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 二月ふたつき後、霊斬の全身の傷はずいぶんとよくなった。この日、二月と少しぶりに、店を開けた。

 ちょうどそば屋へ出かける準備をしていたところに、戸を叩く音がする。

 手を止めた霊斬は、

「開いておりますよ」

 と声をかける。

「失礼する」

 入ってきたのは名のある家の武士だった。

 武家に疎い霊斬でも、その男の家紋を見れば分かった。

「こちらに」

 霊斬は入ってきた武士に、すぐさま手で奥を示した。

 武士は無言のまま、奥へいき、床に胡坐をかいた。

 霊斬も武士の正面に正座をすると、口を開いた。

「どのような御用件でしょうか?」

「因縁引受人霊斬、という者を捜している。そなたが、そうか?」

「……はい」

 霊斬は武士を正面から見つめ、うなずいた。

仁科にしな家を壊してほしい。当主はいくという」

 依頼人は太刀を差し出しながら言った。

「なぜですか?」

 霊斬が尋ねる。

「仁科家はなにを考えているか分からぬが、我が家との主従関係を切ると言い出しておるのだ。家がこれ以上没落するのは目に見えておるというのに」

「そうでございましたか。なにを言っても聞かぬから、仕方なくここへ?」

「そうでござる」

 霊斬は太刀を受け取り、状態を確認する。

「分かりました。ですが、その前にひとつ確かめたいことが」

「申せ」

「人を殺めぬこの私に頼んで、二度と後悔なさいませんか?」

「後悔などしない」

 依頼人はきっぱりとした口調で言い放った。

「分かりました。では、七日後、またお越しください」

 霊斬はそう言って頭を下げた。



 その後、そば屋へいくのを後回しにした霊斬は刀部屋に入り、預かった太刀に視線を落とした。

 切れ味が少し落ちているだけだった。

 太刀を丁寧に扱っているのが伝わってきた。

 霊斬は目の細かい砥石を取り出して、丁寧に研ぎ始めた。



 それからだいぶ経った後、太刀の修理を終わらせた霊斬は、隠れ家に足を運んだ。

「いるか?」

「はいよ」

 千砂は応じると、霊斬を招き入れた。

「仁科家について調べてほしい」

「一日ですませるよ」

 千砂の打てば響くような答えに安心する霊斬。

「あと、別件を頼みたい」

 霊斬がそう言うと、千砂が訝しげな顔をする。

「別件?」

 霊斬は今回の依頼人について話した。

「それも仁科家が片づき次第、調べておくよ」

「助かる」

 霊斬は言うと隠れ家を後にした。



 その日の夜、千砂は忍び装束を身に纏い、仁科家へ侵入した。さほど有名ではないのだろう、規模は今まで見てきた屋敷の中で一番小さかった。

 千砂が屋根裏を駆けまわっていると真下から声が聞こえてきた。

「なにを企んでいるのか分からん。少なくとも用心だけはしておかねば」

「はっ! しかし旦那様、本当によろしいのですか?」

「あんなに腐敗している武家に仕えている方が、阿呆あほうというものだ」

 ――腐敗? どういうことだ?

 千砂は耳を澄ませる。

「わしは賄賂などに手は貸さん!」

「それはご立派なことですが、我らを相手にしてくれるような武家など、どこにもありませんぞ?」

「我らだけでなんとかすればよい」

「はぁ……」

 ――その根拠のない自信はどこからくるのだろう?

 千砂は話を聞きながら思った。

 ――壊していい武家じゃないのは確かだねぇ。さて、霊斬はどうするのだろう?

 千砂は思いながら仁科家を後にした。


 翌日の夕方、霊斬が隠れ家を訪れた。

「どうだった?」

 霊斬が開口一番に聞いた。

「どうやら、賄賂に手を染めている武家から、主従関係を切ろうとしている」

「話が違う。もしかして、口封じか?」

 霊斬が言いながら考える。

「その線が濃いかもねぇ。それで、どうするんだい?」

 千砂は呑気に言いながら霊斬に問いかける。

「……依頼人をあざむく。どちらが正しいかは明白だ」

「できるのかい? 今までずっと依頼人のためになんだってやってきたあんたが、そんな真似」

 霊斬はひとつ息を吐く。

「やるしかあるまい。幸い顔には出ないから誤魔化せるだろう。ばれても大したことにはならんはずだ」

 霊斬は苦笑した。



 それから七日が経った決行当日。依頼人が姿を見せた。

「して、どうであった?」

 霊斬は直した刀を差し出しながら言った。

「主従関係を切ろうとしているのは、確かなようです」

「どうか、壊してくれ」

 依頼人は言いながら、小判十両を差し出した。

「かしこまりました」

 霊斬は小判十両を袖に仕舞うと、頭を下げた。



 その日の夜、黒装束に身を包んだ霊斬は、仁科家へと走った。

 その後を千砂も追う。

 霊斬は裏口から屋敷に侵入し、中庭までいくと声を張った。

「仁科幾!」

「こんな夜更けになんのご用で?」

 霊斬のことは知らないのか、そう尋ねる幾。

 不審者を発見したと思った仁科の息子が兵を数人呼び、霊斬に五人の男達が槍を向ける。

 それに一切動じることなく、霊斬は語った。

「今から江戸を離れろ」

「なぜですか?」

 幾が首をかしげる。

「俺はある武家から、この家を壊すよう依頼されたが、調べによると、そんなことをするべきではないという結論に至った。だから、お前らを逃がす。主の家から追手がくるのは嫌だろう?」

「分かりました。……皆、持てる荷物だけまとめるのだ!」

「父上! どこの馬とも知れぬ男のことを信じるのですか!」

 息子が反論する。

「わしは皆と穏やかに暮らしたいだけじゃ。武士でいなくとも、わしは構わん」

「ちっ……」

 息子はそれ以上言わず、引き下がった。

「ただ、見逃すわけではない。ここにも俺がきたというを残さなければならない」

「証ですと?」

 幾が首をかしげた。

「ちょうどいい、そこのお前」

 霊斬は槍を構える男達の中から、右から三番目の男を指定した。

「な、なんだ!」

 霊斬は視線を外さないまま、刀の柄に手をかけた。

 次の瞬間、男の左足に赤い筋が刻まれた。そこから噴水のように鮮血が溢れ出す。

 霊斬は刀をおさめる。かちんという音が響いた。

 たまげたと言わんばかりに男は、その場に転んだ。

 霊斬は瞬時に刀を抜き、男の脚を斬りつけたのだ。

 刀を仕舞うのも一瞬だったので、視認できた者はいない。

「これが、俺のきた痕跡だ」

「なんと……!」

 幾の驚いた声が聞こえてくる。

「誰も血を流さずに逃がす、とは言っていない」

 霊斬は冷ややかな声で言った。

「これで、生きられるのだな!」

「それはこいつが、貴様らを裏切らないかどうかだ」

 幾の発言に霊斬が待ったをかけた。

「僕は、自身番の連中になにを言えばいい?」

「〝因縁引受人が家を壊していった〟 それだけだ」

 霊斬はそう短く告げた。

「追手から逃れられるかどうかは貴様ら次第。俺にできるのはここまでだ」

 霊斬が言うと、遠くからピーっと笛の音が聞こえてくる。

「さぁ、早くいけ」

 霊斬の言葉にうなずいた幾らは、屋敷を去った。

 霊斬も姿を消した。



 依頼を完遂した帰り道、千砂に声をかけられた。

「犠牲は、あれだけでよかったのかい?」

「ああ、あれくらいがちょうどいい」

 霊斬が言い放った。

「そうかい」

 千砂はうなずきながら、霊斬が無傷であることに安堵していた。



 その翌日、依頼人が霊斬の店を訪れた。

「実によい手際だ。瓦版にもそう書いてあった」

「そうでございましたか」

 霊斬は愛想笑いを浮かべて答える。

「報酬だ」

 依頼人は言いながら、小判十両を差し出してきた。

「またのお越しをお待ちしております」

 霊斬は小判を袖に仕舞うと、頭を下げた。

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