朝から降り続いていた雨は、雫が退勤する頃になって、ようやく上がった。体力的によりも精神的にすり減っていた雫にとっては、数少ない救いだ。
宿舎に戻って部屋着に着替えた雫は、ベッドに横になる。今日は一日中気を張りっぱなしだったから、仮眠を取って心身を休めたい。
目を瞑って呼吸を整える。鑑別所を退所していった大石のことや明日からの仕事のことなどで、雫の頭はこんがらがっていたが、それも次第にほどけていくようだった。
雫が目を覚ましたときには、夜の七時半を過ぎていた。雲の隙間からかすかな夕日が覗いていた空は、とっくに暗くなっている。
少し寝すぎたかなと思いつつも、雫は身体を起こす。とりあえず夕食を作ろう。そのためにはまずご飯を炊かなければ。
そう思って、雫がベッドから起き上がろうとしたその瞬間だった。枕元に置いていたスマートフォンが振動したのだ。
手に取って画面を見てみると、待ち受け画面に浮かんだ通知は、真綾からのラインが来たことを知らせていた。
〝雫、今日はお疲れ〟
何気ないラインに、雫もすぐにアプリを開く。トーク画面を表示して、矢継ぎ早に返信を打ちこんだ。
〝はい、お疲れ様です。真綾さんも仕事終わったんですか?〟
〝うん、今帰ってきたとこ。でも雫、今日は疲れたでしょ。担当してた大石さんの審判の日だったんだから〟
〝いえ、私はただ待ってただけですから。それを言ったら、真綾さんこそ疲れてるんじゃないんですか? 真綾さんも大石さんの審判に出席してたんですよね?”
〝まあそれはそうだけど、でも比較的早めに終わったからそこまで疲れてはないよ。でも、雫は審判の結果が出るまでの間もドキドキしっぱなしだったんでしょ。今日はゆっくり心身を落ち着けなね〟
〝はい、そうします〟
真綾とのラインを続けることに、雫は何のためらいもなかった。確かに腹は少し空き始めたけれど、でもまだ持ってくれるだろう。
雫が送ったラインにも、真綾は即座に既読をつけてきて、雫の心は多少なりとも癒やされる。
だから、〝ねぇ、雫。ちょっと今日の大石さんの審判の話をしていい?〟と真綾に切り出されても、狼狽えることはなかった。シンプルに〝はい、大丈夫です〟という返信をする。
真綾がそのためにラインを送ってきたのは、雫にも何となく分かっていた。
〝私さ、調査票には大石さんは保護観察処分が適当であるって書いたんだ〟
そう送ってきた真綾に、雫は〝そうなんですか?〟と返信しつつ、これは人には言えない話だと感じた。誰かに言いふらすことなく、二人の間だけに留めておけば守秘義務も守られるだろう。
〝うん。大石さんは逮捕されるのもこれが初めてだったし、面接をしていても、まあ態度はあまり良いとは言えなかったけれど、少年院送致にしなくても保護観察処分で反省することは、十分に可能だと感じたから。だから、鑑別所から『少年院送致が適当である』って書かれた通知書を見たときは、ちょっと驚いちゃったんだ〟
〝あの、言い訳に見えるかもしれないんですけど、私は判定会議の場で真綾さんと同じ保護観察処分が適当だと、意見しました。話し合いの末、結果的には少年院送致で通知書には記載されてしまいましたけど〟
〝いや、いいよ。別に、雫をはじめとした鑑別所の人たちを責めたいわけじゃないから。三週間鑑別を行って、話し合いの結果提出した通知書なんでしょ。処遇意見が違ってもそれはあることだし、私は何とも思ってないよ”
〝でも、家裁の調査票と鑑別所の通知書で異なる処遇意見が記載されていたことで、裁判官の方たちは迷ってしまったんじゃ……〝〟
〝雫、それはないよ。今考えてみれば、今回の大石さんに対する処遇は、補導委託試験観察が適切だったと私も思ってるから。それに、家裁と鑑別所の処遇意見が一致しても、その通りの処遇になるとは限らないからね。あくまでも決めるのは裁判官たちだから〟
〝確かにそれはそうですね〟
〝そうでしょ。裁判官たちは大石さんの反省の程度もそうだけど、両親が一回も面会に来なかったことが気がかりだったみたいで。実際私がご両親に話を聞きにいったときも、二人は拒絶はしていなかったけれど、それでも言葉の節々から嫌そうな感じは漏れてたからね。両親の監護に期待するのは難しいって、裁判官たちが判断したのも無理ないと思う〟
〝それは私も、今日初めて二人に会ってみて感じました。態度は穏やかでも、やっぱり大石さんに対してあまり関心を抱いていないんだなと〟
〝そうだよね。今日審判で私が会ったときにも、二人は良い親だと取り繕ってた。悪い言い方をすれば、猫を被ってた。そんなことしても、処遇意見が変わるわけじゃないのにね〟
〝あの、補導委託試験観察ってことは、これからも真綾さんは大石さんに関わっていくんですよね〟
〝まあね。月に一度の面接に加えて、補導委託先の方からも定期的に報告を受けることになってるから。四ヶ月の補導委託試験観察で、大石さんにはどんな処遇が適当なのかを改めて見極めるよ〟
〝あの、これは私が言うセリフじゃないかもしれないんですけど、大石さんのこと改めてよろしくお願いします。どうか一番、大石さんのこれからの人生のためになる処遇を与えてください。私もたとえ一時的にでも大石さんに関わった人間として、大石さんが再非行をせず平穏な人生を送ってくれることを願ってますか〟”
〝うん、分かってるよ。雫たち鑑別所の人たちが今日までにしてくれたことは、決して無駄にはしないから。通知書もまた参考にさせてもらうしね。任せといて。絶対、大石さんにとって一番適した処遇を出すから〟
〝はい、お願いします〟雫がそう送ると、真綾は胸を叩く猫のキャラクターのスタンプを返してきて、雫の頬は緩む。画面の向こうにいる真綾が、とても頼もしく思える。
雫も「がんばれ!」という書き文字が添えられた、同じ猫のキャラクターのスタンプを送る。それっきり真綾から返信はなかったけれど、やり取りが終わったことは雫も察していたから、構わなかった。
スマートフォンを充電器に繋いで、キッチンに向かう。外から聞こえる虫の声は、もう蝉のそれではなくなっていた。
その日、平賀は夕方の六時には勤務を終えて、宿舎に戻っていた。普段なら缶ビールで、今日も一日頑張ったとささやかな晩酌をしているところだが、この日は少し勝手が違う。
ラグランシャツに薄手のカーディガンを羽織って、部屋を出る。最寄りのコンビニエンスストアまで歩く間にも、空はすっかり暗くなっていて、かすかに涼しい風が頬に当たっていた。
コンビニエンスストアに到着すると、配車アプリで呼んだタクシーは、既に駐車場に着いて待っていた。乗り込んだ平賀は、「長野駅の善光寺口までお願いします」と告げる。
発車したタクシーは、角を曲がるとすぐに大通りに入る。道はほとほどに空いていて、平賀は信号にもあまり引っかからずにスムーズに駅へと向かえていた。
一〇分ほどかけて、タクシーは長野駅善光寺口のロータリーに到着した。目の前のスクランブル交差点には、この時間帯でも多くの人が行き交っている。
それでも、この日の平賀の目的地は、交差点の先にはない。
タクシーを降りて平賀は、駅舎に沿うようにして歩き出した。そこには、一分もかからず辿り着く。駅に隣接した大型ホテル。ここがこの日の平賀の目的地だった。
入り口をくぐって、開放感のある広いロビーを突っきって、エレベーターに乗る。目的の部屋は二階にあったから、すぐに辿り着いた。
第一宴会場の入り口に、「長野西口高校平成二一年度卒業生同窓会様」との表示が書かれているのを、平賀はすぐに見つける。受付に立っていた男女は、紛れもなく平賀と同じ年度の卒業生だが、平賀にはさほど面識がない。おそらくクラスが違っていたのだろう。
名簿と照合するために、かつて自分が所属していたクラスを口にすると、平賀はどこかこそばゆい感じがする。
平賀が高校を卒業してから一五年が経ったこの日、同窓会はようやく開かれていた。
いざ足を踏み入れてみると、室内は平賀が想像していた以上に広かった。テニスコートを何面も合わせたかのような室内に、いくつものシャンデリアの明かりが降り注いでいる。何十もの丸いテーブルに、既に平賀と同じ年度の卒業生がそれぞれ集まって、めいめいに話している。
立食パーティー形式だから、壁に沿うようにして何十種類もの料理が並んでいて、入り口にいても香ってくるかぐわしい匂いに、今から目移りがしてしまいそうだ。スーツやドレスといったフォーマルな格好をしている人も見受けられ、普段着で来た自分が少し気恥ずかしくなってくる。
それでも、平賀はぐるりと室内を見回し、同じく普段着の一団のもとへと向かっていった。テーブルを囲んでいた三人は平賀がやってくるのに気づくと、手招きさえしている。
テーブルに到着して、声をかけ合いながら軽いハイタッチを交わす。それだけで、平賀は自分が高校時代に戻っていくような感覚がした。
「平賀、久しぶりだよな。卒業式のとき以来だから、もう一五年ぶりになるか」
感慨深そうに声をかけてきた
「お前、卒業してすぐ東京の大学行っちまったもんな。ここに残った俺たちとは違って」
そう言う
「まあ、一回東京で暮らしてみたかったしな」
「確か心理学部だったっけ? お前が行ったの。じゃあ、何か? 今は心理士にでもなってんのか?」
「いや、それとは違うかな。今はここの少年鑑別所で働かせてもらってるよ」
「少年鑑別所? それって少年院みたいなとこか?」
「よくごっちゃにされるけど大分違うな。少年院は矯正教育を施すところだけど、少年鑑別所はその前、非行に及んだ少年の処遇を決める場所だから」
「へぇ、なんか大変そうだな」
「まあ、それなりにはな。で、お前らは今何やってんだよ? ちゃんと仕事してんのか?」
「失礼だな。俺らだって仕事してるっつうの。俺は川中島で個別指導の塾の講師してるよ」
「俺は普通に東京で会社員だな。日々ソフトウェアを作ってる」
「俺は京都でバスの運転手してるぜ。今はとにかく外国人観光客が多くて。説明するにも一苦労だよ」
「なるほどな。まあよかったよ。こうして卒業から一五年経って、また顔を合わすことができてさ」
「そうだな。お互い色々あったとは思うけど、とりあえずは再会できて万々歳って感じだ。あっ、そうだ。秋名(あきな)先生も今日来てるからさ、後で挨拶行っとけよ。お前も世話になったろ」
「ああ、後で行っとくわ。それでさ、ひとまず料理取りに行っていいか? もう腹減っちゃってさ」
「ああ、いいぜ。じゃあ、また後でな」
「ああ、また」そう声をかけて、平賀は金子たちのもとからいったん離れて、料理を取りに向かった。バイキング形式で、和洋中様々な料理が並んでいる。
トレイを手に取った平賀は、じっくりと料理を選び始めた。サラダから玉子焼き、ハンバーグ、鶏の唐揚げ。本当はいくらでも食べたいが、皿一杯に盛るのは子供みたいに思えて、気が引けた。
ほどほどの量を盛って、グラスに注がれたシャンパンも一緒にトレイに載せる。ひとまずはこれでいいだろう。
そう思い、金子たちの元に戻ろうとした瞬間だった。「太地、久しぶり」といきなり声をかけられたのは。
平賀は一瞬驚いてしまう。そこに立っていたのは、今も昔の面影を色濃く残した、平賀にとっては忘れられるはずのない女性だった。