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第5話


〝まあ、大変じゃなかったって言ったら嘘になるね。いきなり少年の面接を担当したりしてさ。二年も研修してるからいきなり即戦力としての働きを求められて。初日から時間は短かったけど残業しちゃって。こんなに大変なんだって思った記憶があるよ〟

〝今も大変さは変わらないんだけどね〟付け加えるようにそう送ってきた真綾の心情を、雫は慮ってしまう。こうしてやり取りをしている向こうには、疲れた表情があるのではないかと。

 でも、真綾は間を置かずに「ウケる」と笑っている犬のキャラクターのスタンプを送ってきていたから、事態は雫が思うほど深刻ではなさそうだった。もとよりこの世に大変ではない仕事なんてない。

〝でも、私もなんとかやれてるんだし、きっと雫だってどうにかやれるよ。だって雫、根性あるし。きっと大丈夫だよ〟

 根性論は万能じゃない。世の中には、根性では解決できない問題だってある。

 それは雫にも分かっていたが、それでも真綾から褒められたことは純粋に嬉しかった。ほんの少しだが、根拠のない自信さえ湧いてきそうだ。

〝ありがとうございます。真綾さんにそう言ってもらえると、明日からも頑張れる気がしてきました〟

〝うん。お互い頑張ろうね。一つ一つの事案を地道にさ〟

〝はい!〟

 雫はラインと一緒に、心の中でも頷く。

 自分はまだ法務技官としてのスタートラインに立ったばかりなのだ。たった一日が終わったぐらいで音を上げてはいられない。そう強く実感した。

 話題を切り替えるように、真綾が〝そういえば、雫ってもうご飯食べた?〟と訊いてくる。もしかしたら夕食に誘われるかもしれない。そう思って雫は、〝いえ、まだです〟と返信を送る。

 でも、真綾がさらに送ってきたラインは〝私、今日は彼氏と焼肉なんだー。いいでしょー〟というもので、自分の想像とまったく違う返事に、雫は内心ツッコみながらも頬を緩めていた。



 送信ボタンを押すと、上辻洋海うえつじひろみは一つ息を吐いた。パソコンはあっという間に送信を完了し、ホーム画面に戻ったのが少しあっけなく感じられるほどだ。

 それでも一仕事終えたことには違いないので、上辻はカフェオレを口にする。朝コンビニエンスストアで買ったときには冷えていたのに、時間が経った今はすっかりぬるくなっていた。

「上辻。簡易送致、終わったか?」

 カフェオレから口を離したタイミングで声をかけられて、上辻は顔を上げた。そこには、警部である万里一郎ばんりいちろうが立っていた。

「はい。今月の分を今家裁に送ったところです」

「そうか。それは何よりだ。どうだ? 一つ仕事を終えたことだし、今日は久々に呑みに行くってのは?」

「いいですね。行かせていただきます」

「そうか。じゃあ、また仕事が終わった後にな」

 そう言って万里は微笑む。

 ここ、長野中央警察署生活安全第二課に配属されて、まだ二年目の自分を労いたいのだろう。上辻は万里の誘いを断ることはしなかった。

 独り身で宿舎に帰っても、ただ寂しいだけだろう。それなら多少、酒で気分を紛らわせていてもいい。幸い、上辻は下戸ではなかった。

「よし。じゃあ、次は今日窃盗をして引っ張られてきた少年の事情聴取だな。でも、始まるまでにはあと少し時間があるから、それまでは休憩でもしててくれ」

「いえ、大丈夫です。まだやらなきゃいけない仕事はあるので。それをやってからにします」

「そうか。頼もしいな」

 自分の机に戻ろうとする万里。でもその瞬間に、上辻は万里を呼び止めていた。不思議そうな顔をして、万里は振り向く。

 それでも、上辻には口にして解消しておきたいことがあった。

「あの、万里さん。一ついいですか?」

「ああ、何だ?」

「こんなに簡易送致にする必要があるんでしょうか。いくら初犯で軽微な非行といっても、こんな流れ作業のように済ませてしまうのは、あんまりだと思うんです。もっと少年一人一人に合った対応が取れないかなと」

 上辻の言葉に、万里はため息を吐いていた。

 その態度が自分は的外れなことを言ったのではないかと、上辻を少し不安にさせる。

「何だよ。じゃあ、一人一人に合った処遇を今よりも頭と時間を使って考えろってか?」

「まあ、端的に言えば。でも、一人一人ケースは違いますし、それを一律的に簡易送致にするのはどうかなと」

「あのな、この国の少年事件は一応、家裁への全件送致主義を採ってんだ。そんな一人一人にもっと時間を割いてたら、家裁が回らなくなっちまうだろ。時間も人的資源も無限じゃねぇんだからよ」

「でも……」

「でも、何だよ。簡易送致の数を減らすってことは、家裁に今以上の負担をかけるってことだぞ。ただでさえ、残業する日も少なくないらしいのに。お前はそれでいいのかよ」

「それを言われたら……」

「だろ? だから、簡易送致ってのは理に適った処分なんだよ。俺たちにも家裁にも非行に及んだ少年にも、皆にとってメリットがある必要な処分なんだよ」

 上辻は返す言葉がなかった。確かに全件を略さずに送致していたら、家裁も警察署もパンクしてしまう。

 現実は英雄譚のように理想的ではない。必ずどこかに限界がある。そのことを上辻は、改めて思い知らされる気分だった。

 万里が「じゃあ、一〇分ぐらいしたらまた声かけるから」と言って、自分の机に戻っていく。残された上辻は机の上の書類に目を落とす。

 一つ仕事が終わっても、上辻にはまだ多くの今日やらねばならない仕事が残っていた。



 駐車場に湯原が車を停める。車を降りると、雫の目にはもう何十年と使われていそうな、年季の入った校舎が目に入った。

 集合研修のときもこういった機会はなかったから、母校ではないにせよ高校という場所に足を踏み入れるのは何年ぶりだろうと、雫は思う。

 塩入が鑑別所に入所してから三日目の今日、雫たちは塩入が在学している高校を訪れていた。

 今は授業中なのだろう。人の往来もなく、校舎は拍子抜けするほど静かだった。

 校門をくぐった雫たちは、来客用の入り口から入り、事務職員と思しき男性に案内されて、二階の職員室近くの応接室に通された。

 灰色のソファは座ってみると案外柔らかく、天井近くにはもっともらしい校訓が掲げられている。カーテンが閉め切られて外からは室内が見えない配慮がなされていて、少しすると別の事務職員がお茶を持ってやってきた。

 その事務職員が出ていくと、入れ替わるように二人の男女が応接室に入ってくる。若い男性と、ある程度年齢を重ねた女性だ。男性の方は中肉中背という出で立ちだったが、女性はかなり小柄で、並んで立つと身長差が目を引く。

「湯原さん、山谷さん。今日はお越しくださってありがとうございます」

「いえいえ、先生方も警察や家裁調査官といった色んな方から話を訊かれていて大変だとは思いますが、今日はどうぞよろしくお願いします」

 女性教員と湯原が言葉を交わして、雫たちはまず立ったまま名刺交換をした。雫も昨日受け取ったばかりの名刺を、覚えたてのビジネスマナーに則って渡す。

 受け取った名刺を見ると、女性教員は佐嶌さじまといい、男性教員は新藤にいふじといった。新藤が塩入の担任の教師で、佐嶌はその学年主任。それくらいのことは、雫も頭に入れていた。


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