「山谷、お前なぁ」
職員室に戻って自分の机に着くやいなや、湯原は雫に顔を向けていた。それでも、湯原が不満げにしているのはここに着くまでで感じていたから、雫も大きく狼狽えることはない。
「はい。出過ぎた真似をしてすいませんでした」
自分が叱るよりも前に謝られて、湯原は少し呆気にとられたような表情をしていた。
「やけに素直だな。自覚あんのかよ」
「はい。せっかく勇気を出して言ってくれた塩入君に、あんなことを言うべきではありませんでした。もし本当に気になったとしても」
「何だよ、分かってんなら最初から言うなよな」
湯原はまだ何か言いたげな表情をしていたが、それ以上雫を追及することはしなかった。過ぎてしまったことは、もうどうしようもないと思っているのかもしれない。
雫も心の中で胸をなでおろす。そして、パソコンに向かおうとした湯原を束の間呼び止めた。
雫の中で気になることは、新たに生まれていた。
「ところで、湯原さんはどう思いましたか?」
「どう思ったって、あの子が言ったことが本当かどうかか?」
雫は頷く。少なくとも雫の目には、塩入が口から出まかせを言ったようには見えなかった。
「まあ、もっともらしくはあったな」
湯原の返事に、雫は「ですよね」と同調する。その声は思いのほか弾んでいた。
「でも、いくらもっともらしかったとしても、それが本当のこととは限らねぇ。もしかしたらあの子が、他人に責任を被せようとしている可能性だってあるわけだしな」
そう言った湯原に、雫は閉口しそうになってしまう。塩入の意を決した吐露も、湯原の目には違って見えていたというのか。
「どうして、そんなに疑うんですか? 塩入君、そんなスラスラ嘘を言えるような子じゃないと思いますけど」
「なんでそう言い切れるんだよ。まだあの子がここに入ってきて、一〇日くらいしか経ってないっつうのに。それもお前は面接で三回、あとは母親との面会に立ち会っただけだろ。たったそれだけの機会で、あの子の全てを分かったような気になってんじゃねぇよ」
「そ、それは……」
「確かに、ここにやってきた少年の性格や生い立ち、非行に至った原因を分かろうとするのが俺たちの仕事だよ。でも、いくら子供とはいえ、人間ってそんな単純なもんじゃねぇからな。たかだか数週間でその子の全てを知るのは、とても困難なことなんだよ。こういう場所ならなおさらだ」
そう諭すように言った塩入の言葉は、雫に紛れもない現実を突きつけた。
一部の例外を除き、多くの少年はここに四週間以内しかいない。その短い期間の中で、初対面の状態から信頼関係を築き本音を引き出すのは、経験を積んだ法務技官でも簡単ではないだろう。まだ配属されたばかりの雫なら、なおさらだ。
でも、だからといってそれは塩入の理解を諦める理由には、雫にはならなかった。一〇〇パーセントの理解は難しくても、少しでも多くのことを理解するように努める。それが、この鑑別所に配属された法務技官たる自分の仕事だと思った。
「それはそうですけど、塩入君が今日話してくれたことを、端から嘘だと決めてかかるのも違うじゃないですか」
「だから、俺だって絶対に嘘だって言ってるわけじゃねぇよ。本当だっていう確証が取れないだけだ。もちろん、あの子が今日言ったことが本当だって可能性もある。俺たちにできることは、その両方の可能性を頭に入れながら、残り期間あの子と接していくことなんだよ」
湯原は塩入のことを、完全に信じていないわけではない。そう知って、雫は反駁する言葉を抑えた。
内心では疑いの目を持ちながら、それを悟られないように接する。それは雫には難しいことに思えたけれど、その二面性を内包しているのが法務技官という職業なのだろう。
それでも、湯原が塩入を疑うなら、自分はいくらか塩入を信じてみようと雫は思う。自分を信じてくれる存在は、誰にとっても小さくても確かな救いになるだろうから。
「そうですね」と雫が相槌を打って、二人はそれぞれの仕事に戻る。
専用のファイルに塩入が先ほどの面接で言ったことをまとめていると、雫にはそれがますます嘘だとは思えなくなっていた。
「万里さん、これはどういうことですか?」
上辻は、万里の机の前まで来て尋ねた。手には一枚のプリントが握られている。
一つ息を吐く万里は、面倒くさいなと思っていることを隠そうともしていない。
誰もが自分の調子で働いている部署内には、二人のことをことさら気にしている者はいなかった。
「どういうことも何も、その報告書に書いてある通りだよ。その二人を虞犯で引っ張ることは、俺たちにはできないってことだ」
少し倦んだように言った万里にも、上辻は完全な納得はできなかった。自分は間違ったことを言っていないという思いが、口を開かせる。
「だからどうしてですか? どうして家裁は、この二人を引っ張ることを許可してくれないんですか?」
「だから、調べた結果、虞犯には当たらないっていう判断なんだよ。お前だって、虞犯に相当する事由ぐらい知ってるだろ?」
「そりゃ知ってますけど……」
「この二人はそれぞれの家庭で無事に過ごしているし、交友関係にも問題はない。万引きの経験はあるけれど、それも『他人の徳性を害する行為をする性癖』には当たらないって、家裁の判断だ」
「いや、でもだからといってやっぱり納得はできないです。その二人は万引きをしたことがあるんですよね? だったら今すぐにでも引っ張るべきじゃないですか?」
「被害届も出されてないのにか? もし、今の状況でお前がその二人を引っ張ったら、不当逮捕で懲戒処分になるんだぞ。それくらいお前も分かってるだろ」
「いや、でも……」
「はっきり言うけど、被害届も出されてない万引きまで引っ張るのは、時間的にもマンパワー的にも難しいんだよ。そんなことしてたら、それこそキリないだろ。今の人員では、ここで起こる全ての非行には対応できない。お前には残念かもしれないけど、これが現実なんだよ」
万里が言ったことは、上辻にも紛れもない現実だと感じられた。現状でさえ残業をする日がないとは言えないのに、管轄区域で起こる全ての非行を検挙していたら、それこそ何時間働きづめになるかは分からない。どこかで線引きをしなければならず、それが被害届の有無なのだ。
理屈としては上辻にも分かる。でもそれを認めたら、自分たちの存在意義が薄れるとも感じていた。
「何だよ。まだ納得できてないのかよ」と万里が言う。そう指摘されるくらい、上辻はまだ腑に落ちていない表情をしていた。
「ていうか、文句があるんだったら、俺じゃなくて家裁に言えよ。今から家裁に電話すればいいだろ。でも、お前が何を言ったところで、決まったことは覆らないからな。前も言ったけど、改めて判断する時間を作れるほど、家裁だって暇じゃないんだからな」
万里の態度には、取りつく島もなかった。これ以上何を言っても暖簾に腕押しになるだけだろうと、上辻には感じられてしまうほどに。
二人のことはまだ腹に据えかねていたが、万里に「ほら、分かったらさっさと自分の仕事に戻れよ。遺失物等横領、放置自転車をパクった少年の調査票、まだ書いてる途中なんだろ」と言われると、上辻は引き下がる以外の選択肢を奪われる。
完全に納得がいったわけではないが、それでも上辻は「……分かりました」と、万里の指示に従った。
自分の机に戻って、再びパソコンの画面と向き合う。事情聴取の記録等も参考にしながら、キーボードを叩き始める。調査票が文字で埋まっていく。
そんななかでも、上辻はまだ収まりの悪い思いを抱き続けていた。