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第35話


 駅前のスクランブル交差点を渡った二人は、百貨店の向かいにあるビルの階段を下る。駅前に赴く機会も少ない雫は、初めて入る空間に新鮮味を感じた。

 個室居酒屋の入り口は、地下の廊下をいくらか奥へと入ったところにあった。店内にはテーブル席もカウンター席も見受けられず、初めて足を踏み入れる空間に、雫は自然と背筋が伸びる。

 二人が店員に案内されたのは、店内でも一番奥の個室だった。ドアを開けると、そこには二人で座るにはちょうどいい広さの和風な空間が広がっていた。襖から漏れるオレンジ色の光が暖かく、圧迫感がない。

 雫たちは、向かい合って腰を下ろした。ドリンクのメニューを開く。

 今日は二時間の飲み放題がついたコース料理をいただくことを、雫はタクシーの中で別所から聞かされていた。

「では、遅くなっちゃったけど山谷さんの本配属を祝して、乾杯!」

 注文した生ビールの中ジョッキが届くと、別所の掛け声で雫たちはジョッキを突き合わせた。何度となく聞いた軽い音も、ここではいつまでも残っていく感じが雫にはする。

 雫は配属が決まってからというもの、酒をほとんど吞んでいなかった。日々仕事にあたるだけで精一杯で、酒を呑んでいられる余裕がなかったという方が正しい。

 だから、久しぶりに口にしたビールは目が覚めるような味がした。いくら店内は冷房が効いているとはいえ、季節はまだ夏だ。喉を通る感触が気持ちよくて、頬が緩んでしまう。

 別所もまた中ジョッキから口を離すと、解放されたかのように耳触りのいい息を吐いていた。

「で、どう? 山谷さん、鑑別所での仕事は。少しは慣れてきた?」

 お通しの枝豆をつまみながら訊いてきた別所は、今だけは守秘義務などお構いなしといった様子だった。

 でも、それぞれの個室が程よく離れたこの店は、特別大きな声を出さなければ、周囲にまで話の内容が伝わることはない。だから、雫も躊躇せずに答えることができた。

「はい、おかげさまで。と言いたいところなんですけど、正直まだまだですかね。何回か少年への面接や心理検査は担当させてもらってるんですけど、それでももっとこうした方がよかったんじゃないかって、毎回反省しきりで。デスクワークも思っていたより多いですし、まだまだ一日一日を乗り切るので精いっぱいというのが、正直なところです」

「そう。まあまだ配属されて二ヶ月くらいだもんね。相手の少年によって対応の仕方も変わってくるし。これから少しずつ慣れていけばいいよ。あれ? でも、一日を乗り切るので精いっぱいってことは、今日も帰って休みたかった? もしかして私、声をかけない方がよかったかな?」

「いえ、そんなことは全然ないです。帰っても簡単なご飯作って、ちょっと本読んで、あとはスマホとか見て寝るだけですから。別所さんにこういうところに連れてきてもらえて嬉しいです。誰にも声かけられないの、少し寂しくもありましたから」

「ならよかった。皆もっと気軽にご飯とか誘っていいと思うのに、このご時世だから遠慮してるのかな。確認だけど、山谷さんはそういうの嫌じゃないんだよね?」

「はい、全然。むしろもっと気軽に声かけてほしいくらいです」

「分かった。皆にもそう伝えとくね。なんてったって山谷さんは、ウチの期待の新人なわけだし」

「いえいえ、そんな。私なんてまだほとんど何も分かってない状態なんですから。持ち上げないでくださいよ」

「またまたー、そう言いながら、内心ではまんざらでもないくせに」

 別所にそう言われて雫は曖昧な笑みしか返せなかったけれど、不思議とそれほど嫌な思いはしなかった。早くもアルコールが回り始めて気分が大らかになっているのかもしれなかったけれど、それでもリップサービスでも別所が自分に期待してくれていることは、素直に嬉しかった。

 不意に顔が火照って、中ジョッキを傾ける。すでに半分以上を呑んだからか、別所は「ペース速くない?」と少し心配してきたけれど、雫は「いえ、全然大丈夫です。私お酒強い方なんです」と答えた。

 実際、過去には雫は一夜で生ビールの中ジョッキを五杯空けたことがある。でも、帰る足取りはしっかりしていたし、二日酔いにもならなかった。今日もきっと大丈夫だろう。

「ねぇ、山谷さん。ちょっと今日、山谷さんに声かけた理由を話してもいい?」

 別所がそう切り出したのは、コース料理が三皿目に差しかかり、お互いに中ジョッキを一杯ほど空けた頃だった。少し改まったような別所の態度に、雫も姿勢を正す。ただ雑談がしたくて自分に声をかけたわけではない。そう分かっていても、緊張を覚えずにはいられなかった。

「今日、家裁から送致されてきた大石さんのことなんだけど、山谷さんはどんな印象を持った?」

 別所が尋ねてきた内容は、雫にも真っ先に予測できたものだった。むしろそうでなければ、わざわざ今日食事に誘う理由がないとも思える。

 ごまかしたりはぐらかしたりしても意味を成さないと思ったので、雫は感じたように答えた。

「率直に言うと、少し接しづらそうだなという印象を持ちました。曲がりなりにも特殊詐欺に加担して逮捕されたのに、反省する様子はあまり見られなくて。自分は被害者だと言い張っていて、もしかしたらその側面もあるかもしれませんけど、それでも自分がれっきとした犯罪行為をしたと認識してもらうためには、少し時間がかかりそうだなと感じました」

「そうだね。私も山谷さんと同じような印象を持ったよ。自分がしたことの重大さや意味をいまいち分かってない。いや、本当は頭では分かっているのかもしれないけれど、本心では認めたくないと思ってるのかも。鑑別を進めていくにも、他の少年とはまた違った苦労が必要になるかもね」

 その言葉を聞いて、雫は少し気が滅入りそうになった。この仕事に就いて長い別所が言うからには、きっと大石の鑑別も容易にはいかないだろう。

 もちろんどの少年も簡単だということはないが、明日からの面接や心理検査を想像すると、雫はため息を漏らしそうになってしまう。

「別所さん、大石さんのような態度をとる少年って、実際多いんですか?」

「そんなに多くはないんだけど、一定の割合ではいるね。大体の少年はここに来るまでに警察の事情聴取とかで、自分がしたことを十分に理解してる場合が多いから。慣れない環境ということもあって、緊張したり強張っていたりする少年の方がずっと多いよ。でも、大石さんのように誰かに言われてやった、自分は悪くないって思ってる少年もいなくはないかな。ここには来たくて来たわけじゃないみたいな。そんなの誰だって同じなのにね」

「そうですよね」と相槌を打ちながら、雫は塩入や宮辺のことを思い出していた。二人とも初めて会ったときから、怯えていると表現してもいいほどの緊張した様子を見せていた。だけれど、大石はその二人とは少し様相が異なる。

 雫はさっそく明日、大石の初回面接と心理検査を行う。そう考えると、落ち着いて構えることはできなかった。

「別所さん。大石さんみたいな少年には、どうやって接していけばいいんでしょうか?」

「そうだね……。残念だけど、山谷さんが望んでいるような『こうすれば万事解決』みたいな方法はないかな」

「そうですか……」と相槌を打ちながら、雫は肩を落としそうになってしまう。この仕事において、何もかもうまくいくような魔法は存在しないと分かっていても、落胆は決して浅くはなかった。

「まあ、結局は一つ一つの積み重ねでしかないかな。とりあえず明日面接や心理検査をしてみて、ここがうまくいかなかったなというところがあれば、次の機会ではそれを修正したり調整して臨む。その繰り返しだよ」

「でも、大石さんがここにいる時間や面接の機会は限られてますよね……?」

「うん。だから、こうやってお互いこまめに情報交換とかしながら、協力して鑑別を進めてこう。山谷さんは一人で鑑別をしてるわけじゃないんだから、うまくいかないなって思ったときには、遠慮せずに私に相談していいんだからね」

 別所の言葉は現状を一つも解決しなかったけれど、それでも雫の心をわずかに軽くした。困ったときに自分より経験が豊富な先輩に頼ることは、悪いことでも恥じることでもないと思える。

「分かりました。そうさせていただきます」と言うと、そのタイミングで外から「失礼します」という店員の声が聞こえた。二人が返事をすると、店員は棒棒鶏を持って個室に入ってくる。

 テーブルに置かれた棒棒鶏から立ち上る白胡麻の香りが、雫たちの食欲を再び刺激する。口に運んでみると、地鶏の旨味を、ほんのり辛いソースが引き立てていた。

 雫が「美味しいです」と言うと、別所も「そうだね」と頬を緩める。その表情は、雫に明日に向かう活力を与えていた。


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