そのとき、居室に塩入の姿はなかった。もちろん面接室や食堂にもない。
理由は明白だ。塩入は午前中に別所に送られて、長野家庭裁判所に向かっていたからだ。
公用車に乗せられるときの塩入の緊張した面持ちは、数時間経った今でも雫には容易に思い出さる。きっと今頃、両親とともに少年審判に臨んでいるのだろう。
雫は集合研修で目にした審判廷に、塩入が座っている場面を想像する。和やかで懇切を旨とする少年審判でも、当の塩入の精神状態はそうはいかないだろうなということは、経験の浅い雫といえどもすぐに感づいた。
「山谷、どうしたんだよ。さっきからちょくちょくこっち見てきやがって」
少し遅めの昼食休憩の最中、一足先に昼食を食べ終えた湯原が、耐えかねるように雫に声をかけてくる。雫も昼食のコンビニ弁当を食べる手を止めた。
「えっ、そんな私湯原さんのこと見てますかね?」
「いや、見てるよ。もしかして自覚ねぇのか? だったらやべぇな」
「あの、すいません。お気を悪くされたようで。これを食べたら、ずっと机に突っ伏してますんで」
「いいよ、そこまでしなくて。気になるんだろ? 塩入のこと」
今の心情をずばりと言い当てられたら、雫は「それはまあ」と頷くほかない。
塩入は雫がこの長野少年鑑別所に配属されてから、初めて会った少年だ。その少年の審判結果がもうすぐ出ようとしている。
雫にとっては、これを気にせずに他に何を気にすればいいのかという話だ。
「まあ、お前にとってみればそりゃそうだろうな。お前、あの子に不必要なほど肩入れしてたし」
「それはすいません」
「そうだな。まあ次からは気をつけろよ。俺たちはここにやってくる子の保護者でも、何でもねぇんだからよ」
「はい。おっしゃる通り気をつけるようにします。それでどうですかね? そろそろ審判の結果出ますかね?」
そう言いながら雫の視線は湯原の机の上に置かれた電話機に注がれていた。塩入の審判が終わった際には、速やかに担当技官である湯原のもとに連絡が入ることになっている。
それでも、湯原は関心を隠し切れない様子の雫を見て、ため息をついていた。若干呆れたようにも言う。
「お前、それさっきも訊いてきてただろ。少年審判には一時間ほどかかることはお前だって分かってるだろ。まだ審判開始の一三時から三〇分も経ってないんだから、連絡が来るわけねぇだろ」
「それはそうなんですけど、どうしても気になってしまうというか。どうですかね? 塩入君の審判結果、どうなると思います?」
「そんなの俺に訊いてもしょうがねぇだろ。通知書は提出したけど、家裁調査官の報告書だってあるし、他にも色々判断材料はあるからな。俺に訊いたところで、何が分かんだよって話だよ。まあ、俺たちとしてはこのまま電話が鳴るときを待つしかねぇよな」
湯原の言ったことは呆れ返るほど現実的で、雫に「そうですね」以上の返事を出させない。
少年審判が行われている間、雫たち鑑別所の人間にできることは、まったくと言っていいほどなかった。
それでも、雫は塩入の審判の結果を気にせずにはいられない。本やスマートフォンに目を落としてみても、胸の中ではじれったい思いに駆られてしまう。
それでも、湯原の方を見たらまた咎められそうだったので、雫は堪えて目線を本やスマートフォンに向け続けた。
他の職員は既に昼休憩を終えているから、今職員室には雫と湯原の二人しかおらず、会話もない状況では、雫は一分一秒がその何倍もに引き延ばされている感覚を味わっていた。
でも、雫の早く結果を知りたいという思いとは裏腹に、電話はなかなか鳴らなかった。ただ時間だけが過ぎていき、気がつけば定められた昼食休憩の終了時間まで、あと数分に迫っている。
目安の一時間はもう過ぎているのにと思いながら、雫は休憩後の業務へと徐々に意識を向け始める。
そんなときだった。湯原の電話機が鳴ったのは。突如鳴り響いた着信音に、雫は一瞬びくりとしてしまう。
だけれど、湯原はそんなことはものともせず、平然とした様子で受話器を手に取っていた。始まった電話の相手は、何も言われなくても雫にはすぐに見当がつく。
湯原は相槌しか打っておらず、雫が抱いているドキドキは余計に膨らんでいく。通話時間は二、三分と短かったが、雫は湯原が長いこと相手と話していたと錯覚する。
電話を終えて、湯原が受話器を置いた。そして、湯原が一息ついてから、雫はおそるおそる尋ねてみる。
「あの、どなたからの電話でしたか?」
「家裁の裁判官からだったよ。お前の望み通りな」
雫は息を呑む。そうだろうとは思っていても、実際に電話がかかってくると、鼓動も速まってくるようだ。
「……それでどうだったんですか? 塩入君の審判の結果は?」
緊張した面持ちで訊いた雫にも、湯原は大きく表情を変えなかった。でただ伝言をするかのように、淡々とした口調で言う。
「不処分だってよ。被害金額も少額で、本人も深く反省していることから、特定の処分を科さずとも、更生できる見込みが十分に認められるからだそうだ」
その言葉を聞いて、雫が真っ先に感じたのは大きな安堵だった。塩入に保護観察や少年院送致といった処分が科されなくてよかったと、心から思う。そうでなければ、塩入が自分たちに見せてくれた態度や姿勢に釣り合わない。
そして、少し遅れて喜びも湧いてくる。自分たちは本当に塩入のためになることができたのだと思えた。
「そうですか。よかったです、不処分で。湯原さん、私たちやりましたね」
「何をやったんだよ。言っとくけど、今回の不処分が正しいのかどうかは、ずっと先にならないと分かんねぇからな。それはこれからの塩入の生活に懸かっていて、そこに俺たちはもうタッチできねぇんだからよ」
「確かにそれはそうですけど、でも湯原さんだってこの結果が嬉しいんじゃないんですか? 最終的に通知書に『不処分が適当である』って書いたのは、湯原さんなんですから」
「お前さ、勘違いすんなよ。どんなケースでも不処分が唯一絶対の正解だったら、俺は毎回通知書に『不処分が適当である』って書いてるし、そもそもそうだったら鑑別所なんて必要ねぇだろ。俺たちはここにやってきた少年に対して、何が適切な対応なのか、措置なのか考えて行動する。それだけだよ。たまたまそれが、今回は不処分だったってだけだ」
もっと率直に、喜びを表現すればいいのに。雫はそう思ったが、湯原の表情は少しも緩んでおらず、家庭裁判所の審判結果をありのまま受け止めているようだった。
だから、「そんなこと言って本当は嬉しいんじゃないんですか?」と訊いてみることは、雫には自分が少し調子に乗っているようで憚られる。
それでも、感じる喜びは抑えることができず、雫は表情を引き締められない。湯原にも「何にやけてんだよ」と、注意されたほどだ。
「それはすいません」
「言っとくけど、まだ俺たちの仕事が終わったわけじゃねぇからな。塩入は両親とともに一時間後にはここに戻ってくるんだから。さっさと退所の準備しちゃわねぇと」
「えっ、そんなにすぐなんですか?」
「お前、集合研修で何学んできたんだよ。不処分にされた少年は、その日のうちに帰宅することができるって、習わなかったのか? ほら、分かったらさっさと準備すんぞ」
雫も返事をして、二人は昼食休憩を切り上げた。二人で退所の準備を整えるために、塩入の居室へと向かう。
廊下を歩いていると、雫には安堵や喜びだけではない感情が芽生えてくる。その感情は想像していたよりも大きくて、居室に到着したときには雫のなかで、着実に容積を増していた。