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第26話


 バスを降りると、傾いた太陽の日差しがまっすぐ目に飛びこんできて、別所は思わず目を細めてしまう。時刻は夕方になりつつあるとはいっても、まだ八月も下旬に差しかかったばかりだから、うだるような蒸し暑さは健在だ。

 軽く額を拭った別所は、バスを降りた多くの人々と同じように、少し先に見える入り口への階段に向かう。手にはあらかじめ買っておいたチケット。

 この日非番である別所が訪れていたのは、長野市は篠ノ井にあるサッカースタジアム、長野Ⅴスタジアムだった。

 階段を上り、入り口でチケットを提示してメインスタンドへと向かう。そんなわずかな間でも汗をかきそうな陽気のなか、別所はホームチームであるAC長野キャマラッドのベンチの後方付近を選んで座った。大体毎回同じような場所に座っている、いわば別所の指定席のようなものだ。

 キックオフまでにはまだ一時間以上あり、ピッチにはまだウォーミングアップを行う選手の姿もなく、試合中は応援歌でチームを鼓舞するゴール後方の座席エリアも今は静かだ。

 少しずつ観客が入り始めるなか、別所はコンビニエンスストアで買った麦茶を一口飲む。今日は一八時キックオフのナイトゲームだが、多少は涼しくなっても暑いことには変わりないので、水分補給はどうしても必要だった。

「こんにちは、別所さん。今日も暑いですね」

 ハンディファンで涼しい風を浴びつつ、何の気なしにスマートフォンを見ていると、別所は隣に座った男性から話しかけられた。AC長野キャマラッドのオレンジ色のユニフォームを着た少し腹が張りだしているその男性は、手にスタジアムグルメである唐揚げを持っていて、ドリンクホルダーにはカップに注がれたビールが置かれている。

 観戦するときは、よくこの男性と隣の席になるから、別所も知らない仲ではない。だから、気軽な調子で答えられる。

「ええ、万里さん、こんにちは。今日は休み、取れたんですね」

「ええ、運よく。本当は妻と子供も一緒に行こうと誘ったんですけど、まだサッカーには興味ないみたいで。結局一人で来ることになっちゃいました」

「そうですか。それはお疲れ様です」

 そう別所が言うと、万里はビールカップを手に取って向けてきた。別所もペットボトルの麦茶を手に取る。

 そして、二人は軽く乾杯を交わした。機嫌よくビールを口に運んでいる万里を見ると、少し羨ましいなと別所は思う。でも、自分の車を篠ノ井駅に停めてあるから、いずれにせよ酒を呑むわけにはいかなかった。

「で、どうですかね? 今日のキャマラッド、勝てそうですかね?」

 別所がそれとなく話を振ると、唐揚げを食べながら、万里は少し渋い表情をしてみせた。今チームが陥っている状況を物語るかのように。

「さあ、どうだろうねぇ。最近キャマラッド全然勝ててないからねぇ。この間の試合も負けちゃったし」

「確か最近は、ゴールすらなかなか奪えてないんですよね」

「ああ、前半戦は調子悪くなかったのに、本当にどうしちゃったんだろうな」

「でも、今日までに三週間の中断期間が入ったじゃないですか。きっとその間に練習を積んで立て直してくれてますよ」

「そうだな。まあ見てる側とすれば、そうなってくれてることを祈るしかないわな」

 二人の言葉は、楽観的予測に違いなかった。今、キャマラッドは調子が悪く、順位も下位に沈んでしまっている。今日は同じく下位に沈む宮崎が相手だが、油断や慢心は現状ではできるはずもないのだ。

 それでも、別所たちは期待する。今日こそはキャマラッドの勝利が見たい。それは宮崎からやってきた観客を除けば、スタジアムに足を運んでいる全員の総意に違いなかった。

「それで、どうですか。万里さん、最近仕事の方は。相変わらず忙しいですか?」

 キャマラッドの話題が一段落ついたところで、別所はそう水を向けてみた。お互いの仕事は、既に二人ともがそれとなく把握している。

「まあ、それなりにはな。非行に及ぶ少年っていうのは、毎日のようにいるもんだし。でも、そこまで目が回るような忙しさじゃねぇよ。少なくとも、俺がこうしてUスタに来れてるくらいには」

「そうですか。とても大変という状況ではないようでよかったです」

「そういう別所さんの方はどうなんだよ? そっちの仕事だって忙しいんじゃねぇのか?」

「まあ少なくとも、暇を持て余すという感じではないですね。逮捕・検挙される少年の人数は減少しているとはいえ、それでも常に鑑別所には少年がいますから、仕事はありますよ。それでもこうして、たまに息抜きができる程度にですけど」

「そっか。まあお互い同じ分野に関わる者同士、これからも頑張ってこうや」

「はい。職域は別ですけど、これからもそれぞれの仕事をそれなりに頑張っていきましょう」

 二人はそう言って微笑む。屋外の開放的な空気は、二人の気分を和らげていた。別所も今日は思う存分リフレッシュして、また明日からの仕事に備えようと思える。

 スタジアムに流れてきた音楽は勇敢なものに切り替わり、まずゴールキーパーの二人がウォーミングアップのために、ピッチに登場した。

 別所たちも他の多くの観客と同じように、二人を拍手で迎える。ぜひとも今日の試合で勝ってもらって、明日を気分よく迎えたい。今別所が思うことは、それだけだった。



 宮辺の母親である早織さおりが面会のために鑑別所にやってきたのは、雫が橘田と楽しい時間を過ごし、心身ともに多少なりともリフレッシュして再び出勤した、まさにその日だった。

 予定時間の一〇分前にやってきた早織は実際の年齢よりもいくらか若く見える容貌をしていて、半袖のカットソーから白い肌が覗いていた。雫に会った瞬間から、「すいません。ウチの和音が迷惑をかけて」と謝ってきて、迷惑をかけられたのは自分ではないんだけどなと思いつつも、雫は「いえいえ、大丈夫ですよ」と応えて、早織を面会室へと案内する。

 廊下を歩きながら、そして椅子に腰を下ろしても、早織は緊張しているのか不安げな表情を見せていたけれど、無理もないなと雫は思う。鑑別所に来る機会は、誰にとってもそうそうあるものではないのだ。

「少々お待ちください」と早織に告げて、雫は居室に宮辺を呼びにいく。今日この時間帯に早織が来ることはあらかじめ伝えてあったから、宮辺もすんなりと呼びかけに応じる。待望する目は、早く母親に会いたいと心から望んでいるようだった。

 ドアを開けて入ってきた雫たちに、早織は思わず立ち上がっていた。宮辺を一目見るなり安心したのか、目が弓のような形に近づいている。宮辺の表情も、気を抜いたら涙がこぼれてしまいそうなほどだ。

 そんな二人を机を挟んで向かい合って座らせ、雫も二人の表情が見えるように、短辺に置かれた椅子に腰を下ろす。そして、「面会時間は一五分です。では、始めてください」と雫が言うと、堰を切ったかのように早織から言葉が溢れ出した。


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