「おはようございます!」
その声は気負うあまり、雫の想定よりも大きくて、雫は思わず顔を赤らめてしまう。男性職員の一人が少し顔をしかめていたくらいだ。
それでも、年配の男性職員は雫に歩み寄ってきて、「おはよう」と優しく声をかけてくる。その胸には「所長
「山谷雫さんですね。今日からよろしくお願いします」
「は、はい! よろしくお願いします!」
「じゃあ、少ししたらもう一人戻ってくるので、挨拶は改めてそのときにしましょうか。それまではこの書類を参考にして、パソコンの設定をしていてください。分からないことがあったら、何でも訊いてくださいね」
「は、はい!」
那須川からステープラで留められた書類を渡され、雫はまっさらな自分の机に向かっていく。席に着く前に隣の席の男性職員に、雫は改めて「おはようございます」と声をかける。
男性職員はパソコンに目を向けたまま、小さく頷いていた。
雫が書類を参考にパソコンの設定に取り組んでいると、時刻はあっという間に午前九時を回った。
するとドアが開いて、一人女性職員が入ってくる。これまた雫とは親子ほど年が離れた先輩職員だ。その女性が自分の席に着くと、雫は改めて那須川から声をかけられる。
そして、二人は島の短辺にある那須川の机の前に立った。「皆さん、少しいいですか?」と那須川が声をかけると、他の三人の職員も立ち上がる。
室内にいる全員からの視線を一身に受けて、雫は背中に汗をかきそうになったが、それでも伸ばした背筋は曲げなかった。
「本日から当所に配属になった、山谷雫さんです」
「改めて、本日からこちらの長野少年鑑別所に配属になった山谷雫と申します。まだまだ大学を卒業したばかりの若輩者ではありますが、一日でも早く仕事に慣れて立派な法務技官となれるよう努めますので、皆さんご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」
雫は頭を下げる。すると、小さな拍手が四人から飛んだ。雫は少し胸をなでおろす。それでも、緊張はまだ解けなかった。
「では、もうご存知かもしれませんが改めて当所の職員を紹介させていただきます。まず山谷さんの隣の席が、同じく法務技官の
那須川に紹介されると、湯原は小さく頭を下げていた。でも、動いていたのは首だけで、一八〇センチメートルはあろうかという長身に、雫はかすかな威圧感を感じてしまう。
面接をする少年も、その風貌に少し身構えてしまいそうだ。
「そして、一番奥の席が、医師の
柔和な表情で微笑みかけてきた取手は、一人だけ白衣を着ていた。だから、紹介されなくても雫には、取手が健康診断等を担当する医師であることが分かる。腹が出ている身体は曲線的で、穏やかな雰囲気が発せられていた。
「続いて、湯原の正面の席が法務教官の
別所は、満面の笑みを雫に向けていた。同じ女性が配属されてきて嬉しいと言うように。
ある程度の年齢を重ねた大らかな雰囲気は、鑑別所の教官と言うよりも、寮母のように雫には見える。同性ということもあって、仕事の相談もしやすそうにも思えた。
「そして、もう一人法務教官として、
雫は頷く。今日のうちに機会を見つけて声をかけなければと、那須川に言われずとも思った。
「最後に私がこの長野少年鑑別所の所長を務める
「はい!」雫は歯切れのいい返事を心がけた。
「それでは、湯原の指示のもと業務にあたってください」
そう言われて、雫は自分の机に向かう。そして、息をつく間もなく、隣席の湯原に声をかけた。
「湯原さん、本日から配属になりました山谷雫です。よろしくお願いします」
雫が声をかけると、湯原は一つ大きく息を吐いていた。面倒くさいと思っている自分を戒めるかのように。
「それはさっき聞いたから。わざわざ同じこと二回も言うなよ。ウチただでさえ人が少ないから、少しでも時間を無駄にしたくないわけ。分かるよな?」
軽く倦むように言った湯原に、雫は思わず「すいません」と頭を下げる。湯原はまた一つ息を吐くと、おもむろに立ち上がっていた。
「まあ、いいや。まずこれからウチの施設がどんな感じなのかを紹介するから。ついてこいよ」
「は、はい」と返事をした雫を連れて、湯原は職員室の外に向かっていく。
そして、雫は湯原とともに所内を簡単に巡った。主な仕事場となる面接室に、面会室。食堂に医務室、図書室といった施設を湯原の簡潔な紹介とともに、周っていく。
外にある運動場も雫は見学した。学校の校庭を模していたが、一つ違うのは少年が手を伸ばしても届かない高さの塀に区切られていることだ。その光景に、雫はここが矯正施設なのだという思いをより新たにする。
運動場では水色の制服を着た六人ほどの少年少女が、サッカーをしていた。それを見ている眼鏡をかけた男性職員は、間違いなく平賀だろう。
雫は平賀にも簡単に挨拶をした。平賀は人当たりのいい反応を示していて、その容貌はこの鑑別所で働く職員の中では、自分と一番年齢が近いように雫には思えた。
一階の部屋を一通り見て周ると、二人は二階に向かう。二階には、少年たちが収容される居室が並んでいた。
雫は湯原に続いて、空いている居室に入る。横に三畳の畳が敷かれた居室は奥にトイレや洗面台、空調装置が設置されており、窓はあるものの、外に波板が張られていて、逃走を防いでいる。
畳の上には作業ができる机と、寝るための布団が置かれていて、振り返ってみるとドアの内側にはドアノブがなかった。収容された少年が自分からは出られない仕組みになっていて、雫は改めて気を引き締める。少なくない時間、収容される少年の自由を制限するのだから、それに見合う鑑別ができるようにならなければならないだろう。
施設の把握を終えて職員室に戻ってきた雫は、湯原から一件のファイルを渡される。「一〇時から昨日入ってきた少年の初回面接が控えてるから、目を通しとけ」とのお達しだ。雫もファイルを開く。
被疑者の名前は、
少年犯罪において、窃盗の割合は実に半数を占める。その窃盗の中でも万引きは、自転車盗やオートバイ盗と並んで代表選手だ。
軽微な万引きは簡易送致や審判不開始となる場合が多いが、複数回繰り返しているからには、被害金額はそこまで少なくないのだろう。
でも、違いはそれくらいのように雫には思えた。警察の少年調査票に添付された顔写真にも、年齢以上のあどけなさが見える。
もちろん初めての実務的な鑑別に雫の緊張は止まなかったけれど、それでも重大事件とされる事案に比べたらいくらか与しやすいとは、正直なところ雫には思えてしまっていた。
一〇時になると雫は湯原と一緒に居室へと、塩入を迎えに行く。
ドアが開いて湯原に声をかけられたとき、塩入は目に見えて分かるほど怯えていた。一五〇センチもない背丈をさらに縮こまらせていて、雫には「気の毒」という言葉さえ浮かんでしまうほどだ。
でも、湯原は「面接をしますので、第一面接室に行きましょう」と丁寧に声をかけていて、塩入はおずおずと頷いていた。
窓際に観葉植物が置かれ、壁際には地元に住む現代画家の絵が飾られた第一面接室は、波板が張られた窓から日が差しこんでくることもあって、雫には思っていたよりも息が詰まるような心地はしなかった。
それでも、塩入は追い詰められたように思っているのか、テーブルを挟んで向き合ったときには硬い、焦りさえ浮かんでいるような表情をしていた。