「映画、けっこう面白かったよね」
テーブルを挟んで向かい合って座ると、友梨佳はミルクと砂糖を入れたホットコーヒーを一口飲んでから、口を開いた。ゆったりとしたジャズが流れる店内で、平賀も「ああ」と頷く。
駅前にあるコーヒーチェーンは休日の昼間ともあって、満席に近いほど混んでいた。
「特に最後の展開がアツかったよな。序盤は嫌な奴って印象しかなかったのに、最後の最後で主人公の力になってくれて。あれはズルいよな。一〇〇パー盛り上がるんだから」
「そうだね。私もいずれは味方になるんだろうなって思ってても、いざそうなったら凄い感動したよ。ザ・王道って感じで、観てよかったなって思えたもん」
映画を観終えた後の興奮が一〇数分経っても続いているような友梨佳の表情を見ると、平賀は嬉しさと安堵に包まれる。
元々この映画を観ようと誘ったのは、平賀だった。好きな俳優が出演しているし面白そうだという予感はあっても、それでも実際に面白いのかどうかは、やはり観てみなければ分からない。
本音を言えば少し不安な部分はあったのだが、それでも満足げな表情を浮かべている友梨佳を見ていると、平賀はこの映画を選んだ自分のセンスを褒めたくなる。
「そうだな。俺も観終わった後だけど、もう一回観たい。よかったら年が明けてからまた観に行くか?」と言うと、友梨佳も「いいね、それ。お年玉も出てるだろうし」と同調してくれる。平賀の気分は、より持ち上げられていた。
「あーあ、ずっと今年のままだったらいいのになぁ」
それからも二人でしばらく話していると、友梨佳がため息交じりに口にした。
言おうとしていることは平賀にも分かったが、軽い調子で「どうしたんだよ?」と尋ねる。
「だって、来年になったらもう私たち受験生なわけじゃん。部活も引退して、勉強に集中するようになって。考えただけで気が重くならない?」
少しの愚痴っぽさを含んだ友梨佳の口調は、平賀にも共感できるものだった。高校生活がこれから勉強の色をより濃くしていくことに、今から戦々恐々とする思いだ。
「確かにそれはあるな。部活が終わったら受験まで勉強漬けになると思うと、やっぱりちょっとしんどいよな」
「へぇ、太地でもそう思うんだ。テストの成績も良いのに」
「そりゃ思うだろ。俺だって勉強が大好きってわけでもねぇし。やらなくてもいいんなら、ずっとゲームしたり漫画読んだりしてたいよ」
「やっぱそうだよね。それ聞いてちょっと安心した。勉強を大変だと思ってるのが、私だけじゃなくて」
「ああ。でも、勉強で困ったことがあったら、俺にも相談してくれよ。俺も分かる範囲で教えるから」
「ありがと。そう言ってもらえると頼もしいよ」
友梨佳が何の衒いもなくそう言ったから、平賀は少し顔を赤らめてしまう。ごまかすためにコーヒーに口をつける。
でも、その間も友梨佳は穏やかな表情をしていたから、平賀も変に飾らず自然体のままでいられた。
「次、いつ会おっか」と話を続ける二人。話し声はあってもリラックスできるような店内の雰囲気もあって、平賀の心には平穏が広がっていた。
季節は巡る。制服も冬服から夏服に変わる。照りつける日差しと、たまに降る通り雨。
「これからマック行こうぜ」と平賀が、友人である金子に声をかけられたのは、夏休み明けの最初の登校日が終わった放課後だった。
夏期講習で勉強漬けだった夏休みが終わった解放感からか、平賀も頷く。元々友梨佳は今日は塾があるから、誘うことは難しかった。
二人が、学校から自転車で一〇分ほどの距離にあるファストフードチェーンに辿り着くと、平日だからか店内はさほど混んではいなかった。注文するにも待つ必要はなく、二人してチーズバーガーとドリンクを頼む。
数分後に提供されたそれを受け取って、二人は窓際の席につく。「いただきます」と、チーズバーガーを頬張る。濃い味付けが平賀の舌を刺激した。
「で、どうだったよ。夏期講習は? 大変だったか?」
チーズバーガーをドリンクと一緒に飲み込んでから、金子が尋ねてくる。夏休みの間は、お互い夏期講習に時間を取られて、二人はなかなか会えていなかった。
「まあな。毎日あっついなか塾行くのも大変だったし、俺が行った塾は課題も多かったから。まあ、その分学力は上がったと思うんだけど、こういう経験はもう二度とごめんだなって思った」
「そんなにか。そりゃご苦労だったな」
「お前の方はどうなんだよ? お前だって休みの間は塾行ってたんだろ?」
「ああ。でも俺んとこは個別指導だったから、そこまでキツくはなかったぜ。先生も俺のペースに合わせて教えてくれたしな。親も気に入ったみたいで、また次の週末からも通う予定だ」
「そっか。俺も個別指導にしとけばよかったかなぁ」
「別に良し悪しだろ。個別指導の方が一対一な分、お金もかかるんだし。どっちもどっちだよ」
「そうだな」
それからも二人はチーズバーガーを食べながら、思い思いに話し続けた。お互いに勉強の話は避けて、好きなゲームやテレビ番組の話が主になる。気兼ねない会話は、勉強に追われている平賀にとって一種の清涼剤となった。
そうして話していると、入り口が開いて三人の女子が入ってくる。軽く目を向けただけで、彼女たちが着ているのが自分たちの高校の制服だということが、平賀には分かった。
彼女たちはドリンクだけを頼むと、平賀たちからは二つ離れた席に座った。
三人がドリンクを飲みながら話している話題は本当に何気ないもので、耳を傾ける必要は平賀には感じられない。だから、平賀も金子とどうでもいいと思えるような話を続けた。何てことのない穏やかな空気が流れる店内。
それでも平賀の耳は、一人の女子が「ねぇねぇ、聞いてよ」と話題を振った後に続いた言葉に留まってしまう。
「ここだけの話なんだけどさ、女テニの先輩がやってるみたいなんだよね」
その女子の声は、ここだけの話と言うわりには平賀たちにも伝わってくるほど大きかった。「やってるって何を?」と訊いた他の女子に、平賀も同じ疑問を抱く。
女子テニス部は、友梨佳が夏休みに引退するまでに所属していた部活だ。
「いや、あまり大きな声では言えないんだけどさ、クで始まってリで終わるあれ、やってるらしいんだよ」
その女子は少し曖昧な言い方をしていたけれど、それは「あれ」の内容を、ほとんど明示しているに等しかった。それに気づいたとき、平賀は身体に電流が走ったかのような驚きを覚えてしまう。三人のテーブルまで行って、声をかけたくもなってしまう。
でも、三人にどう思われるかは平賀にも容易に想像できたから、どうにか堪える。しかし、金子との会話は目に見えて減ってしまっていた。
「えっ、マジで。
「ちょっと仲いい先輩からね。でも、その先輩も友達から聞いたみたい」
「えっ、それマジだとしたらヤバくない? 警察沙汰じゃん」
「そう、ヤバいよね。私たちとはまるで縁のない世界だと思ったのに、まさか同じ学校にやってる人がいるかもしれないなんて。本当びっくりだよ」
「でも、そんな近くにそういう人がいるなんて、私たちもいつ誘われてもおかしくないってことじゃない? 怖いよね」
「うん、そうだね。十分に気をつけないと」
「それな。何事もなく卒業するのが一番だもんね」
同じ店内で話している三人の話が、平賀にはまったく他人事には思えなかった。
まだ友梨佳が、それをやっていると決まったわけではない。三人は一年生で、話に出てくる女子テニス部の先輩とは、二年生のことを指しているかもしれないのだ。
それでも、平賀は友梨佳を心配せずにはいられない。信じていないわけではないが、それでも同じ部活でそれが蔓延している可能性は捨てきれなかった。
明日友梨佳に会ったら、どんな声をかけようか。平賀はそのことばかり考えて、金子に「どうかしたのかよ?」と訊かれるまで、口をつぐんでしまっていた。