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第31話


 雫が目を覚ましたとき、まだ外は明るくなり始めたばかりで、朝に向かいつつも夜の気配を色濃く残していた。寝ぼけ眼でスマートフォンを見てみても、まだ五時にすらなっていない。何をするにも早すぎる時間帯に、雫は今一度目を瞑る。

 だけれど、再び眠りにつくことはできなかった。心臓が普段よりも強く鳴っている。今日は宮辺の審判が実施される、まさにその日だった。

 なかなか寝られないまま時間は過ぎていき、雫は若干重たい頭のまま、鑑別所に出勤していた。あまり寝られていないことは、同僚にも気づかれてしまったらしく、平賀や別所からは「大丈夫?」、湯原からは「しっかりしろよ」という言葉を雫はかけられる。

 精いっぱい穏やかな笑顔で返事をし、雫は仕事を始めた。宮辺の他にも担当している少年はいたし、心理検査の結果の分析は今日も続けなければならなかった。

 そんななか、平賀が職員に声をかけて職員室から出ていく。少しして外から車のエンジン音が聞こえると、雫はにわかに緊張しだす。それは、平賀が宮辺の自宅に早織を迎えに行った合図だった。

 平賀が、早織を連れて鑑別所に戻ってくる。それと時を同じくして、雫は居室に宮辺を呼びに行った。

 ドアを開けて声をかけると、宮辺は緊張した面持ちを見せていて、返事はかすかに上ずっていた。今日で自分に対する処遇が決まるのだから、当たり前の反応だろう。

 雫もドキドキしている胸のうちを隠すように、平然とした態度で「行きましょう」と促す。

 居室から出て玄関で待っていた早織と顔を合わせると、宮辺は少し平常心を取り戻せたらしい。面会の日以来に会う二人は、お互いを励まし合って不安を軽減させようとしていて、その姿に雫は二人のためになる処遇が下りますようにと、改めて思わずにはいられなかった。

 公用車に乗った宮辺たちが家庭裁判所に向かっていくのを見送ると、雫は職員室に戻って自らの仕事を進めた。

 今日は午前中、宮辺の審判が終わるまでは、雫には入所している少年との面接や心理検査は予定されておらず、デスクワークが中心だ。それでもパソコンに向かったり少年の心理審査の結果を見返している間にも、雫の頭はどうしても宮辺のことを考えてしまう。何をしていても、完全に集中はできない。

 寝不足だから、もっと眠気が襲ってくるのかとも思ったが、宮辺が審判を受けているところを想像すると、心臓の鼓動は自然と速くなり、眠気はどこかに追いやられていた。

 それでも、ソワソワしつつも外見上は平気な様子を装っていたので、湯原をはじめとした他の職員が、雫に声をかけてくることはなかった。自分のことを気遣ってくれているようでありがたかったけれど、それでも一人で黙々と仕事に取り組んでいる状況は、雫が感じる緊張により拍車をかけていた。

 ただでさえ焦がれるように遅く感じられる時間の進み方は、宮辺の審判が開始される一一時になると、さらにその歩みを遅くしていた。

 今は雫を除く全ての職員が、直接少年の鑑別に当たっていて、那須川も出払ってしまっている。だから、一人で取り残されると、慣れてきたはずの職員室が急に心細い空間に姿を変えてしまう。どうにか仕事を進めていても、意識は度々机上の電話へと向いてしまう。

 少年審判には通常一時間程度かかるから、そんなにすぐに電話はかかってこないことは、雫も承知している。だけれど、まだかまだかと気持ちはどうしても逸ってしまっていた。

 電話が鳴ったのは、あと数分で正午になろうかというときだった。

 待ち望んでいた着信音に、雫は飛びつくように受話器を手に取る。電話機の表示から内線ではないことは分かっていたので、電話が繋がるやいなや「もしもし、長野少年鑑別所の山谷です」と名乗る。返ってきた言葉は、雫が想像していた通りのものだった。

「長野家庭裁判所の細貝ほそがいです。今回は宮辺和音さんの審判の件で、お電話差し上げました」

 相槌を打ちながら、雫は内心で息を呑む。職員室に誰かが戻ってくる気配は、まだなかった。

「先ほど、宮辺和音さんの審判が終了しました。まず下された処遇についてお伝えしますね」

「はい」

「宮辺和音さんは今回、知事又は児童相談所長送致に付されることとなりました」

 電話の向こうの男性職員の声は淡々としていて、それが雫の心をほんの少しだけれど落ち着かせていた。

 家庭裁判所が自分たちが提出した通知書を参考にして処分を決めたことは疑いようもなく、そのことが雫には適切な感情か分からないけれど、嬉しく感じられてしまう。自分が宮辺の処遇の決定に寄与できたのだと、手ごたえがある。

 電話では、男性職員が今回の決定に至った理由を説明している。宮辺家の家庭環境を改善させることが、何よりも宮辺の再非行防止につながるということは、雫たちが判定会議で話し合った通りの内容だった。

「はい、了解しました。失礼します」

 男性職員との電話を終えて、雫は一つ息を吐く。知事又は児童相談所長送致の処分が下った少年は、不処分や保護観察処分等と同様に、その日のうちに鑑別所を退所する。宮辺は間もなくここに戻ってくるだろう。それまでに退所の準備を進めておかなければ。

 そう思いながら雫が立ち上がろうとした瞬間、隣から声が飛んできた。

「何だ? お前が担当してた子の処遇が決まったのか?」

 湯原は雫が電話をしている間に、職員室に戻ってきていた。昼食に手をつける前に訊いてきた湯原に、雫は心なしか胸を張って答えられる。

「はい。宮辺和音さんは、知事又は児童相談所長送致になりました」

 はっきりとした声で雫は答える。それでも、湯原はかすかにだが驚いたような顔をしていた。

「へぇ、意外だな」

「そうですか? 宮辺さんの家庭は相対的貧困に陥っていて、それを改善するためには、知事又は児童相談所長送致は妥当な判断だと思いますけど」

「いや、所長から聞いたけど、お前判定会議の場で、知事又は児童相談所長送致が適当であるって意見したんだろ。てっきり不処分とか保護観察を進言すると思ってた」

「それは私も考えましたけど、何が一番宮辺さんのためになるのか考えたら、それだなって思ったんです」

「やけに自信ありげなんだな」

「どういうことですか? 実際、家裁も知事又は児童相談所長送致がふさわしいと判断したわけですし、それって私の意見にも理があったってことじゃないですか」

「いや、お前なら『本当にこれでよかったんですかね?』みたいに言うと思って。児相の判断次第では、その子と母親は一時的にでも離れ離れになる可能性があるのに」

「それは私だって、今回の判定が一〇〇パーセント正しいのかなんて言い切れないですよ。でも、そのことは判定会議でも話し合ったことですし、審判の過程でも議題に上ったことだと思います。きっと児相もそのことは最大限考慮するでしょうし、とにかく今の私にできることは、宮辺さんが再非行をせずに幸せな生活を送ってくれますようにと願うこと。それだけですよ」

「そうだな。少年院送致でもない限り、審判を終えた少年に俺たちができることはもうないからな。この処分を正解にするかも間違いにするかも、全てはその子とその周りの大人たち次第だ」

 湯原が言ったことは的を射ていて、雫にも容易に「そうですね」と頷けるものだった。ここから先は、もう自分たちは関与できない。当然、雫にだって不安がないわけではない。

 でも、ネガティブに考えても何もならないのも事実だった。

「じゃあ、私宮辺さんの退所の準備をしたいと思います。あと一時間もしないうちに、こちらに戻ってくるそうなので」

 そう雫が言うと、湯原は小さく頷いてコンビニエンスストアのパンを食べ始めた。嫌味を言われなかったことから察するに、今回自分は悪くない仕事ができたらしい。

 そんな自負を胸に雫は立ち上がり、壁際の棚に入っている宮辺の私服や私物を取り出した。首元がよれたTシャツが、しばらく目にしていない分、雫にはどこか新鮮に見えていた。


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