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第36話


 翌朝、目を覚ましたときに雫はさほど疲れを感じてはいなかった。昨日はそれなりにビールなどの酒を呑んだはずなのに、アルコールが身体から抜けきっている感覚がする。

 それでも雫にとっては、少し気がかりな朝であることには変わりない。今日は午前中から大石との初回面接及び心理検査が予定されている。

 一晩で劇的に態度が変わっていればそれに越したことはないが、そうではない場合を雫は考えてしまう。昨日の反発するような態度のままだったら、面接でもやりづらさを感じてしまうだろう。

 今までとの少年とは様相が異なりそうなことに、雫は心の中でため息をついてしまっていた。

 それでも、仕事を投げ出すという選択肢は雫にはなくて、朝食を済ますと制服に着替えて予定通り鑑別所に出勤する。

 職員室に入ると、既に隣には湯原が座っていて、雫は「おはようございます」と声をかける。少しの憂鬱を含んだ声にも、湯原は気づかなかったようで、ただ挨拶を返す以上は何も言ってこなかった。そのことが、雫の緊張をより高める。

 少年たちの行動観察をしていた平賀や別所も戻ってきて、那須川の号令のもと、雫たちは朝礼を始めた。今日の予定を口々に言う職員たち。雫も大石の面接と心理検査を行うことを、改めて口にする。

 その時間が近づいていることに、雫は喉が渇く心地がした。

 朝礼が終わると、雫はそのまま職員室を後にして、大石の居室へと向かった。廊下を歩いている間も、緊張で心臓が高鳴る。

 ノックをしてドアを開けると、床に足を伸ばして座っている大石の姿が見えた。昨日、この時間に面接を実施することは伝えていたのだが、その双眸は不満に思っていることを隠そうとしていない。睨むような視線に迫力は伴っていなかったが、それでも雫は内心で息を呑む。

「面接をするので、面接室にいきましょう」と雫が言うと、大石は深いため息をついてから立ち上がった。態度は一晩経っても変わっていないようで、面接室に向かう間も雫は差し迫った思いを感じてしまっていた。

 第一面接室に入った二人は、テーブルを挟んで向かい合って座る。昨日は別所がいたからまだよかったものの、大石と二人きりになると、面接をする立場だというのに雫は息が詰まりそうになってしまう。

 それでも、雫は少しばかり呼吸を整えると、「では、これから初回の面接を始めます。大石さん、よろしくお願いします」と口を開いた。

 大石は相変わらず小さく首を動かすだけで、不満げな反応に留まっている。目も雫の向こうの壁を見ているかのようだ。

「それでは、まずはこの面接の目的をお話ししますね。私たちは大石さんがどのようにして今回の非行に及んでしまったのか、大石さんがどんな性格をしていて、何を考えて今回のことに至ったのかを調査する必要があります。そして、私たちは実際に大石さんの審判をする家庭裁判所に、その調査、鑑別の結果をまとめ提出しなければなりません。今日の面接や、この後行う心理検査もそのために行われます。だから、できたら私は素直に大石さんに話してほしい。もちろん話さなくても通知書は提出しますが、それでも素直に話してくれれば、より精度の高い鑑別ができる。それは大石さんのためになる可能性があります。このことをこれから面接を行ったり、ここで過ごすうえで大石さんには分かってほしい。そう私たちは考えています」

 雫がそう説明しても、大石は返事一つしなかった。口をぎゅっと結んだ表情は、腑に落ちていないことが分かり、こんな面接もしたくないと伝えてきている。

 それでも仕事である以上、雫は「そうですか」と頷くわけにはいかなかった。ひとまずは、事案と関係のない話題から面接を始めてみる。

「では、大石さんも緊張していることでしょうし、少し軽い話をしましょうか。大石さんには何か趣味などはありますか? 何をしているときが一番楽しく感じられますか?」

 雫としては、できるだけ簡単な話題を選んだつもりだった。事案に関係ないことなら、大石もいくらか話しやすいだろう。

 それでも、大石は苦み走った表情をしていて、舌打ちをしたくなるのを抑えているかのようだった。

「なんでそんなこと言わなきゃなんねぇんだよ。今回のことに関係ねぇじゃねぇか」

 大石の口調は、吐き捨てるようですらあった。「関係ない」と言われたらそれまでなのだが、そんなにもきっぱりと切り捨てられると、雫にも思うところがある。

「いえ、私は大石さんが何が好きなのか、純粋に知りたいなと思いまして。その方が大石さんも、少し話しやすいのではないですか?」

「何だよ。ここで俺が『これが好きです』っつったところで、その調査や鑑別には役立つのかよ。意味ねぇだろ。そんなこと訊いてもよ」

 意味ならある。少しでも言葉を交わすことで、自分たちの間に流れる強張った空気を、多少なりとも解すことができる。雫はとっさにそう思ったけれど、言葉にはしなかった。大石が望んでいないのなら、わざわざ訊くことはないだろう。

 もっと他に訊くべきことは、雫にはいくらでもあった。

「そうですね。この話題はやめておきましょう。では、さっそくですが今回の事案についてお訊きしますね」

「ああ」と返事をする大石の態度はぶっきらぼうで、やはり釣れない。それでも、雫は怯まずに言葉を続ける。

「大石さんは先月、八月三〇日の正午頃、長野市内にお住まいの中馬桂子ちゅうまけいこさんの自宅に伺い、キャッシュカードを詐取しようとしたところを、待機していた警察官に詐欺の疑いで現行犯逮捕された。これは間違いないですね?」

「間違いないも何も、警察からそう聞かされてるんだろ? だったらそうなんじゃねぇの」

 この期に及んでも大石の態度はどこか他人事のようで、雫は閉口しそうになってしまう。当事者意識に欠けていて、まだ反省しているとは言い難かった。

「大石さんはアンザイと名乗る男からメッセージアプリで指示を送られ、今回の犯行に及んだ。大石さんはそれまでにも何回かアンザイから指示を送られて、同様の犯行を繰り返していた。そうですね?」

「ああ、そうだよ。ったくあいつ、クソみたいな指示送りやがって。なんで俺がこんな目に遭ってんだよ。まあそのアンザイって奴も、逮捕されたらしいからざまあみろなんだけどな」

「大石さんが今回のような特殊詐欺に加担するようになったきっかけは、何だったんですか? どうして、特殊詐欺の片棒を担ぐようになったんですか?」

 大石の口の悪さにも目を瞑って、雫は直接的に訊いてみる。もちろん素直に話してくれるとは限らない。

 現に大石はそう訊いてきた雫を、かすかに鼻で笑っていた。そんなことも分からないのかと言うように。

「んなもん、金だよ、金。金が必要だったからに決まってんじゃねぇか。それ以外の理由があんのかよ」

 大石が口にした理由には妥当性があった。雫だってそれくらいのことは分かっていると、言いたくなるくらいに。

「大石さんは、お金に困っていらしたんですか?」

「んなわけねぇだろ。遊ぶ金が必要だったんだよ。俺を貧乏人扱いすんなよな」

 その言い方は感じている不安をそのまま垂れ流しているようで、正直雫の心証はあまりよくない。指示を受けていたとはいえ、大石のしたことは紛れもない犯罪行為なのだから、もっと反省の色を見せていてもいいのにと思ってしまう。

 だけれど、今の状態で「反省しろ」と言ったところで、大石が素直に反省するとも思えなかったから、雫は「そうですね。失礼しました」と言って話題を変えた。

 家族構成や交友関係について訊き出そうとしても、大石は相変わらず難色を示していて、何一つ答えたくないと言っているようだった。何を訊いてみても「そんなの関係ねぇだろ」と言われるばかりで、雫の頭には暖簾に腕押しといった言葉が浮かんでしまう。

 それでもめげずに雫は質問を重ねたけれど、大石の返事はそっけなく、反感を抱いているのがありありと分かって、面接は実りのあるものにはならなかった。

 雫は危機感を覚える。限られている面接の機会が、さほど実を結ばずに終わりそうなことに、「どうしよう」という思いを禁じ得なかった。


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