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第32話


 宮辺たちは雫が電話を受けてから、一時間もしないうちに鑑別所に戻ってきていた。今回の審判でまだ最終的な判断が下ったわけではないから、宮辺たちの表情にはまだ緊張の色が見えていたものの、それでもその雰囲気からは、一つ肩の荷が下りたような印象を雫は受ける。

「審判、お疲れ様でした」と声をかけたときも、二人は出発するときよりも幾分はっきりとした反応を返してくれていて、今回の審判に大きな不満を抱いていないことを、雫に窺わせた。

 宮辺に私服に着替えてもらい、私物を返却し、退所の手続きを済ませると、雫たちは最後に玄関に再集合する。

 早織は雫や平賀に対して何度も「お世話になりました」「ありがとうございました」といった感謝の言葉を述べていたし、宮辺も「何度もすみませんって言って、すみませんでした」と、最後のときになっても変わらない言葉を雫たちに口にしていた。結局謝っているではないかと思いながらも、雫はそれを言葉にせず「もう今回のようなことはしないでくださいね」と言うに留める。

 頷いている宮辺を見ると、自分たちの距離が遠くなっていく感覚が雫にはしたし、それは「さようなら」という言葉を交わした瞬間に、決定的なものとなった。

「お元気で」と、雫の心の底から出た言葉を最後に宮辺たちは玄関を出ていって、平賀が運転する公用車に乗っていった。鑑別所を出て自宅に向かっていく車を、雫も外に出ていって見送る。

 車が見えなくなると、自分の心に小さな穴が開いたような感覚が雫にはした。

 宮辺たちが鑑別所を後にしてから、雫は一人他にも担当している少年への面接や心理検査を行って、結果をまとめてから退勤した。

 仕事をしている最中もそうだったが、頭では考えないようにしていても、心の片隅には宮辺の存在は残っていて、それは宿舎に戻って制服を脱いでからも変わらなかった。スマートフォンを見ていても、夕食を作っていても、ふとした瞬間に宮辺たちは今どうしているだろうかと考えてしまう。児童相談所は宮辺に対してどんな判断を下すのだろうと考えると、気が気でない。

 もう宮辺は退所したし、自分には他にも担当している少年がいる。だから、切り替えなくては。そう思っても、宮辺の存在はしばらく雫の中に留まり続けていた。

 夕食を食べても、雫の心は完全には落ち着かなかった。退所していった宮辺の姿が、まだ脳裏に残っていた。

 それでも、明日も自分は出勤して別の少年と接しなければならない。少しでも気持ちを切り替えるために、雫はひとまずシャワーでも浴びようと思い立つ。

 ソファを立ったその瞬間だった。テーブルの上に置かれていたスマートフォンが振動したのは。

〝今日もお疲れ様〟

 そうラインを送ってきたのは、真綾だった。雫も再びソファに腰を下ろして、スマートフォンを手に取る。

〝はい、真綾さんこそ今日もお疲れ様でした〟

〝うん。今日もまた一時間残業しちゃったよ。雫も疲れてない?〟

〝まあ、少しは疲れてますけど、でも明日仕事したら明後日は休みになるので。もうちょっと頑張りたいと思います〟

〝そっか。それは何よりだよ。ところでさ、今日審判があった宮辺和音さんのことなんだけど〟

 真綾の話題の変え方に、雫はわずかに身構える。ただ何となく話がしたくてラインを送ってきたわけではないと薄々気づいていたものの、それでもいざ本題を切り出されると、リラックスしてはいられなかった。

〝あの、それ言っていいんですか? 守秘義務があるんじゃ……〟

〝大丈夫。雫がこのことを誰にも言わなければ、それは私が言ったことにはならないから。それに雫もあの子には担当技官として関わってるし、まるっきり無関係ってわけじゃないでしょ?〟

 そう送られてきたラインには、雫も頷ける部分があった。確かに自分は今回の宮辺の件について部外者ではないし、それに真綾の言う通り、自分がどこにも漏らさなければいいだけの話だ。

 だから、雫は〝そうですね〟といった返事を送る。自分の表情が引き締まっていることが、何となく分かった。

〝私ね、実はあの子の調査報告書に『保護観察処分が適当である』って書いたんだ〟

 真綾がそう打ち明けてきたことが、雫にはとても意外に感じられた。〝そうだったんですか〟という返事を送りながらも、頭の中には小さな疑問符が浮かぶ。

〝うん。確かにあの子の家庭環境の問題、相対的貧困にあることは私にも分かってたよ。でも、それは保護観察処分でも十分改善可能だと思ったから。あの子に保護司がつくことによって、再非行の防止は十分可能だって考えてた〟

〝そうだったんですね〟

〝そう。だからさ、雫たち鑑別所から提出された知事又は児童相談所長送致が適当であるって書かれた通知書を見たとき、私ちょっとびっくりしちゃったんだ。ああ、本当にあの子のことを考えて出した結論なんだなって思った。思えば、私たち家裁の調査官って数回対象少年と面接をするだけだもんね。接している時間が長い雫たちの方が、あの子について分かっているのも当然だなって〟

〝そんな。自分の仕事を卑下しないでくださいよ。真綾さんの調査報告書だって、審判の貴重な資料じゃないですか〟

〝それはそうなんだけど、でも今日実際にあの子とあの子の母親に会ってみて感じたんだ。あの二人の結びつきにはとても強いものがあるって。審判になっても、受け答えに今回のことを反省している様子は十分に窺えたし、裁判官が知事又は児童相談所長送致に付するって結論を出したのも妥当だなって感じた。あの二人の結びつきは、ちょっと離れたぐらいで簡単になくなるようなものじゃないってね〟

〝そうだったんですね。私もあの子が深く自省していることは感じてましたし、適切な判定だと思います〟

〝そうだね。この言い方が正しいのかは分からないけど、今回のことは雫たちのお手柄だよ。私たちだけだったら保護観察処分になってて、それは必ずしもあの子たちのためにはならなかったかもしれない。雫たち鑑別所の人間がいたからこそ今回の判定になったと、私は思ってるよ〟

〝いえいえ、別にあの子の鑑別に当たったのは私だけじゃないですし。法務教官の先輩や医師や所長、チームで鑑別に当たったおかげですよ〟

〝でも、その中には雫もいたんでしょ? 雫こそ、自分の仕事を過小評価しないでほしいな〟

〝ありがとうございます。でもあの子、宮辺さんは初めて私が担当した少年ですし、鑑別のなかで至らなかったことも多々ありました。私はまだまだだなって、何度も実感しました〟

〝まあ、そんなもんだよ。雫はまだ配属されて二ヶ月も経ってないなんでしょ? そんないきなり全てがうまくいくわけないって。でも、今回あの子の鑑別を担当してみて、勉強になったでしょ?〟

〝はい。それはもうすごく〟

〝だったら、その勉強になったことを、これから接する少年への鑑別に生かせばいいんだよ。取り組んで反省して次に生かす。それはどんな仕事でも変わらないでしょ? 大丈夫だよ。雫はまだまだこれから良い鑑別ができるようになる。何の役にも立たないかもしれないけど、私が保証するよ〟

 他でもない真綾にそう言われると、雫は心強く感じた。明日の少年との面接も張り切って臨めそうだと感じられる。

〝いえ、何の役にも立たないかもしれないなんて、そんな。真綾さんにそう言ってもらえて、私とても嬉しいです。明日からも頑張れそうです〟

〝うん。お互い頑張ろうね。私ももっと能力のある家裁調査官になれるよう努力するから。雫も鑑別所での仕事、頑張ってね〟

〝はい。お互いこれからも頑張っていきましょう〟

〝そうだね。これからもまた一緒に仕事することもあるだろうから、そのときはよろしくね。じゃあ、おやすみ。またラインしようね〟

〝はい、おやすみなさい〟

 雫がそう送っても、真綾は既読をつけただけで返信はしなかった。ラインが終わったことを雫も察して、スマートフォンから目を離す。

 テーブルに置いて、少し身体を伸ばす。疲労感が少しずつ達成感に姿を変えていた。

 でも、いつまでも緩んではいられない。明日だって少年への面接の他、しなければならない業務はたくさんある。

 雫は気持ちを切り替えるために、一つ息を吐くとソファを立った。シャワーを浴びてすっきりして、明日への英気を養う。それが、今自分が一番すべきことに思われた。



 昨日一晩中降った雨は夜が明ける頃には止んで、高く昇った太陽の光が道路にできた水たまりに反射し、目を細めてしまいそうなほど輝いている。八月が下旬を迎えても、まだまだ真夏が峠を越える気配はない。

 立っているだけで汗が噴き出しそうな暑さのなかを、彼はスマートフォンを頼りに歩いていた。平日の昼間ともあって、住宅地に外を歩いている人はほとんど見受けられない。

 蝉が鳴く音しか聞こえてこない住宅地は、この市で生まれ育った彼でも、初めて訪れるような場所だった。そして、もう二度と来ることもないだろうなと彼は感じる。

 単なるアルバイト。彼がここに来ている理由は、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 角を二つ曲がった先に停めた車から、歩くこと五分弱。彼は目的地である一軒家の前に辿り着いた。

 二階建ての木造住宅は年季が入っていて、建てられてからそれなりの時間が経っているのだろう。退職してもなおこういった家に住めるのなら、それなりに持つものも持っていそうだ。

 彼は玄関先に立つと、何かを考えるよりも先にインターフォンを押した。なるべくスピーディーに、手っ取り早く済ませる。会ったこともない相手から、電話で彼はそう聞かされていた。

 インターフォンから「はい、どなたですか?」と、ある程度の年齢を重ねた女性の声が聞こえてくる。彼はなるべく気持ちを落ち着かせてから、「先日、お電話差し上げた野上のがみです」と答えた。自分は身長もそれなりにあるし、学生だと見られることはないだろう。

「はい。ちょっと待っててくださいね」と女性の声がして、インターフォンは途切れる。

 彼は息を呑んだ。何回か同じ経験を重ねていても、この瞬間の緊張感には未だに慣れてはいなかった。


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