雫は、何一つ解決していないにもかかわらず、「大石さん、行きましょうか」と呼びかけた。大石も頷いて、二人は玄関で待っている両親と別所のもとに向かう。
雫たちと落ち合うと、両親は「息子がお世話になりました」「今回このようなことになってすいませんでした」と、雫と別所に言ってきた。自分たちに謝られても何にもならないんだけどなと思いつつ、雫も「いえ、これから気をつけてください」といった類の言葉を返す。
でも、大石の両親が雫たちにかけてきた言葉は、拍子抜けするほど少なかった。二つ三つ定型句を言っただけで、大石の父親は「ほら、行くぞ」と大石に呼びかける。
大石も頷き、別所を先頭に四人、はまだ雨が降っている玄関の外に向かっていく。
それでも、雫は四人が外に出る間際に、「あの」と声をかけていた。ためらう時間もなく、ほとんど反射的に声が出ていた。
振り向いた大石たちの視線が、一斉に雫に刺さる。少し胸が詰まるような思いを感じながら、雫は思い切って次の言葉を発した。
「お三方は、これからどうされるんですか?」
呼びかけられても、大石の両親は目を丸くはしていない。さも当然というように、父親が落ち着いた口ぶりで答える。
「まずは友樹が今回したことを十分に反省し、これからやり直すためにはどうしたらいいかを、三人で話し合って考えます。当然でしょう」
「あの、そうじゃなくて、今日この後お三方はどうされるんですか? 一緒に家にお帰りになるんですか?」
「いえ、友樹は友樹の家に、私たちは私たちの家に帰ります。それぞれ今は住んでいる場所が違うんだから、当たり前じゃないですか」
そう答える父親の口調は「何かおかしいところがありますか?」と言っているかのようで、雫はごまかしきれない大石との普段の関係性を見る。
いくら三日後に補導委託試験観察が始まるとしても、大石は今不安定な状態にあるのだ。一緒にいて安心させることこそが親の役割だろう。そう雫はどうしても思ってしまう。
でも、それを伝えたところで、両親は表面的には受け入れるフリをしたとしても、本当に受け入れてくれるかどうかは分からない。
「一緒に過ごしてください」と言ったところで、「息子には息子の生活がありますから」と返されるのは目に見えていると、失礼ながら雫は感じてしまう。今はそれよりも、優先すべきことがあるというのに。
「……お父さん、それにお母さんも、最後に一つだけ訊いてもいいですか?」
「はい。何でしょう?」
「どうして、友樹くんの面会に来なかったんですか? 友樹くんはここで慣れない生活を送って、不安に感じているかもしれないとは、思わなかったんですか?」
一歩踏み込んだ雫にも、両親は眉一つ動かしていなかった。「どうしてそんなことを訊かれているのか分からない」というような二人の表情が、雫には一瞬ゾッとするほど冷たく見えてしまう。
「確かにそれは僕たちも考えましたよ。でも、友樹はしっかりしている子ですからね。僕たちが行かなくても大丈夫だろうと思ったんです。それに僕も妻も仕事が忙しかったですからね。二人とも、なかなか急に休みを取ることはできなかったんですよ」
「……なんだそれ」雫が感じたことと一言一句違わぬ言葉が、大石の口から漏れていた。聞いたことがないほどの低い声に、雫は大石の心情を察する。
「そんなの全部後付けだろ。言い訳だろ。本当は俺のことなんて、どうでもいいと思ってるくせによ。いやそれどころか、俺のことが嫌いなんだろ。分かってるよ。俺だってそれくらいは」
「友樹、そうじゃないよ。お母さんたちも、友樹が心配で心配でしょうがなかった。でも、仕事がどうしても休めなかったの。それは分かるよね?」
「何だよ。今さら良い親ぶるなよ。仕事が忙しいなんて嘘だろ。残業もないし、ちゃんと土日に休めるホワイト企業だって、兄貴には言ってたくせによ。だったら、一日や二日ぐらい休めるだろ。それをしなかったのは、面倒くさかったからだよな。お前らにとって、俺はその程度の存在でしかないってことだよな」
「友樹、いい加減にしなさい。父さんたちは、いつでもお前を大事に思ってるんだから。そんなことは、少しも思ってないよ」
「では、どうして面会に来なかったんですか?」
口を挟んだ雫に、両親は今度は少しだけれど目を丸くしていた。「だから、仕事が忙しかったんですよ」と父親が答える声が、雫には白々しく感じられてしまう。
「確かに月曜から金曜日までフルタイムで働いていれば、鑑別所に面会に来ることはなかなか難しいかもしれません。でも、そういった方のために初回の面会に限り、鑑別所では消灯時間までですが夜間や、土曜日も面会の対応をしているんですよ。残業がなかったのであれば、そういった時間に面会に来ることは、十分に可能だったのではないですか?」
「えっ、そうなんですか?」母親は目に見えて驚いていて、本性が現れ出てきていると雫は思う。大石を大事にしていない本性が。
「はい。法務省の鑑別所の案内にそう記載されています。インターネットで調べればすぐに出てくることなのに、それすらしなかったということは、悪い言い方になってしまいますが、大石さんへの思いがその程度しかなかったと、私には思えてしまいます」
「あなた、何を言ってるんですか? 確かにそのことは今知りましたけど、でもだからといって、僕たちが友樹を大切にしていないということにはならないじゃないですか」そう食い下がってくる父親は、もはや穏やかな態度を保ててはいなかった。目に剣呑な色が宿っている。
それでも、雫は後には退かない。努めて顔を上げて、言葉を返す。
「では、知っていたら大石さんへ面会に来られていたんですか?」
「もちろんですよ」
「……お父さん、それにお母さんも。もっと大石さんを大事にしてあげてください。大石さんのことを思いやってください。少年の適切な成育のためには、親やそれに類する人間の適度な愛情は必要不可欠です。大石さんとの面接を通じて、そして今日実際に会ってみて、お二人が大石さんに適度な愛情を注いでいたとは、正直なところ私には思えません。他でもない自分たちの子供なんですよ。もっとその自覚を持ってはいただけませんか?」
大石の両親に対する不信感がないとは言いきれない。それでも、雫は丁寧な口調を心がけていた。威圧的にならないように気をつけていたはずなのに、言葉は自然と強くなる。
大石の両親は、二人とも眉間に皺を寄せていた。「何なんですか、あなた」と口を尖らせたいのが、表情から雫には分かる。
「もちろん、分かっていますよ。友樹のことを思わなかった瞬間は、私たちには一秒だってありません」
そう答える父親は、言葉とは裏腹に、不満を隠しきれていなかった。張りついた良い親という仮面に、無視できないヒビが入っている。
それでも、ここで「本当ですか?」などと追及して、大石の両親を怒らせてしまうことは、雫には本望ではなかった。大石のいる前で、そんな事態になってしまったら、それこそ誰も得をしないだろう。
だから、雫は「そうですね。分かっていただけているのなら何よりです」と言葉を収めた。自分の言葉は二人にも届いているはずだと願いながら。
大石の両親は、最後に良い印象を残そうと穏やかな顔を向けていたけれど、それも雫の心の表面を滑って落ちていく。
三人は別所に連れられるようにして、未だに雨が降り続いている外に出ていった。公用車のエンジン音が鳴って、雨で濡れた路面を走る音が聞こえなくなるまで、雫は玄関に立ち続けた。
どうか大石が再非行に及ばずに、つつがなく満たされた生活ができますように。雨音を聴きながら、雫が思うことはそれだけだった。