「ご清聴ありがとうございました」説明を終えた平賀は、本番と同じように深く頭を下げていた。雫は思わず手を叩きたくなったけれど、それは予行演習の場にはそぐわないだろう。同じように小さく頭を下げることで答える。
顔を上げた二人の間に、どことなく神妙な空気が流れる。それでも、会議室には二人しかいなかったから、雫はどこにも逃げられなかった。
「以上が、長野今井高校で行う薬物乱用防止教育のあらましなのですが、どうでしたか? 山谷さん。何か思ったことや感じたことなどはありますか?」
一度通しての説明を終えた平賀が尋ねてくる。雫も説明を聞きながら抱いていた印象を、率直に口にした。
「そうですね。とても分かりやすくて参考になる内容だったと思います。ただ教材を読んでいるだけでなく、実際に平賀さんが口にしているところを聴くと、より説得力が感じられて。ちゃんと生徒たちの記憶に残るような内容だと感じました」
「そうですか。具体的には、どのようなところが印象に残りましたか?」
「具体的にですか? そうですね……。やはり違法薬物を所持・使用してしまった際の罰則についての説明は具体的な分、インパクトがあったと思います。そういう刑罰が待っているのならば、違法薬物は所持・使用しないようにしようという予防効果が、期待できるのではないでしょうか」
「そうですね。確かに刑罰について知ることは、違法薬物乱用の抑止力になる側面もありますからね」
そう頷いた平賀の表情は、何かが燻っているかのように、雫には見えた。心と言動が一致していないような。
そういえば説明している間も、かすかに歯に物が詰まったような言い方をしていたと、雫は思い起こす。腹に据えかねる思いでもあるのだろうか。
でも、二人の声以外の音が一切しない空間では、踏みこんで訊くことは雫にはためらわれた。
「では反対に、何かこうした方がいいのではないかという改善案は、山谷さんにはありますか?」
その質問は予期していなかったから、雫は驚いて「えっ、内容って変えていいんですか?」という声が出てしまう。どの少年鑑別所でも使用して教材だから、絶対的なものだと思っていた。
それでも、平賀は大きく表情を変えずに答える。
「はい。地域や実施する機関の実情に応じて、多少の変更は認められています。もちろん大筋は変更できませんが、それでも山谷さんは今の説明について、何か意見などはありますか?」
重ねて尋ねられても、意見というたいそうなものは、雫は少しも用意していなかった。だから、情けない話だけれど、ありのままを言うしか選択肢はなかった。
「いえ、お恥ずかしい話なんですが、意見と言われましても……。正直に言うと、説明を聞くことに集中していて、そこまでは考えられなかったです」
「そうですか。まあ急に言われても、なかなか難しいですよね」
平賀は理解を示していたけれど、雫はその言葉の裏にある感情を推測してしまう。疑問がためらいを越えて、声の形を纏う。
「あの、反対に平賀さんは何かこの教材について、意見というか思うところがあったりするんですか……?」
「……どうしてそう思うんですか?」
「いえ、平賀さんの説明は流暢だったんですけど、でも表情がどこか本当の意味で納得していないように見えてしまって。何か感じることがあるのかな、と」
雫がそう尋ねると、会議室には一瞬沈黙が降りた。気まずくさえある空気に、余計なことを言ってしまったのではないかと、雫は焦る。
それでも、平賀は少し考え込むような素振りを見せた後に、再び口を開いていた。
「まあ、正直に言うと少し厳しすぎるかなという感じはしました。いくらこういう罰則がありますよと伝えても、使用する瞬間にはそんなものはブレーキにはなりませんし。必要なことではあるんですけど、刑罰だけを伝えるのは少し不公平かなと。もちろん使用しないことに越したことはないのですが、薬物依存症に陥ってしまった場合に、頼れる医療機関や自助グループなども紹介した方がいいのではないかと、あくまで僕はですが感じますね」
平賀の意見が、雫には少し意外に感じられた。違法薬物を使用してしまった後のことについてまで、雫には思いが至っていなかったからだ。
反論したいわけではなく、純粋な疑問から「どうしてそう思うんですか?」という言葉が出る。
すると、平賀はまた少し言いよどんだ。でも、やがて決意したのか確かな目を雫に向けると、はっきりと口を開いた。
「それは、僕の実体験からです」
「実体験、ですか? もしかしてですけど、平賀さんは過去に違法薬物を所持・使用したことがあるんですか?」
「いえ、僕自身ではなく、僕の親しい間柄だった人が、過去に覚醒剤取締法違反で逮捕されたことがあるんです」
たとえ平賀自身ではなかったとしても、平賀の口から出た「逮捕」というワードは、小さくない衝撃を雫にもたらした。BBSでの関わりを除けば、逮捕された人間は雫の身の回りにはいなかったから、軽く絶句さえしてしまう。
「すみません。言いたくもないようなことを言わせてしまって」
「いえ、別に大丈夫ですよ。事実は事実ですし。それに謝られると、まるで彼女が後ろめたいことをしていたみたいじゃないですか。いや、確かに法律には違反していますし、胸を張れるようなことでもないですけど」
「すいません」と重ねて謝りたくなった自分を、雫はどうにか抑えて、ただ「そうですね」という返事をした。
それでも、シンプルな返事にいくつかの感情が渦巻く。驚きだったり申し訳なさだったり。
その中には「彼女」という単語への引っ掛かりも含まれていた。いくつもある代名詞から選ばれたその言葉に、つかず離れずの距離を感じる。
雫が向ける目を、平賀は訝しんでいると受け取ったのだろう。やがて小さく息を吐いてから、雫に向けてこう告げた。
「山谷さん、少し昔の話を聞いてもらえますか?」
そう言った平賀に、雫も小さく頷く。ここで「結構です」と首を横に振るのはあり得ないだろう。
再び一呼吸置いて、話し始める平賀。その目はどこか遠くを見据えているように、雫には見えた。