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第15話


 塩入が鑑別所に戻ってきたのは、雫たちが家庭裁判所から連絡を受けてから、一時間以上が経ったときのことだった。「お疲れ様」といったような言葉をかけてから、湯原は塩入にここに来るときに着ていた私服やスマートフォンといった私物を返却する。

 塩入が居室で着替えている間、雫たちは少しだけ塩入の両親と話す。睦美や父親である隼人はやとは、しきりに雫たちへの感謝を述べていた。

「お二人のおかげで、翼も深く反省できました。本当にお世話になりました」という言葉に、湯原は「いえ、ここで働く職員全員の力ですよ。でも、何より翼君がちゃんと自分がしたことを見つめ直してくれたことが大きいです」と返している。雫もその通りだと思いつつ、どこかこそばゆい思いを抱かずにはいられない。

 そして、退所の準備を進めているときに芽生えた感情は、塩入たちの姿を見ると余計に膨らんでいた。

「湯原さん、山谷さん、本当にありがとうございました。この子のために動いてくれて。おかげで今私たちはこうしてこの子を迎えることができています。感謝してもしきれません」

 退所の手続きを終えると、正面玄関の前で雫たちは塩入たちと向き合っていた。睦美に続くように隼人も「ありがとうございます」と、重ねて感謝の意を示している。

 塩入も小さく頭を下げていて、その姿が雫の胸にまっすぐ届く。

「いえいえ、翼君が真剣に面接や心理検査、ここでの生活を通して自分がしたことに向き合ってくれたおかげですよ。僕たちがしたことなんて、そこまで多くはないです。声をかけるなら翼君にかけてあげてください」

「はい。私たちもこの期間で色々と考えることができました。帰ったらより、この子と本音のコミュニケーションを取りたいと思います」

「ぜひそうしてください。お二人のそういった姿勢が、再非行を抑止することに繋がりますから」

「はい。そうします」睦美は明確にそう答えていて、雫が抱くわずかな不安を軽減させた。

 きっと三人は、ここに来る前よりも良い親子関係を結ぶことができるだろう。そう思うに値する雰囲気が、塩入たちからは発せられていた。

「翼も何か最後に挨拶したら?」と睦美が塩入に促している。塩入は一つ頷くと、両親の手前だからか、少し恥ずかしそうに口を開いていた。

「湯原さん、山谷さん、ありがとうございました。万引きをした僕にも温かく接してくれたこと、本当に感謝しています」

「ええ、僕たちも塩入君の自省に繋がるような働きができたのならよかったです」湯原は穏やかな口調で答えていた。塩入がいない前だったら「まあ、それが仕事だからな」ぐらい言ってもよさそうなのに、そういった言葉は口にする気配すらない。

 最後は温かく送り出したいと思っているようで、それは雫も同感だった。

「はい。僕が自分のしたことについてより顧みることができたのも、湯原さんたちのおかげです。特に面接のときの山谷さんの言葉には感じるものがありました」

 予想外に自分の名前を出されて、雫は思わず「私が?」といったような表情を浮かべてしまう。

 でも、そんな雫にも塩入は感謝するような目を向け続けていた。

「山谷さん、確か二回目の面接のときに言ってましたよね。僕のことを知りたいだけ、分かりたいだけって。それがそのときの僕には響いて。この人たちは僕を裁きたいわけじゃないんだ。もしかしたら僕の味方になってくれるのかもしれない。そう思ったんです」

「それで、次の面接のときに本当のことを話してくれたんですか……?」

「はい。それだけじゃないですけど、理由の一つになったのは確かです。本当のことを話すのは怖かったんですけど、でも話してみたら、胸につっかえていたものが取れたような気がしました」

「それはよかったです。私も翼君の本音が知られて嬉しかったです」

「はい。僕も言ってよかったと思えました。ここに来てよかったとは正直言えないんですけど、それでも山谷さんや湯原さんと出会えたことはよかったと思っています。もしかしたら、僕がここに来た意味もあったのかもしれないです」

「そうですね。私たちも翼君を担当できてよかったです。でも、もうこういったところには来ないでくださいね。子供の間はもちろん、大人になっても翼君が非行に及ばず、安定した生活を送ることが私たちの一番の望みですので」

「もちろんです。ここで時間を過ごすことでどうして万引きをしてはいけないのか、非行に及んではいけないのかがよく分かりました。もうしないように努めます」

「ええ。本当にもうしないでくださいね」

 雫がそう言うと、塩入はほんのわずかに表情を緩めた。「分かっています」とでも言いたげな顔に、雫は自分たちが成したことの意味を、改めて知る。

 誰にも保証はできないけれど、塩入の瞳の奥に宿る色は、雫にきっと大丈夫だろうと信じさせるには十分だった。

 塩入が睦美の顔を見る。その視線をもう言いたいことは言い終わったと解釈したのか、睦美は「では私たちはこの辺りで失礼させていただきます」と、雫たちに向けて口にした。

 雫たちも頷き、カードキーを使って玄関を開ける。

 一歩外に出ると、夏真っ盛りの日差しが容赦なく雫たちに注がれた。太陽は少し傾き始めているとはいえ、まだまだ暑さは止むところを知らない。立っているだけでも汗をかきそうな天気のなか、雫たちと塩入たちは最後にもう一度向き直る。心なしか塩入の顔が、初めて会ったときよりも大人びて雫には見えた。

「湯原さん、山谷さん、本当にありがとうございました」そう言った塩入に続いて、三人は今一度頭を下げる。深いお辞儀に、雫が抱く感情はピークに達した。

「はい、ありがとうございました」と湯原が応える。そして、顔を上げた塩入は、雫たちに決定的な一言を放った。

「さようなら」

 たった五文字の短い言葉に、雫は胸が詰まる感覚がした。ここまでの感情になるとは予想していなかったから、返す言葉は分かりきっていても、なかなか言えない。

 でも、湯原が「はい、さようなら」と言ったから、雫もなるべく何も考えないで「さようなら」と告げた。自分たちはもう会わない方がいいのだという思いが、胸を締めつけてくるかのようだ。

 二人の言葉を受けて塩入は一つ頷くと、睦美や隼人と一緒に踵を返して、日光を反射して眩しく輝く銀色の公用車へと向かっていっていた。三人を乗せた公用車は鑑別所を後にして、三人の自宅へと向かっていく。

 その様子を雫たちは、車が見えなくなるまで見送っていた。

「塩入君、行っちゃいましたね」

 所内に戻ってきたとき、雫は思わずそうこぼしていた。湯原が職員室へ戻ろうとする足を止めて、振り向いている。

「何だよ。お前、寂しく感じてんのかよ」

 湯原にはっきりと言われ、雫は自分が抱いていた感情が、明確な輪郭を持ったように感じられた。塩入がここにいた期間は四週間にも満たなかったのに、雫にはその時間がずいぶんと長く思えていた。

「そりゃ寂しいですよ。だって、私がここに来て初めて会った相手なんですから」

「何だよ。じゃあ、お前はあの子をもっとここにいさせたかったのか?」

「いえ、そういうわけではないですけど……」

「あのな、ここに年間何人の少年が来ると思ってんだよ。一人退所しても、またすぐに他の少年が入所してくるんだから。そんないちいち寂しいとか感じてたら、この仕事続かねぇぞ」

「それはそうですけど、でも湯原さんだって、ちょっとは寂しく感じてる部分はあるんじゃないんですか?」

「確かに俺も昔だったらそう感じてたかもな。でも、今は『終わったな』『また一人退所していったな』って、それだけだ。入所してる子は他にもいるんだからよ」

「……そうですね」

 湯原の態度はドライだったけれど、一理あると雫にも感じられた。今日はこれから先週入所してきた少年への鑑別面接が予定されている。いつまでも感傷に浸っているわけにはいかない。

 それでも、雫はそう簡単に気持ちを切り替えたくないとも感じていた。

 塩入とはもう二度と会わないのが理想だ。だからこそ、塩入と接した記憶を少しでも長く、自分の中に留めておきたかった。

「でも、まあ配属されたばかりにしては、今回のお前の働きは悪くなかったんじゃねぇの」

 そんな言葉が湯原の口から出たことが意外で、雫は「えっ」と声になっていない声を上げてしまう。不意打ちのような言葉に、考えをまとめている余裕はなかった。

「あくまでも配属されたばかりにしては、だぞ。相手との距離の縮め方とか訊き出すときの姿勢とか、まだまだ改善すべきところはいくらでもあるんだからな。でも、まあ面接でのお前の言葉はあの子には届いてたみたいだし。全てが悪かったわけじゃねぇんじゃねぇの」

「あ、あの、ありがとうございます。お褒めいただいて」

「別に褒めてなんてねぇよ。俺は今でもあのときのお前の言い方には問題があったと思ってるし。これから改善してけよ」

 湯原の態度は辛辣そのものだったけれど、それでも雫は落ちこむことはなかった。厳しく接してくる湯原の奥底にある、一匙の優しさを垣間見た気がした。

「はい、分かりました」

「よし。じゃあ、次の子の面接の準備すんぞ」

 そう口にして職員室へ戻る足を進めた湯原に、雫も続いた。

 塩入のことは、確かに寂しく感じている部分はある。

 でも、自分たちは立ち止まってはいられない。

 湯原とともに職員室に入る。そして、雫は湯原の指示を受けて、壁際の棚にこれから面接をする少年の調査票を取りに向かった。




 後方にある公園の木に張りついているのだろう。穂苅ほがりは蝉が盛んに鳴く声を、机に座りながら聞いていた。目の前の道路では盛んに車が行き交っており、それは今日のような暑い日も、また既に懐かしく感じられる寒い日も変わることはない。

 その光景を眺めながら、穂苅はかすかにあくびを嚙み殺す。今朝方、近隣の住人が耳にタコができるほど聞いている苦情を言ってきた以外には、穂苅が詰めている交番にやってくる者は今日はいない。

 同僚の巡査は、この暑い中一時間ほど前に警らに出ていって、まだ戻ってきていない。

 交番に一人で残されて、処理すべき書類も片づけた今、穂苅は暇を持て余していると言ってよかった。話し相手もいない現状は、退屈の一言にすぎる。

 平和なのはいいことだ。それでも、穂苅は同僚が戻ってくるにせよ、何かこの状況を変えるきっかけを求めてしまっていた。

 すると、そんな穂苅の思いが通じてしまったのか、交番には一人の女性がやってきた。首元がよれたTシャツを着ているその女性は、穂苅の目には女性というよりも少女のように映る。中学生か高校生だろうか。

 少女はゆっくりとした足取りで交番に入ると、穂苅と机を挟んで向き合う。

 少女は何の荷物も持っていなかった。ただ一つ、右手に手にしている折り畳み式の財布を除けば。少女がここにやってきた意図をそれとなく察しながらも、穂苅は「どうかされましたか?」と穏やかな声をかける。

 少女は少しためらうような素振りを見せてから、答えた。

「……財布を拾いました」

 その口から出た言葉は、穂苅の予想から少しも外れていなかった。よくあることだと、穂苅はもう慣れっこになってしまっている。

 かける言葉は、意識しなくても半ば自動的に出てきた。

「そうですか。落とし物を拾ったんですね。どちらで拾われましたか?」

 そう尋ねてみても、少女はなかなか答えなかった。何か答えに窮するような理由でもあるのだろうか。穂苅の頭にはいくつかの憶測が浮かぶ。

 でも、これだと決めつけてかかっていいはずがなく、穂苅はただ穏やかな表情をして、少女の次の言葉を待つ。

 少女はしばらく言いよどむ素振りを見せてから、意を決したように口を開いた。

「……あの、私この財布のお金を使ってしまったんです」


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