「このはちゃん、立派になったね」
「なんですか、急に。私なんて、中身はまだまだガキですよ」
「ううん、そんなことない。『私に相談して』なんて言葉、出会ったときのこのはちゃんからは、絶対に出てこなかったと思うから」
「まあ、確かにそれはそうかもしれないですね」
「そうだよ。それにこのはちゃん、最初に会ったときは髪真っ赤っかだったじゃん。背も高いし、私すごく緊張してたんだよ」
「それ、今思うとちょっと恥ずかしいですね。まあ、あの頃は私もなめられてたまるかみたいな感じだったので。今以上にガキだったなと思います。保護観察中だったっていうのに」
「そうだね。そのときを思えば、本当に立派になったなって思うよ」
雫たちは顔を見合わせて笑う。
二人が出会ったのは、今からおよそ三年前のことだ。数回に及ぶ窃盗の後家庭裁判所に送致され、審判の結果保護観察処分となっていた橘田に、雫がBBS(Big Brother and Sister)の活動の一環として接することになったのがきっかけだ。
BBSとは、保護観察中の少年に一回りほど年齢が上の青年が接するボランティア活動だ。年下とはいえ自分よりも背が高く、髪を真っ赤に染めていた橘田に威圧感を受けた日のことを、雫は今でもよく覚えている。
「そうそう。そういえば、このはちゃんあれ覚えてる? ほら、
「みんながお肉ばっかり持ってきて、誰も野菜を用意しなかったんですよね。あれはあれで美味しかったんですけど、でもちょっと胃もたれはしちゃいました」
「そうそう。本当だったら加賀美さんが用意しそうなところを、あの人忘れちゃってたみたいで。あのときはみんなで笑ったよね」
「はい。めっちゃおかしかったです」
二人はそれからも、しばらく思い出話に花を咲かせた。話をしていると、保護司だった加賀美のもとで橘田と接していた日々が、まるで昨日のことのように雫には思い出せる。橘田も共通の話題に、顔をさらに綻ばせている。
蕎麦屋からの電話が鳴らないこと以外は、雫たちは理想的な休日を過ごせていた。
「雫さん、今度はまた三人で集まりたいですね。
きっと橘田に他意はなく、その言葉もまさしく言葉通りの意味なのだろう。でも、雫は「そうだね」以上の返事ができなかった。雫たちと世良は今、なかなか会える状況にない。そのことが雫の相槌を濁らせていた。
かすかに雲が差しこみ始めた雫の表情に、橘田も気づいたのだろう。「すいません。そういうつもりじゃ……」と、少し申し訳なさそうな様子を見せる。でも、それは雫には少しも見ていたいものではなかった。
「いや、いいよ。世良君も交えてまた三人でどっか行ったり、バーベキューしたりしたいなとは私も思ってるから」
「そうですよね」と橘田が答えたきり、二人の間から会話は一瞬消失した。テーブルの周囲に漂う静けさは、先ほどまで思い出話で盛り上がっていたのが、嘘のように雫には思えるほどだ。
何か話さなければ。そう雫が直感して口を開くよりも先に、尋ねてきたのは橘田の方だった。
「あの、雫さんこそ、お仕事の方はどうなんですか?」
そう話題を変えた橘田の言動を、雫は不自然だとは思わなかった。自分だって先ほど、橘田の仕事の調子を尋ねている。同じことを訊かれても、何一つ無理はない。
「ま、まあ。凄く順調とは言えないけれど、なんとかはやれてるよ。うまくいかないこともそりゃないわけじゃないけど、でもまだ配属されて一月くらいじゃそれも当然だからね」
「雫さん、それって本当にその範囲に収まってますか? 本堂でも『仕事がうまくいきますように』って願ったり、さっきも少し自分を卑下するようなこと言ってましたよね。私の考えすぎだったらいいんですけど、本当に大丈夫なんですか?」
「うん、心配してくれてありがと。でも、大丈夫だよ。このはちゃんだって仕事でうまくいかないなって思うこと、あるでしょ? それと同じだよ」
「確かにありますけど、でもそれは人によって違うじゃないですか。仕事も全然違いますし、私が困ってることと雫さんが困ってることは、やっぱり違うと思うんです。雫さんだって、たまには愚痴くらい言ってもいいと思いますよ」
「いやいや、愚痴なんて。これはただ単に私が未熟なだけだから。私の力量がないせいだから」
「雫さん、気づいてます? 今、自分で自分を責めてますよ。思わずそうなっちゃうくらい、仕事大変なんですか?」
橘田に問いかけられて、雫は一瞬返事に詰まった。愚痴は言いたくはないが、それでも今の仕事を大変だと感じているのは事実だった。配属が決まったときにある程度は覚悟していたし、法務技官の仕事を辞めるつもりは毛頭ないが、橘田の言葉に我に返った感覚がある。
今、橘田の雰囲気は大らかと言ってよく、雫がどんなことを言っても受け入れてくれそうだった。
「いや、大変じゃないって言ったら嘘になるけど、でも守秘義務があるからさ。何がどう大変かは、それは口が裂けても言えないよ」
「それで十分です。雫さんが強がらずに、仕事が大変だって認めてくれただけで、私には十分ですから」
そう言って頬を緩めた橘田に、雫は心が洗われる思いがした。今までは模範になろうという意識が強くて、橘田に弱音を吐いたことはあまりなかった気がする。
でも、いざ口にしてみると雫は思っていたほど、ネガティブな感情は抱いていなかった。弱音をありのまま受け入れてくれる存在がいることのありがたみを、身に染みて感じるようだ。
「雫さん。私は雫さんが何にどう苦労しているのかは分かりません。守秘義務があって言えないことが多いのも分かります。でも、私は雫さんなら大丈夫だと思ってますから。かつての私たちにしたみたいに、優しく暖かく相手に接しててください。それが、雫さんの一番いいとこなんですから」
これはボランティアではなく仕事だから、いつも優しく接するわけにはいかない。相手のことを思えば、時には厳しく接する必要もある。
でも、瞬間的に感じたその思いは、雫には今は口にしなくてもいい気がした。橘田が言ったことにケチをつける気はさらさらなかったし、ほんの少しでも心が軽くなった感覚を、雫は確かに抱いていた。
「ありがと。このはちゃんにそう言ってもらえて、少し元気出てきたよ」
「それは何よりです。お互い色々と仕事大変ですけど、どうにか頑張っていきましょう」
「って、私が言うことじゃなかったかもしれないですね」そう恥ずかしげに笑った橘田にも、雫は「うんうん、そんなことないよ」と、フォローを入れることができる。大変なことはあるけれど、それでも今の自分たちは仕事に向かっていくしかないのだ。
雫にも、また明日からの仕事に精いっぱい取り組もうという気持ちが湧いてくる。その思いは微笑んでいる橘田を見ていると、より強くなった。
雫のスマートフォンが振動する。知らない番号からの着信だ。でも、発信者に見当はつくので、雫は自然と電話に出ていた。案の定、電話をかけてきたのは蕎麦屋の店員で、席が空いたから来てほしいと伝えられる。そのことを橘田にも伝え、二人は残っていたアイスコーヒーを飲み干して、席を立った。
ようやく長野名物の蕎麦が食べられると、気分を弾ませている橘田の表情を目にすると、雫もまたワクワクする気持ちを抱いた。