雫が別所と食事をしてから、三日が経った。その間、雫は他にも担当している少年がいたから、大石にかかりきりというわけにはいかなかったけれど、それでも心理検査の実施や、家裁調査官である真綾や付添人を務める弁護士との面会もあり、毎日大石とは顔を合わせている。
それでも、大石の態度は変化に乏しく、不満を溜めこんでいることを隠していなかった。目にも苛立ちが込められていて、見る度に雫は緊張とやるせなさを抱いてしまう。自分たちの言葉や態度が大石の心に届いていないようで、切なささえ感じてしまう。
気がかりなことばかりが増えていき、二日後に控えた三回目の鑑別面接のことを思うと、雫の心は圧迫されるかのようだった。
その日の仕事を終え、雫が宿舎に戻った頃には、もう日は落ちて辺りは大分暗くなり始めていた。九月も半ばを迎え、少しずつ涼しくなってきた肌に触れる空気が、夏の終わりを思わせる。
帰ってきた雫はソファに腰を下ろし、しばらくスマートフォンを見てから、夕食作りに取りかかった。野菜を切って、豚肉とともに炒め、カレールーを加えて煮込む。カレー作りの一通りの工程が終わって、あとは白米が炊けるのを待つだけ。
その段階になったのを見計らったかのように、スマートフォンが着信音を鳴らす。手に取ってみると、ロック画面には、真綾からのラインが来たことを知らせる通知が表示されていた。
〝今、仕事終わった。ごめん。最後の方忙しくて、なかなか返事できなくて〟
雫はラインのアプリを開き、真綾のメッセージに既読をつける。
雫が〝仕事、終わりました?〟とラインを送ったのは、一時間以上も前のことだ。真綾の返信は少し時間がかかったけれど、それでも雫は腹を立てることはない。
真綾が忙しいことは分かりきっていたし、それにどんなに遅くなっても、必ず自分のラインに返信してくれるだろうという信頼があった。
〝いえ、全然大丈夫ですよ。返信ありがとうございます。今って少しやりとりできますか?〟
〝うん、大丈夫。もう家に帰ってきたとこだから。で、どうしたの? 雫がこうしてラインを送ってくるってことは、やっぱ仕事のこと?〟
いきなり図星を突かれて、雫は少し笑ってさえしまう。回りくどい世間話をしなくて済んで、助かる思いだ。
〝はい。仕事終わりで疲れてる真綾さんに、こんなこと訊くのは少し恐縮なんですけど、それでも訊いておきたいなと思いまして〟
〝いやいや、そんな遠慮しなくてもいいよ。訊きたいことって言うと、やっぱり今私と雫が担当してる大石さんのこと?〟
〝その通りです。真綾さんは大石さんへの社会調査の一環で、大石さんのご両親にも会われてるんですよね?〟
〝うん、会ってるよ。それがどうかしたの?〟
〝大石さんのご両親は、どんな様子でしたか? 真綾さんが会って話すなかで、何か感じたことはありますか?〟
真綾はすぐには返信をよこさなかった。でも、雫は大して焦らない。白米が炊きあがるまでには、まだ時間にも余裕があった。
〝そうだね……。丁寧に接してはくれるんだけど、大石さんが今回のような非行を起こしたことにも、あまり関心を抱いてる様子はなかったかな。話しててもどこか他人事みたいと言うか。淡々と話してて、曲がりなりにも息子が特殊詐欺に加担したんだから、もっと動揺したり反応を見せてもいいと思うんだけどね〟
その返信に、雫は会ったこともない大石の両親を想像する。大石の両親は、まだ大石のもとへ面会には来ていなかった。
平日は仕事が忙しいとしても、初回の面会に限り、鑑別所では土曜日も対応している。それに息子が逮捕されたのだから、気になって休みを取ってでも面会に来るのが筋ではないかとも、雫は思う。
それすらしないということは、本当に大石に対して関心がないのだろう。そう考えると、雫には大石が気の毒に感じられる。
〝そうですか……。大石さんも両親を強い言葉で非難してましたし、やはり親子関係は良くはなさそうですね……〟
〝うん。それは私も大石さんとの面接のときに聞いた。自分のことなんて、どうでもいいと思ってるに違いないって。お互いに関係は冷え切ってて、適切な監護が期待できるかどうかは、正直分からない。それは、大石さんの処遇にも影響してきそうだよね〟
〝真綾さん、どうにかならないでしょうか?〟率直な気持ちが指を動かし、送信ボタンをタップさせる。
鑑別所の法務技官である雫は、向こうから出向いてもらわない限り、大石の両親にはアプローチができない。面会に来てくださいと、言うことすらできないのだ。だから、雫が頼るとしたら大石の両親とも面識がある真綾以外にはいない。
案の定、真綾は〝どうにかって?〟という返信を送ってきている。雫は矢継ぎ早に指を動かした。
〝大石さんの両親に、鑑別所へ大石さんに面会に来てくださいと、働きかけることはできないでしょうか? 今の関係のままでは、良いことは一つもないですし、実際に会わなければ何も変わらないと思うんです〟
〝雫の気持ちは分かるよ。私も面会して親子関係が少しでも改善に向かう可能性を信じたい。でも、私も「大石さんに会って話してみてはいかがですか?」って言ったけれど、あの二人は首を縦には振らなかったんだよ。直接言葉にはしてなかったけれど、「どうして、私たちがそんなことをしなきゃいけないんですか?」って言わんばかりだった。もちろん、これからも働きかけてはみるけれど、あの二人が態度を変える可能性は、正直なところあまり高くないんじゃないかな”
真綾の返信は無情で、雫は頭が痛くなり始める心地さえした。唯一の頼みの綱が機能しなかったことに、視界を塞がれるような感覚がする。
どうすれば大石の両親に面会に来てもらえるか。今の雫は、そのための術をまったくと言っていいほど持っていなかった。
〝そうですか……。それは残念です。実の息子なのに、大切に思う気持ちはないんでしょうか〟
〝確かに私もそう思うよ。あの二人の大石さんに対する態度は冷たすぎるって。でもさ、たとえそうだからといって、私たちが気を落とすわけにはいかないでしょ。私たちは私たちで、調査や鑑別を頑張んなきゃ。それが私たちにできる唯一のことだからね〟
〝そうですね〟と返事をするので、雫には精いっぱいだった。真綾の言っていることはその通りだが、今の雫にはまだ前向きに考えることは難しい。
〝話に乗ってくださってありがとうございます〟〝うん。思うような返事ができなくてごめんね。また何かあったらいつでも連絡してね〟〝はい〟そんなやり取りを経て、二人のラインは終了する。
雫はスマートフォンから目を離し、一つ息を吐いた。キッチンから漂ってくるカレーのいい匂いにも、今の雫は慰められなかった。