須藤からのメールが届いてから三日後。その少年の担当に指名された雫は、再び長野今井高校へと向かっていた。まだ不慣れな公用車を注意深く運転しながら、高校の近くにある駐車場に車を停める。
職員通用口から入り、今度は二階の職員室の隣にある相談室に通される。応接室と比べるとやや手狭なその空間には、二脚並べられた長机を挟むようにして、四脚のパイプ椅子が置かれていた。壁際の本棚には手引書や参考書がずらりと並べられているものの、南向きのすりガラスからは日の光が差し込んできていて、穏やかな暖色をした壁紙と合わせて、そこまでの圧迫感は雫にはない。
雫がパイプ椅子に腰かけて待っていると、やがてホームルームの終了を告げるチャイムが鳴った。それを機に校舎内は一気に騒がしくなり始める。
相談室のドアが開いたのは、チャイムが鳴ってから、五分が経った頃だった。
まず少し背の高い、中年と思しき男性教師が入ってくる。そして、その後に雫が今日面談を行う少年が続けて入ってきた。背は男性教師に比べると少し低いものの、身体つきはがっちりとしていて、何かの運動部に入っている、もしくは入っていたことを雫に思わせる。
雫は立ち上がって、穏やかな表情を少年に向けた。丁寧な声色を意識して、声をかける。
「はじめまして。
雫がそう挨拶をすると、輪湖は小さく首を振った。表情には少し固く、初めて会う雫に少し緊張しているようだ。
担任である
「輪湖さん。私は本日、教頭先生である須藤先生から相談を受けて、こちらにやってきました。もちろん、輪湖さんがしたことを責めたり断罪することはしません。今日はまず輪湖さん自身から、お話をお伺いしたいと考えています。ですので、どうぞ固くなりすぎることなく、落ち着いて答えてくださいね」
返事をした輪湖の声や表情からは、やはりまだ固さは抜けきってはいなかった。落ち着けと言われて、逆に焦っているのかもしれない。
そのことは雫にも織り込み済みだったから、まずは軽い話題から始めて、輪湖の緊張をほぐすことを試みた。
「では、お話を始めていきましょうか。そうですね。輪湖さんは今、何か部活に入っていたりはしますか? もし差し支えなければ教えてほしいのですが」
「えっと、バスケ部に入っています」
「そうですか。道理で鍛えられた身体つきをしていると思いました。あの、ポジションはどこになるんでしょうか?」
「……山谷さん、バスケ知ってるんですか?」
「正直に言うとあまり詳しくはないのですが、それでも教えていただきたいなと」
「そうですね……。俺はシューティングガードをやることが多いかもしれないです。スリーポイントシュートを打ったり、ドリブルで切り込んでいったり。バスケの神様、マイケル・ジョーダンは知ってますよね? そのポジションです」
マイケル・ジョーダンについても、雫は辛うじて名前を聞いたことがあるくらい、バスケットボールには疎かった。でも、うっすらとだがイメージは掴めたから「そうなんですか。では、スリーポイントシュートが、輪湖さんは得意なんですか?」と話を繋げられる。
「まあ、他のポジションの選手に比べればの話ですけど」と輪湖も応えていて、雫を拒絶する様子は、少なくとも今の段階では見られなかった。
それからも、雫はまずはバスケットボールのことを引き続き訊いたり、何か趣味はあるかといったことを尋ねて、面談を本題の問題行動について訊きやすい流れに持っていくことに、心を砕いた。
輪湖も雫が訊いたことにはきちんと答えを返してくれていて、会話をする姿勢を示している。
それでも、初回面談ということもあり、今日はそこまで長く輪湖を拘束することはできない。長くても一時間が限度だろう。だから、雫はどこかのタイミングで思い切って問題行動について踏み込む必要があった。
意を決して「それでは、そろそろ私が今日ここに来た目的についての話をしていいですか?」と切り出す。輪湖も改まったように頷いて、相談室に流れる緊張はよりその色を濃くした。
「変に回りくどい言い方をしても、輪湖さんにいらない負担をかけるだけなので、単刀直入に言いますね。輪湖さんは先月の二七日に、クラスメイトである
雫がそう訊いてみても、輪湖はすぐには答えなかった。認めたらどうなるかを、考えるかのように。小林を含む大人二人の視線を浴びて、少し間を置いたのちに「はい、そうです」と答える。
しかし、その表情はどこか不満げだった。
「そうですか。スクールカウンセラーの先生からは『谷口さんたちの話し声がうるさくて、思わず殴ってしまった』と、輪湖さんが話したと聞いているのですが」
「そこまで聞いてるなら、もう特に話すことはないです。谷口くんたちは、他の生徒のことなんてまるで気にしていないかのように、大きな声で騒いでいて。俺も一学期は何とか我慢できましたけど、でも二学期に入って一二月までこれが続くのかと思うと、耐えきれなくなってしまいました」
「そうですか。それは大変でしたね」
「はい。今回のことは耐えきれなかった僕も悪いんですけど、でも原因を作ったのは谷口くんたちの方なんです。なのに僕ばかりが停学になって。不公平じゃないですか、こんなの」
よほど不満だったのだろう。輪湖は小林もいるにも関わらず、そう口にしていた。
奥底に怒りが滲むその口調に、いくら相手にも原因があるかもしれなくても、血か出るくらいまで殴ったら誰でも停学になるだろうとは、たとえ思っていたとしても雫には言えなかった。
「輪湖さん。確かに気に入らない相手を殴打することは良くないことです。それでも、停学処分がふさわしかったかと言われれば、輪湖さんの言葉を聞く限りでは私には思えません。それにもかかわらず停学処分になったのは、他にも何か理由があったのではないですか?」
そう雫が尋ねると、輪湖は押し黙ってしまった。目もテーブルに向いてしまっている。
話したくないことなのだろう。その気持ちは雫にも理解できたが、ここで言葉を収めるわけにはいかなかった。
「輪湖さん。こういったことは言われたくないでしょうが、それでも必要だから言いますね。輪湖さんは今年の五月に未成年飲酒をして警察に補導されていますよね? そのことでいわば、学校から一枚イエローカードを出された。それに谷口さんを殴打したことが重なって、いわばもう一枚イエローカードを出されて、レッドカードになってしまった。それが先の、停学処分だったのではないですか?」
雫の問いに、輪湖はまた少し考えた後に、「そう思います」と返事をしていた。もうごまかせないと思ったのかもしれない。
「輪湖さん。私はスクールカウンセラーの先生から、『未成年飲酒は学外の友人に勧められて行った』と聞いています。そこのところを、もう少し詳しく聞かせていただけませんか?」
「は、はい。今は別の高校に通っているんですけど、中学時代に仲の良かった友達から『一緒に呑もうぜ』と言われたんです。その友達には五つ年上の兄がいて。お酒はその兄から貰っていたようです」
「そうなんですか。『一緒に呑もうぜ』と言われたときに、断る選択肢は輪湖さんにはなかったんでしょうか?」
「えっ……、それ断れなかった俺のことを責めてますよね……?」
「いえ、そんなつもりで言ったわけでは……」
「いいですよ。俺も今は、最初に勧められたときに断っておけばよかったって、思ってますから。でも、俺はこの先もその友達との関係を続けたくて。断ったら、そこで関係が途切れてしまう気がしたんです。こんなこと言っても、そんな友達ならいらないって思うだけかもしれないですけど」
「いえ、友人関係を継続させたいがために誘いを断れなかったケースは、未成年飲酒には頻繁に見られるものですから。輪湖さんだけが特別なわけではないですよ」
大学や研修で教わった知識をもとに雫がフォローを入れても、輪湖は曖昧な反応しか見せなかった。「他の少年のケースを持ち出されても」と感じているようで、雫はかすかな焦りを抱く。
それでも、雫は気を取り直してより詳しい飲酒状況を輪湖から訊き出すことに努めた。輪湖も言葉数は少なくなっていたが、それでも正直に雫の質問に答えてくれる。
小林も交えた三人の面談は、予定通り一時間も経たないで終わった。「今日はありがとうございました」と礼を言い、雫は校舎を後にする。
外に出ると、来たときにはなかった雲が太陽を覆い隠していた。
(続く)