「塩入さん、改めてこんにちは。僕はあなたの鑑別を担当する湯原といいます。そして、隣に座っているのが同じくあなたの鑑別を担当する山谷です。よろしくお願いします」
そう言って小さく頭を下げた湯原に、雫も続いた。おずおずと「よ、よろしくお願いします」と応えた塩入は、まだ臆病と警戒の色を解いていない。
ふと目をやると湯原は穏やかな表情をしていて、職員室で見せていた壁のある態度とはずいぶん違うなと、雫は感じた。
「まず確認なのですが、僕たちはあなたの敵ではありません。僕たちの仕事はあなたのここでの生活や面接などの様子を参考にして、あなたがどういう人間なのか、どういった処遇をすべきなのかを、実際にあなたの処遇を決める家庭裁判所に報告することです。ここで過ごす三週間から四週間ほどの期間は、あなたにとっては長く感じられることでしょう。ですが、ここを出て社会で生活する時間の方が、ずっとずっと長いんです。だから、せめてここではルールを守って規則正しい生活を送ることを学んでいただきたい。そうすれば、家庭裁判所での審判にも有利に働く場合があるかもしれませんから。分かりますね?」
湯原は柔らかな口調で言っていたが、それは要約すると「良い子にしてろ」と言っているように、雫には聞こえた。それでも、少し押しつけるような内容でも、それが少年鑑別所や雫たち法務技官の役割だから、雫は異論を挟むことはしない。ここで真っ当な生活ができなければ、数えきれないほどの誘惑がある社会で真っ当な生活を送ることは、難しいだろう。
そのことが分かっているのか、塩入も「はい」と素直に頷いていた。でも、目は雫たちに向いておらず、表情もまだ晴れない。
この場で晴れやかな表情をする方が難しいとはいっても、それでも雫は塩入を心配してしまう。
「では、初回の面接を始めたいと思います。まずあなたが一番好きなものは何ですか? これをしている間は時間が忘れられるというほど、楽しいことはありますか?」
そう訊いた湯原に、塩入は顔を上げてまで目を丸くしていた。自分がした万引きについて、根掘り葉掘り訊かれると思っていたのだろう。
雫も同じように感じていたから、表情には出さなくても内心かすかに驚いてしまう。
初回面接とはいえ、対象者の集中力等を考慮して時間は限られている。それをいきなり事案とは関係ない雑談から始めるなんて。
それでも、雫は口を挟まず、ひとまずは湯原のやり方に任せることにした。
「えっと……、漫画を読むことです。『鬼滅の刀』とか『呪法廻戦』とかの漫画が特に好きです」
「なるほどね。僕も『鬼滅の刀』は好きですよ。面白いですよね、『鬼滅』」
「は、はい。シリアスなバトルの中にクスっと笑えるところもあって、面白いです」
「ですよね。僕もそこは思わず笑っちゃいましたから。ちなみに、塩入君はどのキャラが好きですか? やっぱり主人公の炭十郎ですか?」
「炭治郎も好きなんですけど、僕は善乙が一番好きです」
「なるほど。いいですよね、善乙。普段はふざけているけどやるときはやるって感じで。僕も好きなキャラですよ」
それからも湯原は、塩入と事案には関係のない漫画やアニメの話をしていた。雫はその度に早く事案のことを訊くべきなのではないかと少しやきもきしたけれど、湯原に焦っている様子は見られなかった。
きっとこれが湯原のやり方なのだろう。心理面接において自分と相手の共通点を見つけ出すことは、一つの有力な手法だ。共通点があるからこそ、相手も面接官にいくばくかの親近感を持ってくれる。
実際、漫画やアニメについて話す塩入の表情からは、少しずつ硬さが取れてきている。まだ、完全に目を合わせられてはいないけれど、雫はなんてことのない雑談の力を感じていた。
「そうですね。ここの図書室には漫画はないけれど、エンタメ小説は何冊かあるのでよかったら読んでみてください。では、もっと漫画やアニメの話をしていたいところなんですけど、そろそろ本題に入っていいですか」
そう言った湯原に、塩入は「は、はい」と少し身構えてみせた。やはり事案の話は気が重いらしい。もしかしたら答え方次第では、少年院に送致されると考えているかもしれない。
その可能性は雫には否めなかったから、せめて穏やかな表情のままでいるようにした。
「じゃあ、訊いていきますね。塩入君、あなたが検挙されたのは先月の二四日。スーパーマーケットで食料品や台所用品数点をレジを通さず、外に持ち出そうとした。これは合ってますか?」
湯原は威圧しないように、なるべく丸みを帯びた声で言っていたけれど、塩入は目を伏せて「は、はい」と言葉少なに答えるだけだった。既に警察等で同じことを訊かれているから言い逃れはできないけれど、怯えが覗く声に雫は塩入の心情を慮らずにはいられない。
「塩入君はそのとき、気分がこうむしゃくしゃしていたりしたんですか? 何か強いストレスを感じるような出来事があって、そのストレスを解消するためにスーパーに向かったんですか?」
「……い、いえ、あのそういうわけでは……」
「では、誰かに命令されてやったなどですか? 友達グループの中で仲間外れにされたくて、盗みを働いたということですか?」
「……いや、そういうことでもないというか……」
塩入は俯きながらもかすかに目を泳がせていて、雫は表情には出さなくても疑いを持った。
湯原から事前に、塩入と同じ高校の生徒が数日前に別のスーパーマーケットで万引きをしたという情報は、雫も聞かされている。そのときは被害届は出されなかったようだが、関連性を疑うのは雫にも一理あると思えた。
「では、こんなことは言いたくないんですけど、興味本位でやったということですか? ただ単にスリルを味わいたいがために、スーパーに入ったということですか?」
「……は、はい。そうです。そのドキドキ感を味わうためにやりました」
その言い方は傍から見れば自供だったが、それでも雫は額面通りには受け取らなかった。塩入が、言葉を下にこぼすかのように言っていたからだ。
自分一人が責任を負えば、この場は収まるかのように。誰かをかばっているようにも、火の粉が降りかからないようにしているようにも、雫には見えた。
「なるほど、そうですか。もう警察などで何度も言われて分かっているとは思いますが、興味本位やスリルを味わいたいからといって、万引きがれっきとした犯罪であることには変わりありません。だからこそ、塩入君はここにいるわけですし」
「は、はい……」
「では、万引きを行う動機についてもう少し詳しく知りたいのですが、ドキドキするとはどのようにドキドキするのですか?」
湯原は塩入が言ったことを受け入れて、面接を続けていた。注意はしているものの、否定はしていない。
もちろんルールはルールだと知らせる必要はあるが、いくら罪を犯した少年といえども否定しすぎてしまったら、委縮して訊き出せるものも訊き出せなくなってしまうだろう。
だから、雫も塩入の人格そのものを否定することはしなかった。穏やかな口調を心がけている湯原とともに、穏やかな表情を意識した。
でも、二人がいくらそう意識していたとしても、塩入は表情を強張らせていたから、面接室の空気は和やかではなかった。
雫たちは塩入との面接をしながら、気になった点をメモしていく。でも、それも塩入を緊張させる要因となっているようだった。
雫にとっても配属されてから初めての面接だったが、それでも一言も言葉を発しないのは、塩入に「この人は何のためにいるんだろう?」と思われかねないため、思い切って気になったことはいくつか質問した。
でも、塩入の返答はぎこちなく、それは湯原に対しても同様だった。発する言葉の一つ一つに迷っているように、雫には見受けられる。
それはどうやったら少年院送致にならずに済むかを考えているようでもあり、話しながら事実とは異なるストーリーを作り上げていっているようでもあった。