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小料理屋《一》

 それから一月後、一人の客が霊斬の店を訪れた。

「いらっしゃいませ」

 霊斬が出迎えると、一人の女と目が合った。

 見た目は霊斬より少し上の三十ほどか。

 女は黙ったまま、会釈する。

「こちらへどうぞ」

 霊斬が手で奥を指し示すと、女は後をついてきた。

「して、私になんの御用ですか?」

「〝因縁引受人〟という御方をご存じありませんか? その御方と会えなければ、わたくしから話すことはございません」

「……分かりました。私が因縁引受人、またの名を霊斬と申します。本日はどのようなご依頼でしょうか?」

 霊斬は溜息を吐いてから言葉を続けた。

「本当に、あなたがそうなのですか? なにか証はありませんか」

「証?」

 霊斬は名乗ったのにもかかわらず、怪しむ女を怪訝けげんそうに見る。

 ――ここまで怪しむ客は初めてだな。

 霊斬は内心でそう思いながら手短に告げた。

「少々、お待ちください」


 霊斬は席を立つと、女から離れて盛大な溜息を零す。

 ――証として見せられるもの……か。

 隠し棚に仕舞っている黒装束一式と、黒刀を取り出して思案する。

 霊斬は黒装束を元ある場所へ仕舞い、黒刀を携えて、女を待たせている場所まで戻った。


「これが証にございます」

 霊斬は女の前に正座をして、刀を目の前まで持ち上げる。静かに鞘を抜き、黒い刀身を見せた。

「……分かりました。わたくしは小料理屋の娘です。婚姻関係の男がいるのですが、この御方、暴力を振るってくるのでございます。それをなんとかしていただきたいのです。そのくせ、結婚を迫られているのです」

 ――そんなもの、別れればいい。それだけの話ではないか。

 霊斬は内心で溜息を吐いた。

 女の手に視線を落とすと、痣がいくつかあるのを見つける。

 顔こそ傷ついていないものの、身体はぼろぼろかもしれない。

 ――早急に解決せねばならん……問題ではあるか。

 霊斬は沈黙ののちにそう判断し、声をかけた。

「その御方の名を教えていただけますか?」

とくすけと言います。呉服問屋の次男です。江戸で一番大きいお店だそうです」

 名を告げた後、女は懐から財布を取り出し、銭五枚を差し出した。

「これだけで頼むのは、とても、恐縮ですが……」

「いえ、構いません。それよりも確認したいことがございます」

 霊斬は銭を受け取り、袖に仕舞うと、女に視線を向けた。

「確認……ですか」

「はい。人を殺めぬこの私に頼んで、二度と後悔なさいませんか?」

「後悔は、しません」

「では、七日後にまたお越しください」

 霊斬は告げると頭を下げた。



 霊斬は女が帰った後、千砂がいると思われる隠れ家に足を向けた。

 もう日が傾き始めており、西日を背に受けながら歩く。

 すれ違う者の中には知り合いもおり、霊斬はときどき会釈をしながら、歩いていった。

 隠れ家に着き、霊斬は閉まっている戸を叩く。

「はいよ、あんたかい」

 千砂はそれだけ言うと、戸をさらに開け、身を引いた。

「忙しいところ、悪いな」

 霊斬が言いながら、隠れ家に足を踏み入れ、戸を閉める。

「あんたにそんなこと言われると、なんだか気持ち悪い」

 千砂は苦笑した。

「……そうかよ」

 霊斬は溜息を吐いた。

「それで? 今回は?」

 奥へ進み、床に正座をした千砂は、尋ねた。

「分かっていたのか」

「あんたが依頼以外で、ここにきたことあるかい?」

 千砂が苦笑する。

「ないな。今回は呉服問屋の男、徳助。依頼人は小料理屋の娘」

「武家じゃないのかい。珍しいね」

 千砂が目を丸くする。

「そうだな、どれくらいかかる?」

 その言葉を流した霊斬は、そう尋ねた。

「二日」

「分かった。……それと、役に立つかどうか分からんが、江戸で一番大きな呉服問屋だそうだ」

 霊斬はそういえば、というくらいの軽い気持ちで付け足した。

「なら、一日ですむよ。なんでもっと早く言わないんだい?」

 千砂は溜息を吐いた。

「その情報がそんなに大事か?」

 心外なという顔をする霊斬。

「そうだよ、あたしに江戸中の呉服問屋を回れって言ってんだから。その手間が省けただけでも、だいぶ楽だよ」

「そうか。あとは任せる」

 霊斬はうなずくと、隠れ家を後にした。



 千砂は隠れ家を出て、湯屋に向かった。

「おや、千砂ちゃん。ごゆっくり」

 湯屋のおかみが声をかけてきた。

「ありがとうございます」

 千砂は礼を言いながら女湯へ。ここは今の時代珍しく混浴ではない。

 この時間は誰もおらず、貸し切り状態だった。

 身体を手早く洗い、大きな湯船に、肩まで浸かると、溜息が零れる。

 ――幻鷲霊斬。その身に〝痛み〟のすべてを引き受けた男。彼の送ってきた人生は壮絶なものだ。昔話をするように彼は淡々と語って見せたが、よほどの苦痛や困難があったことだろう。やはり、あの男はとても哀しい。それでも、生きる執着は人一倍強い。ずっと近くで見てきたから、分かるのだ。哀しいくせに、誰よりも優しくて、強い。孤高と言ってもいいくらいだ。

「……少しくらい、頼ればいいのに」

 思わず不満が零れた。

 ――せめて、四柳さんや、あたしに。

 千砂は内心で言葉を続ける。

 ――あんなに傷だらけになっても、一人で抱え込もうとする。本当にある種の馬鹿とも言える。平気な顔をして痛みに堪えているのだから、そこは不思議としか言いようがない。

 湯に浸かり、思う存分伸びをすると、千砂は湯船から上がり、脱衣所へ向かった。

 手早く着替えると、物音がして別の女が入ってくる。

 ちらりと一瞥した後、湯屋を去った。


 隠れ家へ着いた千砂は濡れた髪を押さえながら、思案する。

 ――霊斬のことばかり考えているなぁ。

 そのことに気づき、彼女は苦笑する。

 ――あの男は今、なにを思っているのだろう?

 水を飲みながら、千砂はそんなことを思っていた。

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