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第16話


「どうですか、山谷さん。仕事には慣れてきましたか?」

 ピークを迎えた夏に、うだるような暑い日々がいつまで続くのかと思うほど続く。

 そんなある日、昼食を食べ終えて自席でスマートフォンを見ていた雫は、那須川に話しかけられていた。雫もすぐにスマートフォンをしまい、那須川の顔を見上げる。那須川の表情は穏やかで、普段通りに落ち着いていた。

「ええ、おかげさまで。湯原さんの指導は厳しいですけど、それでも私のことを考えているのが伝わってきて、とてもためになっています」

「そうですか。面接や心理検査など、少年と接する場面ではどうですか?」

「それもまだ分からないことの方がずっと多くて、要領を掴めてきたとは正直言えないんですけど、それでも何回か行っていくうちに、こういう思いで臨むべきだという心構えみたいなものは、少しずつですが分かってきた気がします」

「そうですか。それは何よりです」那須川はそう納得するように頷いていたけれど、雫は那須川が自分に声をかけてきた理由を、あれこれと推測していた。ただ調子を尋ねたいわけではないだろう。

 もちろんその可能性もあるが、それでも雫には那須川の用件は別にあるように感じられていた。

「あの、それがどうかされたんですか?」

「いえ、山谷さんは大丈夫なのかなと思いまして。でも、そう聞く限り、ここでの仕事も徐々に覚えつつあるようですね」

「はい。それは」と相槌を打ちつつも、雫の頭は回り続ける。まさか本当に調子を尋ねたいだけなのか。

 那須川は「そうですか。それなら大丈夫そうですね」と、腑に落ちたように言っている。雫には、その言葉の意味がいまいち掴めない。

「あの、大丈夫とは……」

「はい。山谷さんには、そろそろ少年を一人で担当してもらいたいと思っているのですが、引き受けてくれますか?」

 これは仕事だ。上司である那須川からの業務指示には、従うほかないだろう。

 そう分かっていても、思いがけない言葉には違いなかったから、雫は「私がですか?」という声を漏らしてしまう。少し素っ頓狂な声にも、他に今職員室にいるのはイヤフォンで音楽を聴いている平賀だけだったから、特に反応を示されることはなかった。

「はい、そうです。配属されたときに言ったでしょう? ウチは職員が少ないから、山谷さんにも早く戦力になってもらわないと困るって」

「それはそうですけど、今ですか」

「はい、今です。遅かれ早かれ、山谷さんには一人で少年を担当する日が来ていたんですから、ここは頷いていただけると、私たちとしてはありがたいのですが」

 那須川の口調は雫に選択肢を提示するようで、その実、首を縦に振ることを迫っていた。

 雫だって分かっている。これは仕事だから断るわけにはいかないと。それがたとえ、配属されてまだ一ヶ月ほどしか経っていなくても、だ。

 那須川の言う通り、やがて自分は少年を一人で担当する日が来ていただろう。それが少し早かっただけの話だ。

「はい、分かりました。担当させてください」

「ありがとうございます。その子は明日ここにやってくる予定なのですが、大丈夫ですよね」

「それは、はい。大丈夫にします。あのちなみにどんな少年なんですか?」

宮辺和音みやべかずねさんという女子少年を、山谷さんには担当していただく予定です」

「その宮辺さんは何をして、ここに来ることになったんでしょうか?」

「占有離脱物横領と聞いています。具体的に言えば、拾った財布のお金を勝手に使ってしまったということですね。一昨日交番に出頭したようです」

「はあ、そうですか」

「ええ。詳しいことはまた追って伝えますので、とりあえず明日その女子少年がやってくる。そのための準備や心構えをしておいてください」

「分かりました」と雫は頷く。

 那須川が言った女子少年とは、平たく言えば少女のことだ。少年法で言う「少年」とは男女両方を含んだ概念だから、少女のことを「女子少年」と呼ぶことがある。

 同性だから、少しはやりやすいだろう。雫は、そんな安易な予測さえ立ててしまっていた。まだその宮辺とは、顔も合わせていないのに。

「はい。では、お願いしますよ」と言うと、用件が済んだのか那須川は雫のもとから離れて、自分の机に戻っていった。

 雫もスマートフォンを再び手に取りながらも、それでも気持ち背筋を正さずにはいられない。

 その宮辺という女子少年の担当技官として自分が指名されたことに、今から責任とプレッシャーを感じていた。



 翌日。雫は自分の机に座って、そのときを今か今かと待っていた。落ち着いていられず、何度も警察から送られた調書に目を通す。その向かい側では、平賀がパソコンの画面とにらめっこをしている。

 宮辺がやってくる予定時間まで、残り数分。その間、雫は早鐘を打つ心臓を抑えきれずにいた。

 予定されていた時間から数分遅れた頃、職員室にはチャイムの音が鳴る。二人は立ち上がり、職員室を出て宮辺を迎えに行った。

 外は朝から雨が降り続いているなか、平賀がカードキーを使って玄関を開ける。すると、そこには家庭裁判所の職員に連れられた宮辺がいた。

 一四〇センチメートルほどの背丈は、一五歳という年齢を差し引いても、雫には小柄に見える。首元がよれたキャラクターもののTシャツは、もう何年も着ているものなのだろう。切れ長の目は可愛らしいというよりも凛々しいという言葉がふさわしいように雫には思えたが、その瞳の奥には確かな怯えが滲んでいた。

「宮辺和音さんですね。今日からあなたの行動観察をさせていただく平賀です。よろしくお願いします」

 玄関をくぐって二言三言宮辺や雫たちに言葉をかけると、家庭裁判所の職員は鑑別所を後にしていた。

 三人だけで残されると、雫は息を呑まずにはいられない。宮辺がただでさえ小さい背丈を若干縮こまらせているのも、緊張に拍車をかける。平賀が自己紹介をしても、小さく頷くだけだ。明らかに雫たちを警戒していて、そんななかで声をかけることは、雫には気が引けてしまう。

 それでも黙っているわけにはいかなくて、雫は自分にできる最大限の優しい声を出した。

「同じく、宮辺さんの面接や心理検査等を担当させていただく山谷です。宮辺さん、よろしくお願いしますね」

 雫が精いっぱいの優しさで接しても、宮辺はおっかなびっくりといった様子で、小さく頷くだけだった。その表情にまるでここを刑務所のように感じていることが、雫には察せられる。そんなことはないと笑いかけてみても、今は逆効果だろう。

 平賀が「では、宮辺さん。これから宮辺さんがここでの時間を一番多く過ごす、居室に案内します。ついてきてください」と言う。宮辺が頷いたのを確認して、三人は居室へと歩き出した。

 宮辺の居室は、奥から二番目にあった。平賀がドアを開けると、中にはあらかじめ用意されていた水色の制服が、綺麗に畳まれて置かれていた。言わずもがな、ここに来た少年はこれを着て生活する決まりだ。

 でも、その制服も宮辺には囚人服のように見えているのだろう。ドアの内側にドアノブがないことも相まって、宮辺は分かりやすく戸惑っていた。

「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。ここは宮辺さんに刑罰を与える刑務所ではありませんから」と、見かねたように平賀が言う。それでも、宮辺の瞳は不安に揺らいでいた。

「では、そちらの制服に着替えたら、声をかけるかノックで私たちに知らせてください。各施設を案内した後は、ここでのルールやこれからの流れについて、説明させていただきます」

 そう平賀が言って、雫たちはいったん居室の外に出た。中にいる宮辺を不安にさせないように言葉を交わすことはせず、じっと待つ。

 すると数分後に、ドアがノックされた。平賀がドアを開けると、宮辺は水色の制服を着て立っていた。部屋の中では脱いだ服がきちんと畳まれていて、雫は宮辺本来の性格をわずかながら推測する。

「では、行きましょうか」と平賀が促して、雫たちは鑑別所の各施設を宮辺に案内した。

 面接室や面会室、食堂や図書室などといった設備を巡る三人。そんななかでも宮辺の表情は強張ったままで、そりゃそう簡単にはリラックスできないよなと、雫は当たり前のことを感じた。


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