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第39話


「どうしたの? 山谷さん。山谷さんの方から訊きたいことがあるなんて、珍しいじゃない」

 控えめに乾杯をした後、開口一番に別所にそう言われて、雫は自分から声をかけたのに、言葉に詰まってしまう。以前訪れたのと同じ個室居酒屋は、それぞれの部屋が離れているからか、他の部屋からの話し声は少しも聞こえてこない。

 そのことがかえって雫たちの部屋の空気をひりつかせていて、雫は膝の上で握った手が、かすかに震えるような感覚さえ味わってしまう。

「あ、あの、別所さん。今日は私に付き合ってくださってありがとうございます。別所さんもお忙しいのに恐縮です」

「いいよ。今日は何も予定なかったし。それにいつでも相談していいよって言ったのは、私の方だしね。で、今日はどうしたの? まあ、話の内容は大体予想がつくけど」

「大石さんのことでしょ?」そう胸のうちをズバリと言い当てられて、雫はすぐには返事ができなかった。緊張を紛らわすために、ビールに手を伸ばそうとも思ったが、先輩である別所の前だとそれも憚られる。

 ひりひりした雰囲気のなかで雫にできることは、「は、はい。そうです」と頷くことしかなかった。

「確かに大石さん、正直態度はあまり良くないよね。私が行動観察や学習指導で接していても、なかなか改善する気配を見せないし。まだ配属されて日が浅い山谷さんが困るのも無理ないよ」

「は、はい。面接をしても突っぱねるような態度に終始していますし、まだここにやってきたことに不満を抱いているようで。どうやったら、自分がしたことをきちんと見つめて、反省に向かってくれるでしょうか?」

「そうだね……。私も努力はするけど、これはこっちが強制していい問題でもないしね。結局は大石さんと接する一回一回の機会を大切にしていくしかないんじゃないかな」

「それはそうですけど……」と、雫は喉まで出かかった言葉をどうにか引っ込めた。知りたいのはその先のことだ。

 でも、別所がこれだという方法を提示しなかったから、やはり裏技のようにショートカットする術はないのだと、雫は思い知る。気が重くなって、俯いてさえしまいそうだ。

 そんなかすかな雫の仕草も見逃さずに、別所は「山谷さん、ちょっといいかな?」と声をかけてくる。だから、雫も項垂れたくなる気持ちにどうにか耐えた。

「もう亡くなっちゃったんだけど、私の祖父母、昔保護司をしてたんだよね」

 唐突に話題を転換した別所に、雫は思わず目を瞬かせてしまう。今までの文脈から外れた言葉に、別所の意図が掴めない。「そうなんですか?」と口をついた相槌は、少し間が抜けていた。

 それでも別所は、穏当な表情を崩してはいない。「うん、そうなの」という返事には、少しの波風も立っていなかった。

「私の実家って、私と両親と母方の祖父母が一緒に暮らしてる三世帯住宅だったの。祖父母が保護司を始めたのは定年退職した頃だったから、ちょうど私が小学校に上がるくらいだったのかな。よく家には自分よりも年上のお兄さんお姉さんが出入りしててさ。始めたばかりの頃は、私もその子たちが保護観察中の少年だとは知らなかったから、よく話したり遊んでもらったりしてたんだよね」

「そうだったんですか。それは素敵な思い出ですね」

「うん。ほとんどの子はまだ小さかった私に対して良くしてくれたよ。ある程度私が大きくなって、実家に来ている子はかつて非行に及んだ少年なんだって知ってからも、それは変わらなかった。今思えばこの仕事に就いたのも、子供のときから知らず知らずのうちに影響を受けていたからかもしれないね。私にとって、そういった非行に及んだ少年という存在は、常に身近にあったから」

「確かにこの仕事は何となくじゃ就けないですもんね。皆多かれ少なかれ何かきっかけがあって、この仕事を選んだわけですし」

「そうね。でも、多くの少年は良好な態度で保護観察に臨んでいたけれど、そうではない少年も正直なところいて。確かあれは私が一五のときだったかな。ある一人の女子少年を私の祖父母が担当するようになったの。その子は、祖父母に対しても私に対しても、初めて会ったときから反発するような、はねつけるような態度だった。ちょうど今の大石さんと同じようにね」

 別所が言おうとしていることが、雫にはおぼろげながら見えてくる。「そうなんですか」と相槌を打ちながら、話の続きが気になってしまう。

 昔を懐かしむかのような目をしている別所。その瞳には、かすかな悔恨が覗いていた。

「うん。私たちも祖父母を中心にどうにか態度を変えようと、心を開いてもらおうとはしたよ。でも、その子は誰に対しても粗雑な態度をやめてはくれなくてね。夜出歩いたり、一緒に非行に及んだ子とまた付き合い始めたり、保護観察の上での遵守事項を守らないこともしょっちゅうだった。正直、祖父母はかなり手を焼いてる様子だったよ」

「そうなんですね。話を聞いているだけでも、その大変さが想像できるような気がします。それで、その子はどうなったんですか? 何か変化は見られたんですか?」

「ううん。何の変化もないまま、万引きでまた捕まっちゃった。再非行だったから、さすがに家裁も甘くなくてね。少年院送致になって、もうそれっきり。最近顔を見ないなと思って、祖父母に事情を訊いたときのショックは今でも忘れられないよ。年齢も近かった分、なおさらね」

「そうだったんですか。それは辛い思い出ですね」

「そうだね。でも、私よりも当のその子の方が、ずっとずっと辛かったと思うよ。自分に関わってくれる人たちを、信じられなかったってことだから。それに私の祖父母が担当した少年で再非行に及んでしまった子は、その子だけじゃなくて。その度に、私はやるせない思いをして。もしかしたら今の私は、大石さんにその子の姿を重ねてしまっているのかもね。あまり良いことじゃないよね」

「そんなことないですよ。別所さんはそういった子をどうにかしたいと思って、この仕事に就いたんですよね? それって、とても立派なことじゃないですか。それに別所さんが大石さんにその子の姿を重ねてしまっていても、私は構わないと思いますよ。鑑別を通して大石さんのためになりたいと思っているなら、動機は何でも」

「山谷さん、励ましてくれてありがとう。私だって分かってる。いくら大石さんのために力を尽くしても、その子がしたことはなくならないって。でも、もしかしたら大石さんの、これからの力になれるかもしれない。適切な鑑別を行うことで、大石さんが再非行に及ぶことを防げるかもしれない。そうなれば、私がしてることにも意味があるんだって、今は思えてるよ」

「はい。私も別所さんの話、参考になりました。数日後にはまた面接がありますし、これからも粘り強く大石さんに接していきたいと思います」

「そうだね。私たちがしているのは、ここにやってきた少年の、未来のためになることだからね。これからも大変なことはあるかもしれないけど、それでも継続的に大石さんに接して適切な鑑別ができるよう、二人で頑張ってこう」

「はい!」雫が前向きな返事をしたところで、ドアの向こうから「失礼します」と店員の声が聞こえた。別所が応じると店員はドアを開けて、二人が注文したサラダをテーブルに置いた。トマトやパプリカなど彩り鮮やかなサラダに、雫の食欲は刺激される。

 トングに手を伸ばそうとした別所を「私がやります」と制して、雫はサラダを取り分けた。口に運ぶと、和風ドレッシングに含まれるすりおろした大根の辛味がいいアクセントになっている。

 別所も「美味しいね」と言っていて、室内は和やかな空気に包まれ始める。

 相談したいことは相談できたから、あとは食事を楽しむだけだ。そう雫はいくらか気軽に構えることができていた。


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