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第30話


「それではこれから宮辺和音さんへの判定に対する会議を始めたいと思います。皆さん、よろしくお願いします」

 そう口火を切った那須川に続いて、雫と平賀も「よろしくお願いします」と小さく頭を下げた。なかなか入る機会のない会議室は、空気の粒子一つ一つが緊張感を帯びているようで、雫は胸が詰まり喉が渇く心地がした。正面に座る平賀も、引き締まった表情をしている。

 宮辺が入所してきてから三週間が経って、雫たちはそろそろ鑑別の成果を通知書にまとめて家庭裁判所に提出しなければならない。

 それでも湯原もいない状況では、人数の少なさもあって、雫は逃げ場を塞がれるような感覚に陥ってしまう。完全に落ち着くことはできるはずもなかった。

「それでは、まずは山谷さんから、宮辺さんに対する意見をお願いします」

 返事をして雫は立ち上がりそうになったけれど、場の雰囲気や平賀の視線がそうするべきではないと告げていた。

 だから、雫は座ったままで「では、資料をご覧ください」と口にする。机の上には、面接や心理検査の結果をまとめたプリントがあらかじめ置かれていた。

「では、私の所見についてお話しします。宮辺さんはここに来た当初は『すいません』と繰り返すばかりで、面接を行っても心を開いてくれる様子はありませんでした。それはまるで反省した様子を見せていれば、早く出してくれると思っているかのようでした。ですが、面接を繰り返していくうちに彼女は自分がした行為に対する自省を深め、本当の意味での反省ができるようになっていきました。三回目の面接で口にした『どんな処遇でも受け入れます』という言葉がその証拠です。また、宮辺さんの家庭は相対的貧困に陥っており、早急な改善の必要がありますが、それは一朝一夕では難しいと思われます。彼女は十分に反省していますが、家庭環境が改善しない限り、彼女が置かれた状況も変わりません。よって、私は彼女を知事又は児童相談所長送致にすることが適当だと考えます」

 雫はプリントも参考にしながら、筋の通った声で自分の意見を述べた。

 知事又は児童相談所長送致は、家庭裁判所における処分よりも児童福祉機関の措置に委ねる方が適切と考えられる場合に取られる、終局処分だ。児童福祉司や児童委員等による指導や、児童養護施設・児童自立支援施設等の入所措置が取られる場合がある。一にも二にも、まずは宮辺の家庭環境を改善させなければならないと考えての意見だ。

 那須川は雫の意見を聞いて、一つ頷いている。理解を示してくれていても、それが通知書に記載される内容に直結するとは限らない。

 だから、雫は気を引き締めたままでいた。

「山谷さん、ありがとうございます。では、続いて平賀さんからも、宮辺さんに対する意見をお願いします」

 那須川に促されて、平賀は落ち着いた返事をしていた。やはり雫よりも、こういった判定会議の場に慣れているのだろう。

「では、資料をご覧ください」と冷静な声で言われて、雫は同じように前もって配られていたプリントに目を落とした。

「それでは、僕の立場から見た宮辺さんへの所見についてお話しします。まず結論から述べさせていただきますと、僕も宮辺さんを知事又は児童相談所長送致にすることが、適当だと考えます。宮辺さんは最初こそ戸惑っていたり、納得がいっていない様子を見せていたものの、少しずつ今回の事案を自省して、真摯な態度でここでの生活に臨むようになりました。意図的行動観察で課した作文からも、反省の意思が見られ、物事の善悪を判断する能力も十分に育っていると判断できます。ですが、ここで不処分にしても、宮辺さんの家庭環境は何一つ改善されません。宮辺さんの相対的貧困に陥っている家庭環境を少しでも改善していくためには、保護観察よりも一歩踏み込んだ児童福祉の観点から見た措置が必要だと考えます。再非行の防止のためには、宮辺さんの家庭環境を改善することは必須で、そのための処分を採ることがふさわしいと考えます」

「以上です」そう意見をまとめた平賀に、雫がまず感じたのは安堵だった。

 塩入のときのように法務技官と法務教官で意見が食い違い、議論せずに済む。経験が浅いから、そのことを助かったと思っている自分がいることも、雫は否定できなかった。

 だけれど、同時に懐疑的な思いも湧いてくる。それは那須川が「分かりました。二人とも宮辺さんへの処分に対する意見は一致しているようですね。では、これからは通知書に記載するより細かい内容について、詰めていきましょうか」という言葉を聞いた瞬間に、思わず声となって表れ出た。

「あの、本当にこれでいいんでしょうか?」

 自分が今しがた述べた意見を根底から覆すかのような雫の言葉にも、二人は大きく驚くことはせずに、穏やかな表情を保ち続けていた。

「山谷さん、それはどういった意味ですか?」と、那須川が訊き返してくる。その反応に雫は息が詰まるようだったけれど、それでもどうにか口を開き続けた。

「本当に、家裁に知事又は児童相談所長送致を進言してもいいんでしょうか。もし本当にそういった処分になって、児童相談所長が児童自立支援施設や児童養護施設への送致を決めたとき、宮辺さんたち親子は引き離されることになると思うんです。本当にそれが、宮辺さんたちのためになるんでしょうか」

 思えば面接のときにも宮辺は早織を大切に思っていると言っていたし、早織が宮辺に対して同じように思っていることも、面会のときに雫には窺い知れていた。情緒的な面から見れば、宮辺と早織を引き離すことは妥当だとは言えない。そんな思いが、今になって雫の首をもたげていた。

 それでも、二人の表情はあまり動いてはいない。その不変さに、そう思っているのは自分だけかもしれないという感覚を雫は抱いた。

「確かに山谷さんの言うことにも一理あるかもしれませんが、別に知事又は児童相談所長送致となったとしても、児童自立支援施設や児童養護施設へ送致されると決まったわけではないですよ。訓戒や誓約書の提出、もしくは児童福祉司や児童委員による指導という措置が取られる場合だって考えられる。そのことは、宮辺さんも承知していますよね?」

「はい。もちろん理解しているつもりです。それでも、宮辺さんとお母さんが離れ離れになってしまう可能性だって、まったくないとは言い切れないですよね。そうなったら、二人はどう感じるでしょうか」

「山谷さん、最終的な処分を決めるのは僕たちではないですし、それに二人がどう思うかは、処遇には本来関係ないはずです。それを言い出したら、全ての事案は審判不開始か不処分が適当だということになってしまいますよ。そうなったら、僕たちの存在意義はないではないですか」

 那須川や平賀にたしなめられるくらいには、自分は理に適っていないことを言っている。その自覚は雫にもあった。審判は対象者の心証や感情を差し置いたところで行われるべきだという原理も頷ける。

 それでも、雫は直接宮辺や早織と接した人間として、簡単に引き下がることはできなかった。宮辺や早織に接していたのは、平賀も同様だというのに。

「それはそうですけど、それでも私はやはり、宮辺さんたちには離れ離れになってほしくないと言いますか……」

「山谷さん、そこまで言うならどうして知事又は児童相談所長送致が適当であると述べたんですか? それなら保護観察という意見でもよかったのではないですか?」

「それは……」

「山谷さん、私たちの仕事はここにやってきた少年と接して、どんな性格を持っているのか、非行に及んだ原因は何なのか。それを調べてどういった処分が一番適切なのかを考えて、家裁に進言することです。山谷さんは、今は宮辺さんの家庭の経済状況を改善させることが、安定させることが第一だと考えたんですよね。それは私も同感です。なので、自分の意見にもっと自信を持ってもいいのではないでしょうか」

「そうですかね……。私、何か間違ったことを言ってしまったのではないかと不安で……」

「山谷さん、何が間違っていて、何が正解なのかはずっと先にならないと分からないことですよ。少なくとも、僕は今の山谷さんの意見がまるっきり間違っているとは思っていません。僕も宮辺さんやお母さんと接しているうちに、今回の一番の問題は経済的に困窮している家庭環境にあると感じていましたし、山谷さんの意見にも合理性があると思っています。たとえ、二人が一時的に離れ離れになったとしても、今は宮辺さんの家庭環境を少しでも安定させること。それが再非行を防ぐ一番着実な方法だというのは、僕も同感です」

 同調してくる那須川たちの言葉は、雫の意見を補強する役割を果たした。おかげで雫は、多少なりとも自分の意見を信じることができる。

 確かに宮辺と早織が一時的にでも別離することになれば、情緒的な面では悪影響が出るのかもしれない。それでも、宮辺が再非行をせずにつつがなく暮らしていくための力になりたいという思いは、雫も持っていた。

 そのために、何が一番適切なのか。今なら着実な判断を下せそうな気がした。

「お二人ともありがとうございます。たとえ、二人が離れ離れになるようなことがあっても、それは長い目で見て何が一番宮辺さんたちのためになるかを考えた末の決断なんですよね。そのことが今になって、ようやく本当の意味で分かりました。やはり私は宮辺さんには知事又は児童相談所長送致が適当だと考えます」

「そうですね。では、通知書に記載する内容は、宮辺さんは知事又は児童相談所長送致がふさわしいということで、二人ともよろしいでしょうか」

 那須川に言われて、雫は明確に頷いた。同じタイミングで平賀も首を縦に振っている。

 自分たちにできることは、通知書を提出してしまったらほとんどなくなる。

 それでも、雫は限られた時間のなかで、自分たちの仕事が最大限できたような気がしていた。自分たちの判断は宮辺たちのこれからにとって、一番ふさわしいものになっている。そう思えた。

「分かりました。では、通知書には知事又は児童相談所長送致が適当であると記載するということで。それでは、ここからはその根拠となる内容について、改めて確認していきましょうか」

 そこから雫たちは、宮辺の性格や資質について再検討を行った。とはいうものの、これまでの鑑別で雫や平賀の見解はほとんど一致していたから、さほど言い争うこともなくスムーズに検討を進められる。

 一つ一つ鑑別結果通知書に記載される内容が決まっていく度に、雫は終局の予感を味わった。

 宮辺はあと数日もしないうちに、この鑑別所を後にする。そのことに、胸が締めつけられるような心地さえしていた。


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