武士が店を去った後、霊斬は預かった刀に視線を落とし、刀部屋へと足を運んだ。
空いた空間に腰を下ろして、刀の状態を確認する。
使い込まれており、切れ味が相当落ちていた。
霊斬は目の粗い砥石を取り出して、力を込めて研ぎ始めた。
それから時をかけて研いでいくと、霊斬は一度手を止める。抜き身の刀をその場に置くと、伸びをする。
「幻鷲! いるかあ?」
聞こえてきた大声に、霊斬は溜息を吐く。相手がすぐに分かったからだ。動かそうとしていた手を止めて、表へと向かった。
外はちょうど、日が傾き始めた時刻だった。
霊斬は店の奥の部屋に立って、大声を出した張本人を睨みつけた。
「なにしにきた」
「別にいいだろうが」
と突っ込みを入れるのは鍛冶屋仲間の
「それで、なんの用だ?」
「そば屋のあの子……えっと
霊斬はしばし考えた後、声を出した。
「……知らん」
「嘘つけ」
「知らん」
霊斬は再度口にした。
「あれだけ店に通ってて、知らないってどういうことだよ……」
喜助が盛大な溜息を吐く。
「それを言われても困る」
霊斬が苛立ちを込めて、言い返す。
「しょうがない! 他を当たるか」
「迷惑がられるだけだから、やめておけ」
霊斬が水を差す。
「お前が知っていれば、こんなことにはならねぇんだよ!」
喜助が笑いながら言う。
「勝手にしろ」
霊斬はそう吐き捨てると、刀部屋へと戻った。
喜助は片手を振って、店を後にした。
それから数日後、霊斬は隠れ家に向かった。左手の晒し木綿は外れ、痛々しい傷跡を残すのみとなっていた。
「千砂、いるか?」
「なんの用だい?」
千砂が戸を開けてそう尋ねた。相手が霊斬だと分かると黙って身を引いた。
霊斬は隠れ家に入るや、草履を脱ぎ、床に胡坐をかいた。
「美津元也という男を調べてほしい」
「それなりに、名の知れた家だね。その男に関する情報、すべてをご所望かい?」
「ああ」
「三日おくれ」
「分かった」
霊斬はそれだけ聞くと、そそくさと隠れ家を去った。
霊斬は千砂が情報収集に当たっている間、刀の修繕をすることに決めた。決行日までそんなに日がないこともあり、霊斬は慣れた手つきで、作業をこなしていく。
ようやく切れ味を回復させると、今度は目の細かい砥石を取り出し、仕上げ研ぎを始めた。
三日後の夜、千砂が店を訪れた。
「幻鷲、いるかい?」
表から聞こえてきた声に、霊斬は手を止め、立ち上がると刀部屋を後にした。
奥の部屋へ出ると、商品の間を突っ切って、戸を開けた。
千砂が店の中に入るのを見届け、戸を閉める。
奥の部屋へ連れていき、霊斬は胡坐をかく。
千砂はその正面に正座をして、霊斬と向き合う。
「それで、どうだった?」
霊斬が本題を切り出す。
「いたって普通の武家だったよ。後ろ暗いこともなかったし。所帯は持ってなかったね」
「それから?」
霊斬が先を促す。
「美津家の長男。厳格な父親の許、育てられた。なかなか見合い相手がいないことだけが難点で、他は完璧。だけど、親にも言っていない過去がある」
「過去?」
霊斬が聞き返す。
「一時期、盗賊の連中と一緒にいたらしい。それで、襲った武家が」
「まさか、依頼人だったってことか?」
「いや、親しくしていた武家だったんだ」
霊斬は驚いたような顔をして、千砂を見つめる。
「だから、あんなことを頼んできたのか」
霊斬は合点がいったというような顔をして、うなずいた。
「当日は、邪魔が入ることを考えておいた方がいいねぇ」
「……むやみに傷つけたくはないんだが」
霊斬がぽろっと本音を零す。
――相手がその気なら仕方がない。
霊斬は内心で呟き、溜息を吐いた。
千砂は霊斬の本音を聞いており、内心でこう思った。
――非情なところがあるけれど、霊斬はやっぱり優しい。
「話は分かった。じゃ、また決行日にな」
「あいよ」
千砂は言うと、店を後にした。
決行日当日、依頼人が店を訪れた。
「お預かりしていたものを、お返しいたします」
霊斬は言いながら、依頼人の小太刀を差し出す。
「……うむ、よい出来だ」
武士は小太刀を抜いて状態を確かめると、満足そうに言った。
「美津元也ですが、以前、あなた方と親しくしていた武家に、盗みに入ったのですね」
「そんなに昔のことを、よく調べましたね」
武士は苦笑する。
「一人の男を精神的に使えなくしてくれなどという依頼を受ければ、徹底的に調べますよ」
霊斬も苦笑しながら答えた。
「そうか」
武士はうなずく。
「拷問まがいのことになるかと思います。確実に、精神的に殺せるかどうかは保証いたしかねます。それでも、よろしいですか?」
「構わぬ。どのみち壊れる武家だ」
「かしこまりました」
霊斬は頭を下げた。
その日の夜、黒の長着に同色の馬乗り袴、黒の足袋、同色の羽織を身に着ける。隠し棚から黒刀を取り出して腰に帯びる。黒の布を首に巻いて、顎から鼻まで引き上げる。草履を履いた霊斬は、店を出た。
美津家までは遠かった。
いくつもの屋根を飛び越え、駆け抜ける。路地裏に身を隠すこともあった。
そうして誰にも姿が見られないよう、気を配りつつ、美津の上屋敷を目指した。