「えっと、では言わせていただきます。結論から申しますと、私は塩入君に対する処分は不処分が適当であると考えています。何回か万引きを繰り返していたものの、今回の非行は軽微なもので、保護観察処分を科すのが適当だとは、私には思えません。信頼してくれる大人も両親や担任の存在で、十分足りるように思います。何より塩入君は、今回の非行をきちんと自分事として受け止めて反省している。よって、私は塩入君には不処分がふさわしいと考えます」
雫の口から「不処分」という言葉が出たとき、湯原が自分に向ける視線が険しくなったことを雫は感じた。
でも、同じ法務技官だからといって、担当する少年に抱く印象がいつも同一なはずがない。自分は自分の意見を言えばいいし、今この場ではそれが求められている。
恥じる必要を雫は感じなかったけれど、それでも背筋は少し縮んで、肩は軽く丸まってしまっていた。
「山谷、こんなこと言うのもなんだけど、それは違うと思うぞ。不処分にしたからって、塩入が一〇〇パーセントまた非行に及ばないとは限らないだろ。再非行のリスクを少しでも減らすためには、保護観察が一番いいんだよ」
「そ、それは塩入君だけじゃなくて、他のどの少年にも言えることじゃないですか。それに塩入君を信じられていないのは、湯原さん自身じゃないですか。私は不処分でも、塩入君が今回のことで十分に反省して、もう非行をすることはないと思っています」
「何だそれ。楽観的すぎるだろ。あのな、俺たちの仕事はここにやってきた少年を信じることじゃねぇの。常に厳しい態度を持って、何が一番少年のためになるかを考えて行動する。それが本当に、その子のことを思ってるってことだろ」
「確かにそれはそうですけど……」
「まあまあ、湯原さん。その辺にしておきませんか。誰のどんな意見でも、頭ごなしに否定するのはよくないですよ」
那須川が見かねたように自分たちの間に入ってきて、雫は助かったと思ってしまう。知識も経験もずっと豊富な湯原を前に、形勢は悪くなりかけていた。
湯原もそれ以上、雫に言葉を浴びせるようなことはしていない。でも、顔にはまだうっすらと「不満だ」と書かれているように見える。
「それと、湯原さん。それに別所さんや山谷さんも。参考までに、私の見解を伝えてもよろしいですか?」
誰かが言葉にしたわけではなかったが、それでも三人ともが頷いたことを、雫はかすかに変わった会議室の空気に感じた。
那須川は表情一つ変えずに、そのまま話し始める。
「私も別所さんや山谷さんの見解に同意です。私も家裁には塩入君を不処分とするよう、進言すべきだと考えています」
那須川と同じ意見であることで、雫は心強い味方を得た感覚がした。湯原を打ち負かしたいわけではなかったが、それでも自分の意見はまるっきり間違いではなかったと、裏づけが取れたような気がした。
「どうしてですか?」と湯原が訊く。
「私は塩入君と直接接したことはあまりありませんが、それでも皆さんのレポートや報告書、塩入君が書いた日記には、全て目を通させていただきました。特に日記には今まで万引きをしたことへの後悔が率直に綴られていて、深く反省している様子が窺えます。皆さんの報告書でも塩入君の態度は真面目だと評価されていますし、実際塩入君はちゃんとここのルールを守って生活しています。よって、ここでの生活である程度の矯正教育的な成果は上げられていると、私は判断します。不処分が適切でしょう」
明確な理由を述べた那須川に、湯原は「どうしてですか?」などと、さらに食ってかかるような真似はしなかった。でも、臍を噛むような顔をしている湯原を見ていると、雫は少しバツが悪くなってしまう。
鑑別結果通知書に書く内容は、決して多数決で決まる類のものではない。それでも、自分たちが数の力で湯原を抑えこもうとしているようで、あまりいい気分ではなかった。
「何ですか? 私に『塩入翼は不処分が適当である』と、通知書に書けというんですか?」
「湯原さん、どうしてそう結論を急ぐんですか? 私たちはただ自分の意見を述べただけなのに」
若干苛立った様子を見せた湯原も、那須川にたしなめられると「それはそうですけど……」と、怒りのやり場をなくしたようだった。
でも、まだ完全に腑に落ちた様子は見せていない。それは「でも、いいんですか? 皆さん。不処分に終わったために彼が非行を繰り返して、またここに来るような事態になったら」という言葉にも現れていた。
「湯原さん、性悪説で人を見るのはどうなんでしょうか。ましてや一度は非行をしてしまった少年相手に。私たちがそんな疑ってかかったら、更生するものも更生しませんよ」
雫としては、別所の言葉の方に同意したいと思う。最初から「こいつは再犯しかねない」という目で見ていたら、相手もそのことに勘づいてしまうだろう。
「そうですよ、湯原さん。別に不処分でもお咎めなしというわけではないんですから。ここに来ただけで、なんてことをしたんだと、塩入君は反省していると思いますよ」
「いや、それは俺も分かってるけどさ……」
「湯原さん、慎重になるのは分かります。でも、時には少年を信じてみるのもいいのではないでしょうか。湯原さんが思っているよりも、塩入君は色々と考えていると思いますよ」
雫に続いて那須川も、落ち着いた口調で湯原にさらに声をかけていた。
押しつけがましくならないように、あくまでも不処分も選択肢の一つとしてあることを改めて提示する格好だったが、それでも雫は湯原が通知書に「不処分が適当である」と書くことを、願わずにはいられない。
それは自分の主張を押し通したいからではなく、面接等で見た塩入の懸命な姿勢を正当に評価したいからだ。先行きが不透明な状況に怯えながらも、どうにか今日までの鑑別に臨んできた塩入に応えたいと思ったからだ。
期待を込めて湯原に視線を送る。湯原は一つ深く息を吐いていた。
「本当にいいんですね? 皆さんは、もし私が通知書に『不処分が適当である』と書いて、その通り家裁も不処分の審判を下して、それでまた彼が非行に及んだとしても、本当に後悔はしないんですね?」
「ええ、しないです。私は塩入君へは不処分が適当だと思っていますし、結果がどうなろうと、あのときは最善を尽くせたと、後から振り返っても言えると思います」
別所の返答は力強くて、自分の見解に自信を持っていることを雫に窺わせた。湯原も否定はしていない。
「山谷は?」と顔を向けられても、雫は大きく怯むことはなかった。「私も別所さんと同じ意見です」と顔を上げて言うことができる。
「湯原さん、私たちが通知書に込める思いは、きっと塩入君も感じ取ってくれると思いますよ。自分について真摯に向き合って出した結論だと、分かってくれるはずです」
那須川がさらに言葉を重ねると、湯原は三人の顔を今一度見回していた。そして、小さく頷くとおもむろに口を開く。
「分かりました。私も塩入君には『不処分が適当である』と、通知書に書きたいと思います」
湯原の表情には、もはや渋々という言葉は当てはまらなかった。数の力や同調圧力で押し通したのではない。きちんと話をした結果だと、雫には思える。
反論を挟む者はおらず、那須川が三人を代表して「了解しました。では、そのようにお願いします」と言う。再び小さく頷く湯原を見て、もうここから自分たちの意見は変わらないと雫は確信した。