますけど」

 そう雫が尋ねると、平賀は小さく首を縦に振ってみせた。どこか苦々しい表情から、平賀が難渋しているのが雫には分かる。

 それでも、平賀は一呼吸置いたのちに、また口を開いていた。

「ええ。『ダメ。ゼッタイ。』を強調しすぎてしまうと、まるで違法薬物を使用してしまった子が、自分のことをダメ人間だと思ってしまいかねないと思うんです。一度でも違法薬物を使用したら、そこで人生が終わってしまうかのような。でも、それが違うことは、僕は嵯峨さんを見て知っています。もちろん薬物依存症からの回復は大きな困難を伴いますが、それでもたとえ違法薬物を使用したとしても、人生は終わらない。回復する道筋は大いにあることを、生徒たちには伝えるべきなのではないかな、と」

「あくまで僕としては、ですが」平賀はそう付け加えて軽く予防線を張っていたけれど、でも雫にも頷ける部分はあった。たった一回つまずいただけで即刻ゲームオーバーになるような社会は、不寛容がすぎるだろう。

 自分が友梨佳と同じような事態にならないという保証は、どこにもない。

「そうですね。私も平賀さんの言うことには正当性があるように思えます。もちろん『ダメ。ゼッタイ。』で最初の一回を防ぐことも絶対に必要なことではあるんですけど、でも違法薬物は他の罪状よりも、再犯率が高いですから。万が一使用してしまったときに、再使用のリスクを抑えるためにも、相談できる医療機関や自助グループがあることを伝えることも、同じように必要な気がします」

「そうですよね。山谷さんに理解してもらえて、自分が間違ったことを言っているのではないと、確証が持てました。今度、タイミングを見て那須川さんに相談したいと思います」

「あの、私も一緒に行った方がいいですか?」

「いえ、僕一人で大丈夫です。山谷さんも忙しいでしょうから」

「分かりました。では、よろしくお願いします」

「はい。善処してみます」

 そう言った平賀に、今度は雫が頷く。長野今井高校で講演を行う日まではあと一ヶ月もないから、かなりの突貫工事になるかもしれない。

 それでも、雫は業務の隙間を縫ってでも、それをする価値はあると思えた。違法薬物を使用しても、人生は何も終わらないということを、生徒たちには知っておいてほしいと強く感じていた。




 雫を相手に講演の予行演習をした平賀は、その日のうちに、那須川に講演の内容を変更したいと申し出ていた。

 でも、それもまだ昨日のことだったから、那須川の返事は雫には伝えられていなかった。講演をする長野今井高校の許可も得なければならないから、すぐには決まらないことも雫は分かっていたつもりだ。

 でも、肝心の講演の内容が半ば宙ぶらりんの状態になっていることには、やきもきしてしまう。学校側も忙しいのは重々承知だが、それでも変更するなら早く考え出したいと、思わずにはいられなかった。

 少し落ち着かない状況のなかで、雫が書類の作成といったデスクワークに取り組んでいると、午前一〇時を回る数分前に職員室にチャイムが鳴った。それは言わずもがな鑑別所に来客がやってきた合図で、雫は隣で仕事をしている湯原に一声かけてから、職員室を出る。

 カードキーをかざして玄関を開けると、入り口には輪湖とその母親である春代(はるよ)が、並んで立っていた。二人はちょうど同じぐらいの背丈で、どちらかというと小柄な雫は、二人の顔をかすかに見上げる格好になってしまう。

 初めて訪れる少年鑑別所という場に緊張しているのだろう。二人の表情には少し硬さが見られ、雫の心さえも強張ってしまいそうだ。

 穏やかさを意識した声色で簡単な言葉をかけてから、雫は二人を所内に引き入れる。雫の後に続く二人は、どこか落ち着かなさそうに所内を見回していた。

 雫は二人を第二会議室に案内すると、まずは輪湖にだけ声をかけて、一緒に第一会議室に向かった。親子二人と同時に面談をする手法も当然あるが、お互いの存在を意識して言いたいことや言うべきことが言えない事態を危惧して、この日の雫は一人ずつ個別に面談をする手法を採っていた。

 第一面接室に入った二人は、机の角を挟むようにして座る。正対した状態では、輪湖に圧迫感を抱かせてしまうかもしれなかった。


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