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第34話


 雫が那須川を経由して、家庭裁判所からの連絡を聞いたのは、昼食休憩の最中だった。大石は午後三時頃に鑑別所にやってくるようで、雫の他に担当教官が別所に決まったことも併せて知らされる。

 別所は今は他の少年の行動観察をしているから、職員室にはいない。戻ってきたら声をかけようと思いつつ、雫は緊張を覚えていた。まだ自分は数人の少年を担当しただけで、経験は浅い。

 仕事に慣れるには、雫がここで重ねた日々はまだ短すぎた。

 職員室に戻ってきた別所と言葉を交わし、午後もデスクワークに取り組んでいると、時計の針は三時を指した。別所に声をかけられて、オリエンテーション用の資料を手に、雫は席を立つ。

 玄関のなかで少し待っていると、外から車が停まる音が聞こえた。家庭裁判所の公用車だ。

 雫たちが外に出ると、同じタイミングで車から二人の人物が降りてくる。半袖のワイシャツを着た家庭裁判所の職員と、大石だ。

 英字がプリントされたTシャツを着たその姿は中肉中背だったが、髪は淡い金色に染められていて、両耳には小さい球体のピアスがつけられている。そのわりに童顔であどけなさを残していたから、よく似合っているとは雫には少し言い難い。

「よろしくお願いします」と、隣で家庭裁判所の職員が小さく頭を下げていても、大石は微動だにしていなかった。

「では、大石さん。改めてはじめまして。私はここであなたを担当する、別所と申します。よろしくお願いします」

 居室をはじめとした鑑別所の施設を一通り紹介し終えて、雫たちは大石とともに、第二面接室へと入った。

 別所がそう自己紹介をしても、大石は目に見えるような返事はしていない。座りながら背中は背もたれについていて、脚は大きく開かれていた。

「そして、こちらが同じくあなたを担当する山谷です」

「はじめまして、大石さん。あなたの面接や心理検査等を担当する山谷です。これからよろしくお願いします」

 別所に促されて雫が自己紹介をしても、大石は微妙なほど小さく頷くだけだった。返事はしておらず、会ってから大石の声をほとんど聞いていないと雫は感じる。でも、シャイというわけではなさそうだ。

「それでは、これからここでの生活についてお話しします。まず起床時間と消灯時間ですが……」

 オリエンテーション用の資料を参考にしながら、別所は説明を始めた。ここで過ごすことの意味やルール、注意事項を諭すような口調で大石に伝えている。

 だけれど、当の大石は変わらずどっかりと寄りかかったままで、横柄とも言える態度を続けている。一時的に過ごすだけだから、聞くに及ばないと考えているのだろうか。

 面と向かって注意はしなかったけれど、雫は諫めたい気持ちを抱く。大石の雰囲気からは、本人が期待するような威圧感は出ていなかった。

「では、私たちからの説明は以上になりますが、逆に大石さんの方から何か訊いておきたいことはありますか?」

 全ての少年にしている説明を終えた後、別所はそう大石に水を向けていた。

 すると、大石は二人に睨みつけるような視線を向けた。不満を隠そうとしない目つきも、あどけなさを残しているから、雫たちを怯ませるまでには至らない。

「俺、どれくらいでここから出れんだよ?」

 雫が初めて聴いた大石の声は、声変わりを終えたにしては、高く感じられた。本人にとっては不服だっただろうが、雫はほんの少しだけ可愛いとも思ってしまう。

「大石さんのようなケースでは、多くの少年が四週間以内に退所しています。ですから、大石さんもそれくらいはかかると思っていてください」

「そんなにかよ。もっと早く出してはくんねぇの?」

「審判の日程はまちまちですが、最低でも三週間はかかると思っていてください。その間に私たちは大石さんと接して、家庭裁判所に通知書を提出しなければなりませんから。いくら少年でも、審判にはそれくらいの時間がかかるものなんですよ」

「はぁ、ふざけんなよ。俺はただ指示を受けてやっただけなのによ。悪いのは、俺に指示を出した連中だろうが」

「大石さん、特殊詐欺に加担した時点で、その論理は通用しないんですよ。指示を出した人間も、それを実行に移した人間も等しく逮捕して、審判や裁判にかける。それがこの国の司法制度ですから」

「だから何だよ。俺はツイッターで募集を見て、応募しただけだっつうのに」

「大石さん、きっかけはどうであれ、あなたが現金を騙し取ろうとしたことは事実なんです。そのことを少しでも反省する気にはなれませんか?」

「何だよ。反省したら、早く出してくれんのかよ」

「いえ、そんな権限は私たちにはありません。でも、大石さんが心から反省すれば、私たちはその旨をきちんと通知書に記載します。それは結果的に、大石さんが望むような処分になる可能性だってあるんですよ」

「はぁ? そんなの、無理やりいい子にしろって言ってるようなもんじゃねぇか。言っとくけど、俺は悪くねぇからな。俺だって無理やり指示を受けた、被害者なんだからよ」

 現実を諭す別所にも、大石はつっぱねるような態度を取り続けていた。そんなことをしても、不利になるのは大石自身だというのに。今の自分が置かれた状況が分かっていないのだろうか。

 それでも、雫は大石に反省を促すようなことは言わなかった。反省は自分からするものだ。強制的にさせても、意味がない。

「分かりました。では、そのことも含めてこれからの生活のなかで考えていきましょう。私は大石さんが正しく状況を理解してくれると信じていますよ」

 別所にそう言われて、大石は軽く顔を歪めてみせた。本人は舌打ちをしたつもりなのだろうけれど、できていない。

 大石の態度は強硬で、雫は内心でため息をつきそうになる。自分がしたことを正しく理解させるためには、少なくない時間がかかりそうだと感じた。



「山谷さんは今日仕事が終わった後、何か予定あったりする?」

 そう雫が別所に声をかけられたのは、この日の仕事を終える一時間ほど前のことだった。不意に訊かれて、雫は思わず「予定ですか?」と訊き返してしまう。

「そう」と柔和な表情を浮かべている別所を見ると、用件は何となく察しがついた。

「いえ、特にはありませんけど」

「そう。じゃあよかったら、駅前辺りで一緒にご飯でも食べない? もちろんお代は私がおごるから」

 別所の用件は、雫の想像からは少しも外れてはいなかった。思えば雫は配属されてから、同僚からこうして食事の誘いを受けることは初めてな気がする。

 雫も別所との間に壁を作りたくはなかったし、断る理由はどこを探しても見当たらなかった。

「はい、ぜひお願いします」

「ありがと。山谷さんは今日何か食べたいものとかあるの?」

「いえ、特にないです。別所さんの好きなお店に連れていってください」

「分かった。じゃあ予約しておくから、今日の仕事が終わったらまた連絡するね」

「はい。よろしくお願いします」

 別所は「任せといて」と言うように一つ頷くと、雫のもとから離れ、自分の机に戻っていった。雫も自分の仕事に戻りながら、それでもどこかワクワクしてしまう。

 別所はどんな店を選ぶのだろうか。そう考えると、雫には仕事が終わった後の時間が今までにないほど待ち遠しく感じられた。

 別所から再び連絡が来たのは、雫が宿舎に戻ってからおよそ一時間が経った頃だった。夜の九時に、長野駅前の個室居酒屋を予約したらしい。

 大学生だったとき、雫は安さが売りの大衆居酒屋にしか入ったことがなかったから、その響きだけで気持ちが改まる感覚がする。幸い、雫はそこまで酒が苦手な体質ではなかった。

 別所からラインで呼ばれ、宿舎の最寄りのコンビニエンスストアまで歩くと、ほとんど待つことなく駐車場にタクシーがやってくる。

 譲り合いの結果、雫が後部座席に座ることになっても、別所は助手席からほとんど途切れなく声をかけてきた。「お酒は大丈夫?」「今日は何時くらいまでに帰りたいとかある?」としきりに気遣ってくれて、少し恐縮はしたけれど、それでも雫は自分が想像していたよりも緊張していないことを感じていた。

 別所からは親しみやすいオーラが発せられていて、これなら個室居酒屋で二人きりになっても、さほど窮屈には感じないだろうだと思った。

 二人を乗せたタクシーは、長野駅善光寺口のタクシー乗り場に到着する。駅舎の真ん前で降りたことで、雫は別所が予約した個室居酒屋が、本当に駅のすぐ近くにあることを予感した。


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