須藤たちとの顔合わせを終えて鑑別所に戻ってくると、雫はすぐに平賀から一件のファイルを渡された。表紙には「薬物乱用防止教育資料」と書かれていて、「今回は僕がメインで話しますけれど、山谷さんも目を通しておいてください」と言われる。
雫が頷くと、平賀はすぐに自分の机へと戻っていっていた。雫も今日は比較的余裕があったから、自席に戻ってすぐに手渡された資料を開く。
バインダーで綴じられた資料は、用紙の右側にパワーポイントのスライドが表示されていて、左側には実際に講演する際の説明が記載されていた。一枚一枚目を通す。
違法薬物の種類や、違法薬物が脳に快楽を与える仕組み。しかし、それには強い依存性があり、使い続けると心身ともに蝕まれていってしまうこと。違法薬物は所持しただけで罪に問われ、依存症から回復することは容易ではないこと。だから、心身ともに健康な生活を送るためにも、違法薬物は「ダメ。ゼッタイ。」
雫も全て目を通すのには一〇分ほどかかり、実際に説明して生徒からの質疑応答の時間も設けたら、授業一コマ分の五〇分は優に経ってしまうだろう。平易な言葉で分かりやすくまとめられていて、多くの生徒の記憶に定着しそうだ。
「平賀さん、目を通しました」読み終えた雫は、平賀にファイルを返却しにいく。
でも、平賀は「いえ、それは山谷さんが持っていてください。これから実際に講演をする日まで、何度も読んで内容を覚えておいてください」と返事をしていた。
雫は、言われた通りにせざるを得ない。もとより一回目を通しただけで、全ての内容を記憶できるはずはないのだ。
「分かりました」と返事をして、ファイルを手にしたまま自分の机に戻ろうとする。でも、歩き出そうとした瞬間に平賀に声をかけられた。
「あの、山谷さんはその資料を読んでどう感じましたか?」
平賀にそんな言葉をかけられるとは思っていなかったから、雫は目を丸くしそうになってしまう。意外に思う気持ちを押し込めて、言葉を探した。
「そうですね……。当たり前ですけど、違法薬物の害についてとても分かりやすくまとめられた、適切な資料だと思いました。違法薬物がどれだけ人の人生を狂わせてしまうかが、説得力を持って記述されていて。説明を受けた生徒さんたちへの薬物乱用の防止効果は、確かにあると感じました」
自分の返事を聞く平賀の表情が、雫にはほんの少しだけれど澱んでさえ見えた。何か気がかりなことでもあるのだろうかと、邪推しそうになる。
「そうですよね。薬物乱用は『ダメ。ゼッタイ。』ですからね」と言った声は、言葉とは裏腹にそれほど力強くはなかった。
「そうですね。この資料なら、長野今井高校の生徒さんたちもそのことを分かってくれるはずです」
雫がそう答えても、平賀は小さく頷くだけだった。自分の中のあやふやなものを、適した形に当てはめるかのように。
それでも、雫が何か訊くよりも先に「では、僕は
平賀は必要なものを手にすると、足早に職員室を後にしていっていた。一人残されて、雫も自分の机に戻る。
パソコンに向かって、少年との面接記録を整理する。その間も平賀が取ったどこか普通ではない態度は、雫の心に引っかかっていた。
去年買ったばかりの自家用車を運転して平賀が着いたのは、国道沿いにあるファミリーレストランだった。店以上に広い駐車場に車を停め、入り口へと向かう。
店内は流れるBGMと食事をする客の会話で、騒がしさに満ちていた。
普段あまり一人で訪れることのないファミリーレストランに平賀がやってきたのは、ある人物に誘われたからだ。そして、その人物は平賀が入ってくるなり、スマートフォンから顔を上げて「太地、こっち」と声をかけてきた。名前を呼ばれて、平賀も隣に腰を下ろす。
「わりぃ、
「いいよ、別に。先、名前書いといたから。さっき一つ前の人が呼ばれてたから、たぶんもうすぐ呼ばれると思う」
「ああ、ありがとな」
「家、この辺りなのか?」「まあ歩いて一〇分くらいかな」そんな簡単な会話を二人が交わしていると、すぐに店員がやってきて、「二名でお待ちの嵯峨様ー」と平賀たちを呼んだ。
一番奥の席へと通され、椅子に腰を下ろすやいなや、友梨佳はすぐにメニューを手に取っていた。「何頼もっかなー」と口にしている姿は、平賀にとっては懐かしさを覚えるものだった。
「なあ、家から歩いて一〇分ってことは、今日は歩いて来てるんだよな。なんか呑むか?」
「太地は何か呑むの?」
「いや、俺は車で来てるから。頼めたとしてもノンアルのビールくらいだ」
「そっか。じゃあ、私も何も呑まないでおく。ドリンクバーにするね」
「そんな。俺に遠慮しなくてもいいのに」
「いや、遠慮なんかしてないよ。私、お酒は呑まないことにしてるから。太地だって分かるでしょ?」
「そうだった。わりぃ。変なこと訊いちまって」
「いいよいいよ。それよりさ、なんか二人でサラダでも頼む? ほら、一人暮らししてると野菜摂りづらいでしょ?」
そう言ってきた友梨佳に、平賀も「ああ、そうだな」と頷いた。お互い今は一人暮らしをしていることは、同窓会のときに話して分かっている。
二人はそれからも少し話しながら注文する料理を決め、タブレット端末を手にした。平賀がカルボナーラ、友梨佳がハヤシライス、それに二人で取り分けられる量のシーザーサラダにドリンクバーを二人分。
注文を済ませると、二人はさっそくドリンクバーを取りにいく。ジンジャーエールを注いでいる間も、店内は家族連れや職場の仲間、友人同士と思しき人々の声で騒がしく、加えてまだ何人かがテーブルが空くのを待っていたから、あまり腰を落ち着けられる雰囲気ではないなと平賀は感じた。
「なぁ、やっぱここちょっとうるさくないか?」
ジンジャーエールを飲むと、平賀は思わずそう口にしていた。それでも、ジャスミンティーに口をつけている友梨佳に、不快そうにしている表情は見られない。
「そう? 別にそんなことないと思うけどな。太地はもっと静かなとこがよかった?」
「まあ、本音を言えばな」
「うーん、でも私もそんなにお金あるわけじゃないからなぁ。それに落ち着いた雰囲気のバーとかにしてたら、それこそお酒呑みたくなっちゃいそうだし」
「いや、別にそこはノンアルでいいだろ」
「いやいや、そういうバーでノンアルって頼みづらくない? それに静かな方よりも少し騒がしい方が、私は逆に落ち着くし」
「でも……」
「でも、何? 太地はそんなに人には聞かれたくない話をするつもりだったの?」
「いや、そういうわけじゃねぇけど……」
「じゃあ、いいでしょ。せっかくこうしてまた会えたんだし、ゆっくり話してこうよ」
ここは、なんてことのない表情をしている友梨佳に合わせるべきだろう。そうは思っても、友梨佳と向かい合って座っていると、平賀には後ろめたい気持ちがじわじわと湧いてくる。自分がここにいていいのかとさえ、感じてしまう。
でも、一度会ったからにはすぐ帰ることは平賀には気が引けたし、加えて厨房の方から陽気な音楽が鳴りだしたことを耳は捉える。モニターに猫の顔が表示された、配膳ロボットだ。
普段あまりファミリーレストランには行かない平賀は、物珍しくて目が離せない。「何? 太地、このロボット初めて見たの?」と、友梨佳に軽くからかわれてしまうほどに。
配膳ロボットは平賀たちのテーブルの前で停まった。二人前のシーザーサラダを手に取って、慣れた手つきで友梨佳が完了ボタンを押す。配膳ロボットは文字通り猫なで声を出して、厨房へと戻っていった。
「俺が取り分ける」「いやいや私がやるよ」とお互いに主張した末に、二人はそれぞれ自分の分のサラダを取り分けた。「いただきます」と心の中で言った平賀に対して、友梨佳はちゃんと手を合わせてまで「いただきます」と口にしていた。
「うん、美味しい」と言った友梨佳に続いて、平賀もシーザーサラダを一口口に運ぶ。チーズの爽やかな酸味が、良いアクセントになっていた。
「ああ、美味いな」
「いやー、まさか太地とまたこうして二人きりでご飯食べられるなんて、思いもしなかったなぁ。今日まで何とか毎日を過ごしてきてよかったって思うよ」
友梨佳が澄ました表情で言うから、平賀が感じる後ろめたさはかえって大きくなっていく。そんなことを言うのは、店内の浮かれた雰囲気には似合わない。
それでも、平賀はそう口にせずにはいられなかった。
「友梨佳、本当にごめんな」