その日は、朝から雨が降っていた。真夏のじめついた雨ではなくて、秋の訪れを感じる涼しい雨だ。
定時に出勤したとき、雫の頭は少し重たかった。それは低気圧の影響もあったけれど、それ以上になかなか寝つけなかったことが大きい。自分が何かをするわけでもないのに、気持ちは逸っていて、それは今日が大石の少年審判が行われる日だからに違いなかった。
自分の机に座ってデスクワークをしていると、少しずつ雫の目は覚めてきていたが、それでも焦れるような感覚は、胸の中からは消えなかった。
今日の大石の少年審判は、午後からの予定だ。それまでの間、雫はハラハラする思いを抱いて、一分一秒が普段よりも長く感じられた。雨の音も、やかましいほどに耳に入ってくる。
目の前の仕事に完全に集中することは、情けないけれど今の雫には難しかった。
時計の針が正午を回る少し前に、雫は雨音に紛れない、車が停車する音を聞く。大石の両親を迎えにいった別所が、戻ってきたのだ。
別所から内線で連絡を受け、雫は居室に大石を呼びにいく。ドアを開けて見た大石の顔は、既に少し疲れているように雫には見えた。
待ちくたびれたのか、それとも緊張し続けているのか。もしかしたら、両親と久しぶりに顔を合わせる心労もあるのかもしれない。
「大石さん、家庭裁判所に行きましょう」と雫が声をかけると、大石は黙って頷いた。玄関に向かう足取りも、心なしか重い。
公用車の中で、両親とどんな会話を交わすのだろうか。そう考えると、雫も気が気ではなかった。
大石たち三人を乗せた公用車は、予定通りに鑑別所を出発していた。ここから家庭裁判所に行って、少年審判が始まるのは午後一時。結審するのは、午後二時頃になるだろう。
大石たちを見送った雫は、昼食休憩に入る。だけれど、昼食を食べていてもスマートフォンを見ていても、完全なリラックスは雫にはできなかった。頭では、大石にどのような処遇が下るのかばかり考えてしまう。鑑別結果通知書には「少年院送致が適当である」と記載したけれど、その通りになるとは限らない。
平常心を保つことは雫には少し難しくて、それは大石たちを送って戻ってきた別所と少し話してみても、あまり解消されなかった。
一時間きっかり昼食休憩を取って、雫は仕事に戻る。
それでもやはり、少年審判に臨んでいる最中の大石のことを考えずにはいられない。パソコンの画面が、ファイルに表示される文章が、満足に頭に入ってこないほどだ。居ても立っても居られないようで、本当は机を立ってさえしまいたい。
でも、昼食休憩を終えたばかりでは、いくらなんでも気が引ける。だから、雫は机に座ったまま、パソコンや書類とにらめっこを続けるしかなかった。窓の外では、朝から降っていた雨が強さを増しつつあった。
机上の電話が鳴ったのは、午後二時までまだ数分はあろうかという時だった。焦れるような思いは抱いていたものの、まだ万全な心構えはできていなかったから、雫は着信音が鳴ったときに、身体が固まるほど驚いてしまう。
すぐに受話器を取ることはできなくて、その間に別所が電話に出た。電話機の画面に映った電話番号は、紛れもなく家庭裁判所のもので、大石の審判結果が出たのだろうと雫は察する。
でも、別所は簡単な相槌しか打っていなくて、処遇の内容など詳しいことは一つも分からない。その間も雫は、自分の鼓動が速まっていることを感じていた。何度か経験していても、この瞬間は未だに慣れない。
「別所さん、電話家裁からでしたよね? 大石さんの審判の結果が出たんですか?」
別所が受話器を置いて電話を終えた瞬間、堪えきれないといったように、雫は尋ねていた。「うん、そうだよ」と飄々とした顔で言った別所に、雫は息を呑む。
「結論から言うと、大石さんは補導委託試験観察になった。大石さんの反省状況をまだ見極めたいっていう、家裁の判断だね」
「そうですか」と答える雫は、喜びはしなかったけれど、それでも少なからず安堵はしていた。
試験観察は、少年審判の日付までに少年の処遇を決めることが困難な場合に取られる措置だ。家裁調査官の観察に付し、数か月かけて少年の反省状況を見守り、改めて処遇を決定する。
在宅で行われる場合もあるが、補導委託は民間の篤志家のもとに少年を置く。仕事等を通じて規則正しい生活習慣を身につけさせ、更生を図ることが狙いだ。大石は逮捕される前にも定職には就いていなかったし、両親との関係性を考えたら十分に納得できる処遇だ。
だから、自分たちの意見がそのまま反映されなくても、雫は気を悪くすることはなかった。
「確かにそれが、今の大石さんには一番適切な処遇かもしれませんね。それで、その補導委託先はどこになるんですか?」
「家裁が言うには、若穂で建設会社を経営している夫婦のもとに置く予定だって。仕事もその建設会社でするみたい。まあ色々準備もあるから補導委託が始まるのは三日後で、それまでは引き続き自宅で暮らすみたいだけどね」
「そうなんですか。大石さん、補導委託先で大切にしてもらってほしいですね」
「まあ、補導委託先も色々と家裁から調査とかアドバイスを受けてるし、大丈夫でしょ。家庭的な生活環境に身を置くことで、自省する機会も増えるだろうし。もう私たちにできることは信じることしかないけど、でもきっとうまくいくよ」
「そうですね。うまくいってほしいですよね」
「うん。じゃあ、私家裁に大石さんたちを迎えに行くから、山谷さんは大石さんの退所の準備を進めといてね」
「分かりました」と雫が頷くと、別所は改めて公用車の鍵を手にして、職員室を後にした。
雫も一つ息を吐いてから、壁際にあるロッカーへと向かう。「大石友樹」の名前が書かれたロッカーを開けると、そこには大石の私服や私物が入っていて、一つ一つ取り出すたびに、雫はもうすぐ大石がここから去っていくことを想像して、手が止まりそうになった。
雫が大石の私物を取り出し、パソコンで退所の手続きを進めていると、出発してからおよそ三〇分後に、別所とともに大石たちが鑑別所に戻ってきた。
まだ止まない雨の中、車を降りて大石とともに所内に入ってきた大石の両親と、雫は初めて出会う。
大石の両親は、二人とも大石のようには髪を染めていなかった。二人とも背丈は中くらいで、太っても痩せてもいない。四〇代後半という年齢に見合った容貌をしていて、服装にもこれといった特徴はない。どの学校のどのクラスのPTAにも必ず一人はいるような、そんな印象を雫は抱く。二人の態度は大石を冷遇しているとは、一見しただけでは雫には思えない。
でも、きっとそれはよそ行きの態度なのだろう。大石の二人に向ける冷ややかな目が、そのことを物語っていた。
雫は大石を連れて、いったん居室に戻る。そして、鑑別所の制服から私服に着替えさせてから、スマートフォンなどといった私物を大石に返却した。
それでも、大石の顔はどこか不満げで何かを言いたそうだった。いたくなかったはずの鑑別所を、ようやく退所できるというのに。補導委託試験観察という処遇に、納得がいっていないのだろうか。
気になった雫は「大石さん、どうかされたんですか?」と呼びかけてみる。両親のもとに戻るまで、少しだけなら話していられた。
「いや、あいつら、まあウチの親なんだけど、の態度が薄気味悪くてよ。車ん中でも家裁に着いてからも、何度も話しかけてきて。まるで自分たちは問題のない親なんだって、アピールするかのようだった。そんなことしても、ここにいる間一回も面会に来なかったことは、全員が知ってるはずなのによ」
大石の言うことは的を射ていた。確かに大石と両親に面会の機会がなかったことは、今回の少年審判に関わった全員が把握している。大石との間に何もないように振る舞う両親の態度は、焼け石に水でさえある。
だけれど、雫はそこまで悲観的には捉えたくなかった。大石の目を見て口を開く。
「大石さん、きっとご両親も少しずつですが、変わろうとしているのではないでしょうか。大石さんが今回のことに及んだことで、自分たちの大石さんへの接し方を振り返って反省した。そうは思えませんか?」
「だったらどんなにいいだろうな。じゃあ、なんであいつらは俺に会いに来なかったんだよ。本当に反省してたら、たとえ仕事が忙しくても、会いに来るのが道理ってもんだろ」
「それはきっと色々な理由があったんですよ。大石さんのせいじゃありません」そう雫が答えても、大石は口元を小さく歪め続けていた。その表情に、自分の曖昧な言葉は何のフォローにもなっていないと、雫は気づく。これ以上二人きりでいても、空気は悪くなるだけだろう。