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死に物狂いで筆を執れ
小瀬木光
現実世界仕事・職場
2024年08月22日
公開日
1,949文字
連載中
流されるままに作家になった青年。青年はいつの間にか物語を生み出せなくなった。そんな青年が締め切りに追われる物語。

第1話

 人生とは数奇なもので生まれてこの方三十年の私の人生は世間一般の方々からすれば少々変わった人生に写るのでしょう。

 私の人生の転機はやはり齢十五の夏に書いた『瓦が舞えば』でしょうか。あのときの私はふと思いついてしまったその物語を書かずにはいられなかったのです。そして当時の私は軽い気持ちで賞へと応募してしまいました。

 その結果があれよあれよという間に小説家デビューへと繋がるわけですから軽率な行動とは恐ろしいものです。当時は私も若かったのでしょうね。つい天狗になってしまいまして周囲に言われるがままに思いついたものを次々と小説という形で物語を書いていったわけですよ。

 そんな生活がしばらく続いたある日のことです。ふと我に返ると小説を書くことを楽しんでいたはずが次第にその小説が私のことを追いかけ追い詰めてくる存在になってしまったのですから皮肉なものです。

 それでもしばらくは楽しめることも多かったものですからあまり強くそのことを認識することはありませんでした。

 ですがね、とうとうそのことと向き合わなくてはならない時が来たわけですよ。それはテーマに沿った物語を書こうという企画に参加したときでした。私も一つのテーマを担当していたわけですが、どれだけ考えても担当したテーマの物語を書くことはできませんでした。

 何度も何度も担当の方に頭を下げて締め切りを延ばしてもらった訳なのですが、やはりしっくりくる物語として描くことができずついには締め切りの日に偶然できあがった中途半端なものを提出せざるおえなかったのです。

 私自身はまったく納得のいく作品にはならなかったわけですが、周囲の方々は十分納得してくださったので、担当の方に渡さざる終えなくなったわけです。

 それからしばらくはあまり物語を書く気にはなれず、日本中をあちらに行ったりこちらにいったりとふらりふらり旅をしていました。海も川も山も動物も虫も植物も、様々な場所で季節も天候も違う日々を見るとやはり小説を書きたくなったわけではありませんでした。自然に触れすぎたせいかどう表現すべきかより迷走を極めてしまいました。

「先生、言い訳は以上でよろしいですか」

 私の前に座る長年の付き合いのある担当からの容赦のない言葉と視線に胸を痛めながら目の前にある変わることのない現実からゆっくりと目を逸らそうとした。

「今回は先生から作品を出したいとお話を伺ったため枠を用意しました。ですが、こちらはどういうことでしょうか」

 担当が目を向けた先にはほとんど文字が書かれていないほぼ白紙の原稿用紙がひろがっていた。

「先生が作品を作るために必要だからと取材に行き、今日まで待つようにとのお話だったので本日伺ったわけですが、まさかこのほぼ白紙の原稿用紙が今回の作品ではありませんよね」

 そっと目を逸らそうとするも担当からの圧に負け恐る恐る担当のほうへと視線を戻す。

 視線を戻した先には笑顔を浮かべ極寒の冷気を纏った担当が見え、即座に視線を横へと逸らした。

「定期的に差し上げていたお電話では原稿の進捗は順調だとおっしゃっていましたよね。他に原稿が用意できているのでしたら意地悪せずに見せていただけませんか」

 完成した原稿。そんなものは今手元にはなかった。取材に行ったは良いものの納得できる内容を書くことができなかった私は遂に約束の日を迎えてしまい、もはや言い訳のできない状況だった。

「すみません。まだ原稿はできていません」

 担当はしばらく黙り何かを考えるとその場で私に電話を入れる旨を伝え一端席を外した。電話を終えた担当はどこか覚悟を決めたような顔をして私の前に戻ってきた。

「先生、我が社の執筆部屋で執筆なされませんか」

 執筆部屋。たしか以前、作家のために用意されている場所として見学させてもらったすぐに書けない作家や締め切りから逃げる作家が利用することのある部屋だと教えてもらった。

「電話で確認が取れたのですが、今回の先生の原稿が間に合わないと紙面に穴を開けてしまうそうです。それは私も困りますので編集長に確認したところ執筆部屋の使用許可が下りました」

 一人では書くことが難しくなっている私にとっては渡りに船の提案であるはずが、何故か真綿で首を絞められているような錯覚が頭をよぎった。

「私も一緒に泊まり込みますので最終締め切りまでに必ず原稿を挙げましょう」

 このとき、感謝すべきはずの担当からの提案は悪魔からの提案のように感じたものの、もはや私に逃げ道はなく、執筆道具を手に取り担当が所属する出版社へと足を運ぶことになった。

 このときの私はその部屋を抜け出すときに私がどのようになっているかなど想像できなかった。

 そして、この執筆を終えた後、命をかけて執筆に臨むことの意味を知った私は再び小説を書き続けるかもしれない。

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