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第9話


 チャイムが職員室に鳴る。それが来客がやってきた合図であることが、雫には配属されてからの一週間あまりで分かっていた。

 湯原とともに、雫は正面玄関に向かう。するとドアの向こうには一人の女性が立っていた。薄黄色のカットソーを着たその姿はファッション雑誌に載ることも、他人から一目置かれることもない、ごくありふれた四〇代の女性そのものだ。

 そして、その女性が誰か、ここに何をしにきたのか、雫には既に承知している。

 湯原はカードキーをかざして玄関を開けると、その女性を中に招き入れ、そして穏やかな声で話しかけていた。

「塩入君のお母さん、塩入睦美しおいりむつみさんですね。今日はお暑い中お越しいただいてありがとうございます」

「はい。すいません。ちょっと仕事が立てこんでいてしまっていて。本当はもっと早く来たかったんですけど」

「いえ、お母さんが来てくれて塩入君も喜ぶと思います。それでは、面会室の方にご案内しますね」

 三人は湯原を先頭にして、面会室へと向かった。第二面接室の隣にある面会室は、拘置所や刑務所とは違って、対象者と面会者を隔てる仕切りはない。南向きの窓からは日の光が差し込み、黄緑色のソファが心を落ち着ける効果をもたらす。

 面会室に入り「座ってお待ちください」と湯原に促された通り、ソファに腰を下ろす睦美。そして、「今、翼君を呼んできますね」と湯原が面会室をいったん退室すると、雫は睦美と二人きりで残された。

 少年と親との面会に立ち会う機会が初めてだから、雫はこういったときに言う言葉をまだ持っていない。睦美をじろじろと見るのも気が引けて、なんとなく窓に視線を送っていると、ふと睦美が話しかけてきた。

「山谷さん、ですよね。立っているのも大変でしょう。よかったらお座りになったらどうですか?」

「いえ、私はこのままで。ご心配なさらなくても、面会が始まったときには、お母さんの隣にあるソファに座らせていただきますから」

「そうですか」そこでわずかばかりの会話は終わって、あとは湯原に連れられて塩入がやってくるまで、束の間でも少し長く感じられるような時間を過ごす。

 そう雫は思っていたのだが、睦美は「翼の様子はどうですか? 何か迷惑などおかけしていないですか?」と立て続けに訊いてきた。母親だから気になるのは当然だろうと思い、雫も丁寧に答える。

「いえいえ、面接にも心理検査にも真面目に取り組んでいますし、生活態度も極めて模範的です。お母さんが心配なさっているようなことは、一つもしていないですよ」

「そうですか。実際あの子は真面目なんですけど、少しだけ臆病なところがありますから。本当は万引きなんてとてもできるような子じゃないんです。山谷さん、翼はどうして万引きなんかしてしまったんでしょうか?」

「それは私どもでも、今翼君から話を聞くなどして調べている最中です。なので家裁の審判結果が出るまで、もう少しお待ちいただけないでしょうか?」

「はい、それは承知しています。翼に寄り添った結果になることを期待しています」

 雫が相槌を打ったところで、ドアからはノックの音がして、塩入と湯原が入ってきた。

 塩入の姿を目にした瞬間、睦美は思わず立ち上がって目を細める。湯原から話してもいいという許可が下りるまでは、口を利いてはいけないと思っているのだろう。でも、その心から心配するような瞳は、睦美が抱いている心情を雫に存分に感じさせた。

 塩入も安堵と申し訳なさが混ざった、一言では言い表せない表情をしている。睦美を嫌悪している様子は見られなくて、険悪な関係ではないことは、塩入が腰を下ろすまでに雫にもそれとなく把握できた。

「翼、ごめんね。今日まで来れなくて。仕事が忙しくて、なかなか時間が取れなくて。心細い思いをさせたよね」

 塩入がソファに腰を下ろして、その隣に座る湯原が「面会時間は三〇分です。どうぞ始めてください」と促してから、睦美は優しく語りかけるように口を開いていた。謝罪から話を切り出すのは最適手とは言えなかったけれど、それでも睦美は謝らずにはいられなかったのだろう。

 鑑別所は、面会ができる時間は限られている。少なくともフルタイムで働いていたら、その間はなかなか面会に訪れることは難しい。

 だから、今日まで時間がかかったとしても、睦美のネグレクト等を危惧する必要はそれほどないだろうと、雫には感じられた。

「いや、母ちゃ……、お母さんの仕事が忙しいのは分かってることだから。今日、平日でしょ。忙しい中でも来てくれたことはとてもありがたいと思ってるよ」

 塩入も同じ空間に雫や湯原がいることで、少し委縮している様子はあったものの、それでもその言葉は、面接のときと比べるといくらか滑らかだった。「母ちゃん」と言いかけたところに、二人の日頃の関係性が雫には窺える。

「ありがと。ところで、調子はどう? 体調とか崩してない? ちゃんとご飯は食べれてる? ちゃんと眠れてる?」

「うん、今のところは大丈夫だよ。ご飯も普通に食べれてるし、二一時消灯だから、寝る時間だけはたっぷりある。基本的に他の子とは喋っちゃいけないんだけど、それも今のところはあまり苦に感じてないよ」

「そう。ひとまずは安心したよ。色々不自由に感じるところもあるだろうけれど、それでも翼が必要以上にストレスを溜めこんでなくてよかったよ」

 二人はそれからも雫たちの立ち会いのもと、様々な話をしていた。今日は来ていない父親のことや、最近起こった出来事。

 面会が始まってからしばらくは、二人は事件には関係のない話をしていた。睦美の表情には、塩入と話せている安堵が滲み出ていて、息子と久しぶりに会えたことがたいそう嬉しいのだろうと雫は察する。

 雫たちがいるから完全な自然体とはいかないものの、塩入も面接のときと比べると明らかに構えていなかった。

「ねぇ、翼。ちょっと今回のことについて話していい?」

 そう睦美が言ったのは、面会が始まって一〇分ほどが経った頃だった。本当はもっと早く切り出したかったのかもしれないと、雫は改まったような口調に感じる。

 塩入も「う、うん」と、姿勢を正している。面会室には、わずかに緊張が増していく。

「今回のことね、どうしてしたの? とは訊かない。もちろんお母さんたちもそれは知りたいんだけど、翼は話したくはないだろうから。でも、翼が万引きをしたって警察の人から聞いたとき、お母さんたちとても悲しかったの。何かの間違いだろうって、軽く絶望的な気分にもなった」

 目にいくらか真剣な色を滲ませた睦美は、優しく諭すように塩入に語りかけていた。

 でも、塩入は申し訳なさそうな表情を覗かせ、心を痛めているかのようだった。自分が責められていると感じているのだろう。

 正直に言ってしまえば、万引きで「絶望的」と言うのは、いささか言葉が強すぎる気も雫にはする。

 それでも、睦美は本当にそう感じていたのだろう。塩入が罪を犯すことを想像していなかったのなら、無理もない。

「翼がそんなことをするわけがない。きっと私たちの育て方が間違ってたんだ。最初はそう思おうとしたんだけど、それも正直辛くてね。自分たちのせいにしたところで、起きたことはなかったことにはならないし。ここまで来るのが遅くなったのも、仕事が忙しかったこともあるんだけど、そういう気持ちになれなかったことも、正直に言うとあった」

「お母さん、ごめん。俺、いや僕がこんなことをしたせいで、そんな風に思わせちゃって」

「ううん、私たちは翼を責める気はないの。もちろん万引きは犯罪だし、絶対にしちゃいけないことだよ。翼は何も悪くないとは、正直胸を張っては言えない。でも、それも翼には分かってることだと思うから。こんな事態になって、自分を責めている部分もあると思う。だから、私たちは追い打ちをかけるみたいに、翼を責めることはしない」

「お母さん……」

「翼、ここに来たのも何かの機会だと思って、まずはしっかり反省してね。自分のしたことが、どれだけお店の人をはじめとした周囲の人に迷惑をかけたのか、まずはちゃんと顧みてほしい。そして、心から反省してもう絶対にしないって思えたなら、お母さんたちと一緒にやり直そう。お母さんたちも、こんなことがもう二度と起こらないように考えるから。大丈夫だよ。翼の人生は、今回のことで終わったりはしないから」

 たかが万引きくらいで大げさなとは、少なくとも雫は思わなくなっていた。睦美の態度は真摯そのもので、突き放したり見捨てたりしない姿勢は、塩入の更生のためには何よりも必要だろうと感じられる。

「うん」と頷く塩入の目はかすかに潤んでさえいて、睦美の言葉が胸の奥まで届いたことを物語っていた。

 ここまで理解のある親がいて、塩入は恵まれていると雫には思える。

「そうですか。まだ話していたかったけど、仕方ないですね。じゃあね、翼。また来るからね」

 湯原から面会時間の終了を告げられて、睦美はそう言ってから面会室を後にしていた。塩入の様子も気になるが、玄関まで見送るのは雫の役割だったため、一緒になって外に出る。

 鑑別所を後にするとき、睦美の表情にはかすかに晴れ間が差したように雫には見えた。その顔は睦美にとって、面会が多少なりとも効果があったことを示していて、きっとそれは塩入も同じだろうなと、雫は感じていた。


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