「山谷さん、今日高校へ少年相談に行ったんでしょ? どうだった?」
別所に雫がそう話しかけられたのは、この日の業務をあらかた終えて退勤しようとし始めた頃だった。
初めての鑑別所を出ての少年相談に少し疲れている部分はあったものの、急いで帰るような用事もなかったので、雫は手を止めて答える。
「はい。初めてのことで少し身構えていた部分はあったんですけど、それでも面談をした子、輪湖さんっていうんですけど、は思っていたよりも素直に質問に答えてくれて。色々とお話を聞けましたし、悪くはなかったと思います」
「それはよかったね。ちなみにどんな用件での面談だったの?」
「クラスメイトに対して暴行を加えたことと、未成年飲酒に及んだことですね。でも、話していてそこまで非行の程度が進んでいるとは、私はそれほど感じませんでした」
「なるほどね。次の面談はいつなの?」
「再来週の土曜日ですね。次は輪湖さんがこちらに来てくれる予定です」
「そう。意外とすぐだね。山谷さん、頑張ってね。面談がうまくいくよう、私も願ってるから」
「はい。私も輪湖さんの力になれるよう、精一杯頑張ります」
そう言った雫に、嘘はなかった。少年相談も、法律で規定されている少年鑑別所の重要な業務の一つだ。
別所も「その意気だよ」と言うように頷いていて、雫は心強い思いがする。
そんなときだった。隣に在席していた湯原に、「おい」と声をかけられたのは。唐突だったから少し驚きはしたけれど、それでも雫は「はい」と返事をする。湯原の目は、厳しささえ感じるほど冷たかった。
「俺は詳しいことは聞いてねぇけどさ、でもその輪湖って子が非行の程度が進んでないってのは、ちょっとありえねぇんじゃねぇの?」
そう横槍を入れてきた湯原に、雫はわずかに目を丸くしてしまう。「どうしてそう思うんですか?」と、半ば反射的に訊き返していた。
「だって、クラスメイトに暴行を加えたのって、立派な傷害事件だろ? 未成年飲酒も警察で補導して対処すべき案件だろうし、虞犯で引っ張ることも視野に入れるべきだろ。警察の世話になるような事由が二つもあって。よく退学にならずに済んでるなって思うよ」
「でも、面談で話した限りでは輪湖さんは、良い意味でも悪い意味でも素直そうでしたけど」
「だから何だよ。素直なら暴行も未成年飲酒も容認されるのか? それに、その子とお前は今日初めて会ったんだから、取り繕ってたり猫かぶってた可能性だってあるだろ。次の面談じゃ、もっと開き直ったりへそ曲がりな態度を取ることだって、考えられるんだぞ」
「確かに、その可能性はあるかもしれないですけど……。でも、どうして湯原さんはそう悪い方向にばかり考えるんですか?」
「あのな、俺から言わせれば、お前がどうしてそんなにポジティブな方にばかり考えられるのかの方が、よっぽど不思議だよ。何回か少年相談を担当すればお前も分かるよ。この仕事は少しも甘いもんじゃないってな」
自分の年齢ほどに長く少年鑑別所で働いている湯原の言葉に、雫は確かな説得力を感じた。配属されて三ヶ月ほどの自分に分かっていることは、それほど多くないだろう。まともな反論もできずに、雫は意気消沈しかける。
時刻は退勤時間を過ぎていたことに、別所から指摘されて雫は気づく。助け舟が出されたとばかりに、雫は「そうでした」と返事をして、帰り支度を再開した。
「お先に失礼します」と二人に告げて、雫は職員室を後にする。鑑別所を出た後も、雫の心にはうっすらとしたモヤがかかっていた。
宿舎に戻ってからも、雫の心にかかったモヤは、なかなか晴れなかった。スマートフォンを見ていても、本を読んでいても、夕食を食べていても、湯原から言われたことは未だに楔となって、刺さり続けていた。何をするにも、イマイチ身が入らない。
スマートフォンが通知音を鳴らしたのは、そんなときだった。待ち受け画面を見ると、別所から〝山谷さん、今日はお疲れ〟というラインが入っていた。またご飯の誘いだろうか。
夕食はもう食べてしまったんだけどなと思いつつ、雫はラインのアプリを開く。〝はい。別所さんもお疲れ様です〟と返信すると、次の瞬間に早くも既読の表示はついた。
〝うん。山谷さん、今日は大変だったね〟
〝あの、大変だったとは何のことでしょうか?〟
〝帰り際に湯原君から、戒めるようなこと言われてたでしょ? それがちょっとしんどかったんじゃないかなって〟
〝いえ、それなら全然大丈夫です。私もう何とも思ってませんから〟
〝そう? よかったらご飯でも食べながら話さない?〟
〝すいません。お誘いは嬉しいのですが、夕食はもう食べてしまいました〟
〝まあこんな時間だもんね。また、お互い都合のいいときにご飯食べ行こう〟
〝はい。ぜひ〟
別所が、自分を気遣ってくれることはありがたい。だから、雫も深く考えずにラインができた。心にかっていたモヤも少しずつ晴れていっていると感じる。
それでも、別所はやり取りをやめようとはしなかった。〝あのね、湯原君がああ言ってたのには、実は理由があるの〟と送られれば、雫も〝どういうことでしょうか?〟と、反応せざるを得ない。
〝あれは湯原君がここに配属されて、二年目だったかな。湯原君ね、虞犯少年を担当したことがあったの〟
〝虞犯少年、ですか?〟
〝そう。その少年は未成年飲酒を繰り返して、警察に補導された子でね。湯原君は法務技官として、その少年に心を砕いて対応した。もう定年でやめちゃった法務教官の先輩とも協力してね。で、湯原君たちの働きもあって、その少年は審判の結果不処分になったんだ〟
〝そんなことがあったんですか。でも、よかったじゃないですか、不処分になって。その子にとっては〟
〝ううん。そうじゃないの。不処分になってからも、その少年は未成年飲酒に及んでいたようでね。ある日、お酒を呑んだ状態で車を運転して、ひき逃げ事故を起こしちゃったの。虞犯で一度審判を受けてたから、家裁も厳しくてね。その少年は検察官送致になって、執行猶予付きだけど実刑判決を受けたんだ〟
別所が送ってきたラインに、雫はすぐに返す言葉を見つけられなかった。
検察官送致とは、家庭裁判所が成人事件と同じように地方裁判所で審理をすべきという決定を下したということで、事件を家裁に送ってきた検察に送り返すことから、通称「逆送」とも呼ばれる。保護処分に課すべきではないという相当に重い決定だ。
雫は動揺する。少し考えて返したラインは〝そうだったんですか……〟というありきたりなものだった。
〝うん。そのことを知ったときの湯原君の唖然とした表情は、今でも覚えてる。まるで不処分を提言した自分たちが間違っていた、保護処分になっていればこんなことにはならなかったんじゃないかと言うかのように。もちろん最後に決めるのは家裁だし、湯原君は何も悪くないよって私もフォローしたんだけどね。でも、湯原君は自分の仕事を悔いていて、そのときはいたたまれなかったな”
〝もしかして、湯原さんは輪湖さんに、その少年のことを重ねていたりするんでしょうか?〟
〝それは分からないよ。でも、もしかしたらその可能性はあるかもしれない。こう言うのもなんだけど、別に珍しいことじゃないのに、今でも敏感になってるのかも〟
そう送ってきた別所にも、雫には頷けた。そんな経験があったのなら、未成年飲酒をした少年に対して構えてしまうのも、当然のように思える。
加えて雫は、塩入のときの判定会議も思い出していた。あのとき湯原は、不処分に最後まで懐疑的な姿勢を示していた。それも、その少年のときの苦い経験があったからなのだろうか。
〝でも、まあ輪湖さんの担当は山谷さんだからね。湯原君が言ってくることにも振り回されずに、自分が適切だと思う対応を取ればいいんじゃないかな〟
〝別所さん、フォローしてくださってありがとうございます。別所さんにそう言っていただけると、やはり心強く感じられます〟
〝うん、そう言ってくれてこっちも嬉しいよ。じゃあ、また明日ね〟
〝はい。また明日〟
最後にそう簡単なラインを送り合って、雫たちのやりとりは終了した。
雫はそのまま、スマートフォンでSNSを見続ける。箸にも棒にもかからない投稿が、雫の心をわずかに落ち着ける。
別所に励まされて、雫はいくらか平静を取り戻せていた。湯原の事情が一部分でも分かったことも大きい。
雫には明日何事もなかったかのように、湯原と顔を合わせられそうだった。