雨が窓を打ちつけている。風に煽られた強い雨は、些細な音ならかき消してしまいそうなほどだ。
そんななかで、一人の少年が部屋の中で立ち尽くしている。冷房の風が少年の髪をかすかに揺らす。
しかし、この部屋は少年が普段暮らしている部屋ではなかった。そして、部屋にいるのも少年一人だけではない。
少年の視線は下方に向いている。その先には横向きに寝そべっている少女の姿があった。
いや、寝そべっているというよりは。倒れているという方が正しいだろう。少女が倒れている白いカーペット、その少女の腹部に当たる部分は、赤く染まっていた。
ぴくりともしない少女を見つめる少年。その足元には、自宅から持参した出刃包丁が転がっていた。
「
声とともに、ドアが開く。少年が目を向けた先には、お盆に二人分の麦茶を載せた少女の母親がいた。
母親は少女の姿を見ると、手からお盆をこぼす。コップが割れる音。
変わり果てた少女の姿を目の当たりにして、母親は腰が砕けたようにしゃがみこむのと同時に、甲高い悲鳴を上げた。その悲鳴は強く降る雨にもかき消されずに、家中に響く。
すると、少女の父親が「母さん、どうした!?」とやってきた。しかし、父親も床に倒れている少女の姿を見ると、言葉を失くしていた。
それでも、母親に「お、お父さん! 救急車!」と言われて、電話へと向かっていく。
その一部始終を、少年は他人事のように眺めていた。どこか別の世界で起きているような。そんな現実感の薄い感覚があった。
時間にしてみればわずかだったのだろうが、父親が電話をかけて戻ってくるまでの時間が、少年には極めて長く感じられた。その間、母親はこの世のものとは思えない状況に、ずっと泣きじゃくっていた。
父親が、キャラクターもののタオルを手にして戻ってくる。「母さんはとりあえず、これで奈々子の血を止めて!」と言うと、母親は震えながらも少女のもとへ向かっていった。少女を仰向けにしてTシャツを一枚めくると、刺傷が誰の目にも露わになる。
それでも、少年は立ち尽くしたままでいた。
タオルが血で赤く染まっていくのを見て、母親はさらに泣きじゃくっている。そんななか少年は「お前、奈々子から離れろ!」と、父親に腕を引っ張られる。全身の力が抜けていた状態だったので、少年はあっけなく部屋から引きずり出された。
その間際に見た少女の顔は、血の気が引くという表現がぴたりと当てはまるほど、白かった。
閉められたドアの向こうで、両親が「奈々子! 奈々子!」としきりに叫んでいる。それを少年はただ何をするでもなく、じっと立ち尽くしたまま聞いていた。
「ちょっとお母さん、心配しすぎだってば」
ソファにベッド、冷蔵庫に洗濯機といった必要最低限の家具家電しか置かれていない部屋は、まだ埃一つない。本棚には法学や心理学、教育学に社会学といった書籍がずらりと並んでいる。
テレビもない部屋では、今手にしているスマートフォンだけが、雫が持っている唯一の情報機器だった。
「そんなこと言って、明日から配属なんでしょ。雫が社会人としてやっていけるか、どうかお母さん心配で心配で」
電話の向こうの
他ならぬ一人娘が、初めて社会に出ようとしているのだ。心配するのも当然だが、それでも雫には秋穂の態度が少し度を超しているように思えてしまう。
「だから大丈夫だって。私これでも国家公務員試験受かってんだよ? 研修も三ヶ月間みっちりやったし。きっとなんとかなるよ」
「そう? でも、雫が就く仕事って、普通の会社員とは違うでしょ? ちゃんとできそう?」
「ちゃんとできそう? って、そりゃやるからにはちゃんとやるしかないでしょ。大体そんなこと言ったら、この世に普通の仕事なんてないよ。みんな違った大変さがあるんだから」
雫は再び口元を緩める。秋穂に自分の表情は見えていないけれど、口調から自分がどう思っているかは伝わっていてほしかった。
「そっか。そうだよね。でも、無理だけはしないでね。大変な仕事だとは思うけど、無理して体調崩しちゃったら、元も子もないんだからね」
「分かってるよ。幸い勤務時間もそんなに長くはないし、ちゃんと週休二日制だから。無理せずに働けると思う」
「大変だったら、いつでもお母さんやお父さんに相談してくれていいんだからね。よければ家に帰ってきてもいいんだから。お母さんたちは業務の相談には乗れないかもしれないけど、それでも雫を励ますことはできるから」
「うん。時間があるときには帰ることにするよ」
「それからちゃんと三食しっかり食べてね。ちゃんと野菜も摂るようにすること。あと身体を壊さないように、睡眠時間もしっかり取ってね。それから……」
「あー、分かった分かった。とにかく体調には十分気をつけるから。それでいい?」
「うん。じゃあ、雫。明日からの仕事、無理のない範囲で頑張ってね。お母さんたちも応援してるから」
「ありがと。私頑張るよ。もちろんすぐにはうまくいかないかもしれないけど、それでも自分で選んだ仕事だからね。じゃあ、お母さん。そろそろ切っていい? 私、眠くなってきちゃった」
「そうだね。じゃあ、おやすみ。よかったらまた電話してね」
「うん。また電話する。おやすみ」
電話を切ると、しんとした静寂が雫を包む。地方都市の一角にあるこの辺りは、夜の一一時にもなると車の往来はぐっと減る。
雫は一つあくびをしてから立ち上がると、ベランダへと向かった。
窓を開けると、涼しい風が頬に触れる。昼間は気温が上がっても、まだまだ夜は過ごしやすい。
雫はベランダの手すりにもたれかかると、大きく息を吐いた。三階にある部屋からは、近隣に軒を連ねる民家と、遠くに暗くなった山肌が見える。
雫は空を見上げた。いくつか輝く星たちの中で、高く昇った満月が一際強い光を放っていた。
雫の勤務先は、部屋と目と鼻の先にあった。
今日からいよいよ本配属になると思うと、雫の目はスマートフォンのアラームをかけなくても、しっかりと朝の七時に目が覚める。カーテンを開けると、晴れ渡った空から燦燦とした日差しが、窓越しに雫の部屋に降り注いだ。
冷蔵庫にある食材で簡単な朝食を作り、身支度を調える。そして、雫はハンガーラックに掛けられた紺色の制服に袖を通した。今日初めて着るこの制服はまだ皺ひとつなく、糊の利いた着心地は、今の自分の心象を反映しているようだ。
バッグに必要なものを詰め込むと、雫はしゃきっと背筋を伸ばした。窓に映った自分の姿は、どこまでも初々しかった。
宿舎から勤務先へは、ものの一分もかからなかった。白い壁が印象的な、二階建ての建物だ。
事前に配布されていた職員証をかざし、職員通用口から雫は館内に入る。
すると、細長い廊下の左右にいくつもの部屋につながるドアがあるのが目に入った。かすかに橙色を帯びた壁色のおかげで、想像していたほど手狭な印象を雫は受けない。人はいるのだろうが、話し声は聞こえてこず、館内は静けさに包まれている。
独特な雰囲気に息を呑みながらも、雫はすぐ右手にある職員室のドアを押した。
中に入ってみると、六つの事務机が島となるように置かれていて、壁際の棚にはいくつもの書類がファイルに入って並べられていた。机の上はどの机も書類が山のように置かれていて、その中に一つだけあるパソコンとモニターしかない机が、自分の机であることを雫は直感する。
室内には三名の男性職員がいた。三人とも雫とは親子ほど年が離れた先輩職員だ。そして、今三人の目はドアをくぐって入ってきた雫に集中している。
じっと向けられた視線に、早鐘を打つ心臓。それでも、雫は努めて背筋を伸ばした。
「おはようございます!」