「山谷さん、少しいいですか?」
そう雫が那須川から声をかけられたのは、九月も終わりが見えてきたある日の全体朝礼が終わった後だった。
「はい、何でしょうか」と答えながら、雫は気持ち背筋を正す。那須川からこうして個別に声をかけられるのは、今週に入って初めてのことだ。
「山谷さんは少年非行を減らすには、どのような方法が効果的だと思いますか?」
那須川の質問は法務技官という仕事に就いたからには、雫にも考えなければならないことだった。
とはいったものの、雫は日々の仕事に取り組むことに精一杯で、そのようなことを考えていられる余裕はまだなかった。
「えっと、もっと取り締まりを強化したり、問題を抱えている子供や家庭へ非行に及ぶ前に、福祉や医療が介入するなどですか……?」
「確かにそれも一つの方法ではあります。でも、もっと他に何かありませんか?」
「となると、学校で法教育を行ったりとかですか? 非行には及ぶべきではないことや、もし逮捕されたらそのあとにどんな流れになるかを、子供たちに知ってもらうとか……?」
少しおずおずと答えた雫にも、那須川は我が意を得たりといったように頷いていた。その表情に、雫は那須川が自分に声をかけてきた理由を、それとなく察する。
「山谷さんが言う通りです。山谷さんも少年鑑別所の業務には、地域援助の側面もあることはご存知ですよね?」
雫は当たり前のように頷く。
少年鑑別所は「法務少年支援センター」という名前も持っており、地域の一般住民への相談支援や関係機関への研修や講演も行っている。雫はまだそのどちらも担当したことがないが、先輩である湯原が、地域住民から少年に関する相談を受けている姿は、何度か見たことがある。
ここで働いていく上では、遅かれ早かれしなければならない業務だ。自分にもいよいよそういった業務が割り振られるのだと思うと、雫は緊張せずにはいられない。
「山谷さん、単刀直入に申し上げます。今回山谷さんには、長野今井高校の一年生への法教育をお願いしたいのですが、引き受けていただけますか?」
ここで「いいえ、すみません」と首を横に振ることは、自分には許されていないと雫は直感する。自分が断ったら、他の職員に負荷がかかってしまう。
どのみち経験する業務だから、首を縦に振らなければならないとは、雫も思う。だけれど、いきなり依頼されて、まだ受け止めきれていないことも、また事実だった。
「あの、それは私一人で担当しなければならない業務なんでしょうか……?」
「いえ、山谷さんだけではなく、平賀さんと一緒にこの業務には当たっていただきたいと考えています」
「そうですか。一人でやらなければならないのかと思ったので、そう聞いて少しほっとしました。謹んで引き受けさせていただきます」
「分かりました。平賀さんにももう話はしてあり、承諾も得ていますので安心してください。さっそく明後日に長野今井高校の教頭先生や、学年主任の先生と顔を合わせる機会がありますので、よろしくお願いしますね」
「はい」と雫が頷くと、那須川は伝えたいことは伝え終わったと言うかのように、自分の机に戻っていった。
今、平賀は少年の行動観察を行っていて、職員室にはいない。後で戻ってきたときには、一言声をかけようと思いながら、雫は少年の調査票に目を通す。
今日は先週入所してきた少年への、二回目の鑑別面接が予定されていた。
二日後、雫は平賀が運転する公用車で、長野今井高校を訪れていた。昭和に設立された年季の入った校舎が、雫たちを迎える。
授業中なのか、静かな校舎内に職員通用口から入る。通された一階の応接室は、暖かな茶色のソファが柔らかな印象を与えてくる。窓際には花が生けられ、壁際にはいくつかのトロフィーがガラスケースに並んでいる。
職員に「どうぞおかけになってお待ちください」と言われて、ソファに腰を下ろしても、雫の緊張は止まなかった。今までも数回学校の応接室を訪れたことはあるが、この改まった雰囲気にはまだ慣れない。
平賀と少し言葉を交わしながら待っていると、二人の教師が連れ立って応接室に入ってきた。カーキ色のスーツを着た中年と思しき女性と、同じくらいの年に見える紺色のジャケットを羽織った男性だ。
二人を見るなり、雫たちは立ち上がる。どちらが教頭でどちらが一年生の学年主任なのか、一目見ただけでは雫には判断がつかなかった。
「平賀さん、山谷さん。本日はお忙しいところ、わざわざ足を運んでくださりありがとうございます」
ソファの前に立った女性が、穏やかな声を出す。雫は平賀とともに「いえいえ」と謙遜した。
「私、この長野今井高校の教頭を務めさせていただいています、
差し出された須藤の名刺を、雫たちは受け取る。所属と名前、簡単な連絡先が書かれたシンプルな名刺が、雫が感じる緊張をまた一段と高めた。
「同じく、一年生の学年主任をしています、
同じようにして茂木の名刺を受け取って、雫は顔を上げる。眼鏡の奥の目は穏やかで、外部の人間と話すことにも慣れているようだった。
雫たちも須藤たちに名刺を渡すと、四人は腰を下ろした。校舎が静かなことも相まって、須藤たちと向き合っていると、雫は早くも喉が渇くような心地を覚えてしまう。
それでも平賀は緊張していないかのように、落ち着いた口調で話を切り出していた。
「須藤先生、茂木先生、今回は私たち少年鑑別所に法教育を依頼してくださってありがとうございます」
「いえいえ、この先生徒たちが卒業して、社会生活を送っていくには、法教育の知識は必要だと思いましたから。それで、校長である生田(いくた)に相談したところ、少年鑑別所が適任ではないかと提案されまして。少年鑑別所は地域援助の業務も受け持っていらっしゃるんですよね?」
「はい。地域の方々から少年に対する相談を受けつけたり、こういった学校などの関係機関に、研修や講演を実施しています」
「そうですか。それは心強いです」
平賀と須藤は、軽い話題から話を始めていた。応接室に流れるどこか固い空気を解そうとしてのことだろう。
だけれど、そんななかでも雫はうずうずしてしまう。緊張はまだなくなっていなくて、逸る気持ちが口をついて出る。
「あの、それで今回須藤先生たちは、どういった内容の法教育をお望みなんでしょうか?」
堪えきれずそう口にした雫を、平賀は咎めなかった。いずれ訊くことだったのだろう。
須藤たちも穏やかな表情を保っていて、茂木が雫の質問に答える。
「はい。僕たちは今回お二人に、薬物乱用防止教育をお願いしたいと考えています」
その言葉を聞いた瞬間、隣に座る平賀の表情がほんの一瞬だけれど、ピクリと動いたような気が雫にはした。
でも、それは本当に瞬きをする間のごく短い時間で、平賀はすぐに表情を落ち着いたものに戻していた。さりげない雰囲気に、雫が感じたかすかな違和感が幻に思えるほどだ。
「なるほど。薬物乱用防止教育ですか」
「はい。大麻や覚醒剤は持っているだけでも罪に問われますし、使ってしまったら依存症に陥って、人生を台無しにしてしまう可能性だってある。そのことを生徒たちにも知ってもらいたいんです。薬物のせいで人生を棒に振ることがないように」
須藤の言い方は違法薬物に対する強い嫌悪感を帯びていたが、それでも生徒たちの卒業してからの人生を考えると、雫にもその気持ちは分かる部分もあった。
「そうですね。薬物乱用防止教育には、全国の少年鑑別所で使用している共通の教材がありますので、今日中にでもメールで送らせていただきますね。それを確認していただいて、何か意見がおありでしたら、遠慮なく申してください。僕たちも可能な範囲で対応させていただきます」
「分かりました。ご連絡のほどをまたお待ちしております」
そう言ってくる須藤に、雫たちも頷いて了解する。それはもう、今日の顔合わせの目的が果たされたことを意味していた。もう失礼した方がいいのか、雫は判断がつかない。
それでも、平賀はまだ帰ろうとはしていなかった。「あの、せっかく僕たちがこうしていることですし、先生方の方から生徒について、何か相談したいことはありますか?」と尋ねている。
それでも、須藤たちは少し考え込むような素振りを見せた後に「そうですね……。今は特にはないですね」と答えていた。唐突に訊かれて、思いつかなかったのかもしれない。
平賀は「そうですか。また何かあったらいつでも連絡してくださいね」と穏やかな表情を崩さない。
その一連のやり取りを雫は、膝の上に手を置いたままで聞いていた。「本当にないんですか?」と須藤たちに尋ねることは、失礼すぎてとてもできなかった。