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第20話


 本当に何の前触れもなかったから、そのラインを送ってきた人物に雫は軽く驚いてしまう。最後にラインでやりとりをしたのは一ヶ月以上も前のことで、そのときは雫から簡単な連絡をするにとどまっていた。

 でも、多少期間は空いたとはいえ、雫にその人物とのラインを拒む理由は一つもない。だから、雫もラインのトーク画面を開き、簡潔に返信を打ちこんだ。

〝うん、久しぶり。このはちゃん。どうかしたの?〟

 雫が送ったラインにはすぐに既読がつく。それは突然ラインを送ってきた橘田好乃葉きったこのはが、今もスマートフォンを手にしている証に他ならなかった。

〝いえ、ちょっと雫さんが今どうしてるのかなって、気になったので〟

 橘田の返事はどこか形式がかっていて、他に何か用件があるのだろうと、雫は察する。ただ調子を尋ねたいがためにラインをする人間の存在は、雫の頭ではさほど思いつかない。

 良い用事か、それともそうではないのか。そのどちらも雫には考えられたけれど、ひとまずは橘田のラインに素直に答えることにした。

〝今は仕事も終わって、ご飯も食べてゆっくりしてたよ〟

〝そうですか。雫さん、お仕事お疲れ様です。数か月にも及ぶ研修を終えて、実際に鑑別所で法務技官として働き始めて、毎日大変じゃないですか?〟

〝まあ、やってきた子の心理に深く関わる仕事だからね。もちろん大変な面はあるよ。でも、それを言ったらこのはちゃんも同じじゃない? どう? 仕事の方は。ちゃんとやれてる?〟

〝まあなんとか、おかげさまで。仕事にも大分慣れてきましたし、同僚の人たちも優しくて、どうにか続けられています〟

〝そう。ならよかった。これからもがんばってこうね。お互いに〟

〝はい。それと、雫さん。一つ訊きたいことがあるんですけど、いいですか?〟

〝いいよ。どうしたの?〟と返信しながら、雫は内心で少し身構えてしまう。やはり橘田はただ雑談がしたくて、ラインを送ってきたわけではなかったのだ。

 橘田が少しして、再びラインを送ってくる。その文面は、雫が抱いたどの推測とも異なっていた。

〝今度、そっちに行っていいですか?〟

 予想だにしていなかった橘田の用件に、雫は小さく口を開けてしまう。誰かの前でなくてよかったと思えるほどに。

〝こっちにって、このはちゃんが長野に来るってこと?〟

〝はい、そうです。私の会社、一三日から一六日までがお盆休みで。でも、私特にすることもなくて。暇だなぁどうしようかなぁと考えたときに、雫さんに久しぶりに会いたいなと思ったんです。長野観光も兼ねて〟

〝それはいいんだけど、このはちゃんお金は大丈夫なの?〟

〝大丈夫です。私もちょっとは貯金してますから。それに高速バスで行けば、なんとかはなるかなと〟

〝まあ、そういうことなら大丈夫か〟

〝ですよね。で、雫さんは一三日から一六日の間で、休みの日ってありますか? もちろん、平日なので休めないならそれでいいんですけど〟

〝いや、大丈夫。私も一五日は休みだから。元々その日は何の予定も入れてないし、このはちゃんにだって会おうと思えば、会えるよ〟

〝そうですか! じゃあ、その日に行かせていただきます〟

〝うん、分かった。じゃあ、待ってるね〟

〝はい! 色々と長野、案内してくださいね!〟

〝うん〟とラインを送りながらも、雫は少し困ってしまう。

 長野は東京育ちの雫には元々縁もゆかりもない場所で、先月配属になって初めてやってきたにすぎない。そして、休みの日には雫は宿舎にいることが多く、外を出歩いたこともあまりない。善光寺に一度行ったことがあるくらいだ。

 だから、自分が長野を案内できるかどうか、いくばくかの心許なさを雫は抱いてしまう。職場の人間や一足先に長野にやってきた真綾に、それとなくおすすめのスポットを訊いてみなければ。

 そう雫は、橘田が送ってきたアニメのキャラクターのスタンプに、同じく犬のキャラクターのスタンプで応えながら感じていた。




「万里さん、帰りがけにすみません。家裁に送る少年の調査票ができたので、確認してもらえますか?」

 午後の六時を回って帰り支度を整え始めた万里に、上辻は声をかけていた。巡査である上辻が書いた調査票は、必ず上官にあたる万里がチェックする規則だから、万里も面倒くさそうな様子は見せず、上辻が書いた調査票を受け取る。

 万里が調査票に目を通している間、上辻は緊張せずにはいられない。この生活安全課第二課に配属されて、少年の調査票を書くようになって一年近くが経っているものの、未だに万里から修正を言い渡されることは少なくなかった。

「ああ、これでいいと思うぞ」

 調査票から顔を上げて一言そう言った万里に、上辻はわずかに目を瞬かせる。意図せず「本当にこれでいいんですか?」という言葉が漏れてしまう。

 それでも、万里の表情は飄々としていた。心なしかどこか締まりのないようにも、上辻には見えるくらいだ。

「何だよ。お前はこれじゃダメだって思ってるのか?」

「いや、そんなことはありませんけど……」

「だったらこれで提出しろよ。大丈夫だよ。事案の詳細も少年のプロフィールも、事情聴取に基づいてよく書けてる。これなら、家裁も何か言ってくることはないはずだ」

「分かりました。さっそくこれから送らせていただきます」

「ああ、頼むぞ」そう言って会話を終わらせた万里は、帰り支度を再開し始めた。カバンに必要なものを詰めていく。

 でも、上辻にはやはりその表情がどことなく緩んでいるように見えた。その理由には、上辻も心当たりがある。

「どうしたんだよ。自分の机、戻ればいいだろ」

「いえ、ちょっと。あの、ところで万里さん、明日からお休みですよね」

「そうだよ。明日から四日間な。働き方改革で休めるときに休んどけって、上も言ってることだしな」

「あの、もし差し支えなければ訊きたいんですけど、万里さんはその休日を、どう過ごす予定なんですか?」

「キャンプだよ。家族でキャンプ。一泊二日でな」

「そうなんですか。いいですね」

「まあ休日とはいえ呼び出しがかかるかもしれないから、あまり遠くには行けないんだけどな。でも、毎年この時期になると、志賀高原のキャンプ場に行くのが、ウチの恒例になってるから。普段なかなか一緒に過ごせない分、たまには家族サービスしないとな」

「いいですね。大自然に囲まれてのキャンプ。憧れます」

「ああ。バーベキューしたり、近くの森林を散策したり、あとは子供をアスレチックで遊ばせたり、まあ色々するよ。夜にただ焚き火を見ているだけでも落ち着くしな。ていうか、憧れるならお前もキャンプすりゃいいじゃねぇか」

「いや、してみたい気持ちはあるんですけど、でも男独り身のキャンプって寂しくないですか?」

「そんなことはないだろ。ソロキャンパーなんて、今の時代どこのキャンプ場にもいるんだし、別に今さら誰も気にしてねぇよ」

「それはそうなんですけど、でもキャンプ道具を集めるのにも、お金がかかるじゃないですか。それにテントとか買っても宿舎だと置き場所がなさそうですし。今はまだいいかなと」

「そうか。やってみれば楽しいんだけどな。ていうか、お前の方こそどうなんだよ」

「どうなんだとは?」

「有給だよ、有給。取らなくていいのか? このままだと休め休めって、上からせっつかれるぞ」

 訊く側と訊かれる側が逆転して、上辻は内心で苦笑いを浮かべてしまう。

 これといった趣味のない上辻は、現状でさえ非番の日を持て余し気味だから、積極的に休みたいとは感じていなかった。

「僕は、まだいいかなと。宿舎にいるよりも、仕事をしているときの方が生きてる感じというか、充実感を感じてますし、それにまだ配属されてから一年ぐらいしか経ってないので。そんな何日も休まなくても、まだ身体の方は持ってくれるかなと」

「何だよ、それ。もう五〇を過ぎた俺への嫌味か? 当てつけか?」

「い、いえ、そういうわけでは……」

「冗談だよ。まあお前はまだ若いからな。今のままでも大丈夫なら、それに越したことはないか。でも、疲れたり体調が悪くなったりしたら、ちゃんと休めよ。万が一のことがあったときに困るのは、お前もそうだけど、この第二課全員なんだからな」

「はい、肝に銘じておきます」

 上辻がそう答えると、万里は一つ頷いて立ち上がった。帰り支度は、既に会話をしながら済んでいた。

「じゃあ、俺もう帰るから。四日だけだけど、俺がいない間よろしくな」

「はい。万里さんも楽しいお休みを過ごしてください」

「ああ、言われなくてもそうするよ」

 万里は一つ微笑んでから、関係者通用口へと向かっていった。同じ第二課の職員に挨拶する声も、少し弾んでいるように上辻には感じられる。

 万里の姿が見えなくなってから上辻はコピー機に向かい、認可が下りた少年の調査票のスキャンを始めた。あとはスキャンしたファイルをメールに添付して、家庭裁判所に送れば今日の業務は終了だ。

 スキャンが終わった調査票を手にして、上辻は浅く息を吐く。顔を上げると、空はいつの間にか暗くなり始めていた。


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