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第12話


 室内に流れる改まった空気に、雫は姿勢を正す。二週間ぶりに入った会議室は、座っているだけで冷や汗をかいてしまいそうだ。

 雫の隣には湯原が座っていて、その正面には那須川と別所が腰を下ろしている。三人は何ともないような顔をしていたが、雫はつい表情をこわばらせてしまっていた。

「それでは、これから塩入翼君の判定会議を始めたいと思います。よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」と口々に言う湯原や別所に続いて、雫も小さく頭を下げた。

 今日の判定会議で、家庭裁判所に提出する鑑別結果通知書の内容が決まる。もちろん鑑別所の意見が審判の結果に直結するわけではないが、それでも与える影響は決して小さくない。

「それでは、まずは塩入君の担当教官である別所さんから、塩入君についての所見をお願いします」

 那須川から名指されて、別所は「はい」と返事をしていたけれど、立ち上がってはいなかった。座ったままプリントに目を落としている。

「では、担当教官である私から、塩入君についての所見を述べさせていただきます。塩入君はここにやってきた当初は、裁かれるのではないかと怯えた様子を見せていましたが、生活態度は最初から真面目そのものでした。施設のルールもちゃんと順守しています。徐々に様子も落ち着いていき、自分の罪を悔いて反省していることが窺えました。それは、意図的行動観察として課した作文の内容からも表れていると考えます。少々自罰的な面は見られますが、それでも自省は十分行えていると私は捉えました。彼は両親との関係も良好で、適切な監護も期待できます。よって私は、彼を不処分とするのがふさわしいと考えます。以上です」

 そう言葉を結んだ別所に、那須川が「分かりました」と応じている。

 不処分は保護処分等を行わない、家庭裁判所では審判不開始に次いで軽い処分だ。審判結果が知らされたその日に鑑別所を後にし、家に帰ることができる。

 別所の意見に、雫も心の中で賛同する。

 那須川が「続いて湯原さん、塩入君の担当技官である立場から、所見を述べていただけますか」と言う。湯原は返事をしてもやはり立ち上がらずに、「皆さん、プリントをご覧ください」と口にした。

三人がプリントを手にしたことを確認し、湯原は再び口を開く。

「では、私の所見を述べさせていただきます。結論から申しますと、私は塩入君を保護観察処分とするのが適当だと考えます。確かに、塩入君は面接や心理検査にも真面目に取り組んでいました。しかし、私が保護観察処分を提案する根拠として、第一に心理検査の結果が挙げられます。ロールシャッハ検査で、塩入君は全般的にネガティブな回答を示していました。これは自分に対する自信のなさと解釈でき、保護観察処分で保護司という他者と接するなかで、自己効力感を回復させていく必要があると思われます。また、鑑別面接でも塩入君は万引きを『友人にさせられた』と語っていました。もしこれが本当だとすると、学校復帰した際にはまたその友人と関わり、再び非行に及んでしまう可能性が考えられます。それを防ぐためにも、保護司との定期的な交流は必要不可欠なのではないでしょうか。よって私は塩入君を保護観察処分に付すよう、家裁に求めたいと考えています」

 淡々と塩入についての所見を述べる湯原。でも性格に対する評価は重なっていても、処分に対する見解は、別所とは異なっていた。

 もちろん評価する人間が違えば、その結果が異なることは十分にあり得る。雫だって、保護観察処分が頭をよぎらなかったわけではない。

 難しいことになったと、雫は感じてしまう。法務技官と法務教官で意見が食い違うケースはあるとは知っていても、いきなりその事態に直面するとは、雫は思っていなかった。

「ありがとうございます。お互い性格に対する評価は一致していても、課すべき処分については見解が異なっていますね。では、お互いの見解について、何か意見等はありますでしょうか。山谷さんも含めて、あれば遠慮せずに言ってください」

 那須川が他の三人を見回して促す。

 意見を一つにまとめなければ、判定会議は終わらない。そう分かっていても、この場面ですぐに口を開けるほど、雫の神経は太くはなかった。

「湯原さんの見解にも、頷ける部分は多いです。ですが、『友人にさせられた』という塩入君の言葉を信じるなら、友人に気圧されて今回の非行に及んだことには、情状酌量の余地があると私は考えます。塩入君も反省している様子を見せていますし、保護観察処分までは必要ないのではないのでしょうか」

 別所がいの一番に口を開く。雫のなかの天秤は再び不処分の方へと傾き出す。

「塩入君に反省が見られることは、私も十分に承知しています。しかし、これは何が一番塩入君のためになるのかを考えての判断です。学校に復帰して再びその友人たちと顔を合わせたとき、非行を強要されても断れるように、ストッパーとなる保護司の存在が必要なのではないでしょうか」

 別所の意見を受けてもなお、湯原は簡単には自分の見解を変えなかった。「塩入のため」という言葉を使って、自分の見解が理に適っていることを主張している。

 何が一番塩入のためになるのかを考えているのは、ここにいる全員が同じだというのに。

「確かにその恐れはないとは言いきれません。でも、それは塩入君の両親や担任、さらにはその友人の親御さんなど周囲の働きかけで、防止できることではないでしょうか。被害金額もそこまで深刻ではないですし、やはり不処分が適当なのではないでしょうか」

「別所さんの言う通り、被害金額の多寡で考えるとそうなるかもしれません。ですが、私はもっと問題の根っこを考えているんです。今の自己効力感の低い塩入君には、ケアは必要不可欠です。両親や担任がどれだけ褒めたり認めたりしても、それは塩入君の胸の奥まで届かないかもしれません。だから、言ってしまえば赤の他人である保護司からの承認が、塩入君の自己効力感の醸成に繋がる可能性があるのではないでしょうか。自分を信じてくれる人間がいれば、その人のことは裏切れないと抑制効果も期待できますから」

 湯原と別所はお互いの見解に一定の理解を示しながらも、どちらも譲歩はしていなかった。全員の意見がまとまるまでにはまだ時間がかかりそうで、雫はかすかに途方もない思いを抱く。

「二人ともいったん落ち着きましょう。どうです? ここはひとまずもう一人、塩入君を担当している山谷さんの意見を聞いてみるというのは」

「私ですか?」予測していなかった展開に、雫は思わず間の抜けた声を出してしまう。すぐに考えは浮かばない。

 それでも、那須川は落ち着き払っていて、「何を驚いているのですか?」とでも言いたげだった。

「そうです。山谷さん、こんなことを言うのは何ですが、まさかただ座ってさえいればいいと思って、今回の判定会議に参加しているわけではないですよね?」

 那須川の言葉は、確かに雫の図星を指していた。返す言葉もないほどだ。

 気がつけば、湯原たちの視線も雫に向いている。この状況で「特にないです」は通用しないだろう。


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