目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
岡っ引き《二》

 霊斬が静かな声で告げると、千砂は驚いた顔をした。

「よく依頼を受けたね。てっきり断るのかと思ったよ」

 霊斬は苦笑する。

「正体がばれる危険を冒しても、俺は見て見ぬふりはしたくない。それに岡っ引きには、釘を刺しておいた」

「そうかい。じゃ、一日おくれよ。必要なものはすべて、用意するからさ」

 千砂は苦笑して言うと、霊斬が立ち上がった。

「頼んだ」

 霊斬はそれだけ告げると、隠れ家を後にした。



 千砂はその日の夜、まずは自身番に足を運び、美里伊之介を捜したが、いなかった。武家屋敷の中心部付近に美里の表札を見つけると、音もなく屋敷内に忍び込む。そのまま、屋根裏まで忍び込むと、やたらとうるさい場所に向かう。


「あやつの屈辱に満ちた顔、お主らにも見せてやりたかったわ!」

 老年の男の一言で、下卑た笑いが飛び交う。

「そうですねぇ、久五郎きゅうごろう様」

「お主は真面目な男よのう。こんな笑い話にものらんとは」

「笑えぬだけにございます」

 その男は冷ややかな声で答えた。

「次はどんな嫌がらせをしてやろうかのう? あやつの家族を襲うかの~?」

「良いではありませんか! 我らもお力添えいたしまする!」

 と別の武士が言い、場が盛り上がる。

「では、六日後のこの時間、あやつの屋敷を襲うことにする! 皆、準備はきちっとするように~!」

 酔った勢いでそんなことを決めてしまった久五郎に、千砂は呆れた。

「伊之介、もっと呑まんか!」

 久五郎が上機嫌に言う。

「いえ、私はこの辺で失礼」

 呼ばれた男――伊之介はその場を辞した。


 伊之介を追う千砂は、彼の自室に辿り着いた。

「……いつまで私の派閥の中で、ああして、騒いでいるのだろうか」

 ――もううんざりだ。

 伊之介は溜息を吐いた。

「気に入らん奴がいる。それだけの理由で、ここまで衝突していては、いっこうに自身番をまとめられないではないか」

 伊之介は再び溜息を吐く。


 千砂は考える。

 ――伊之介はただ表立っているだけで、久五郎が偉ぶってる?

 その疑念を晴らそうと、千砂は先ほどの部屋へと戻る。

 天井の板を外し、様子を窺うと、ある男の愚痴ぐちで盛り上がっていた。

 主に愚痴を言っているのは久五郎だけで、他の者はそれに同意している。

 ――伊之介の笠に入って、えつに浸っているのだとしたら、本当の敵が変わってくる。

 千砂は天井の板を元に戻すと、霊斬の店へ向かった。



 月が一番高く昇るころ、千砂は忍び装束姿のまま、霊斬の店の戸を叩いた。

「……開いているぞ」

 一呼吸遅い応答に苦笑しながらも、千砂は静かに戸を開け身体を滑り込ませた。

 理路整然と並べられた商品の間を抜け、開けた場所、依頼人と話をするところまでいくと、ゆっくりと身体を起こす霊斬の姿があった。

 床にはおそらく空の徳利が三つ。それと盃がひとつ、無造作に転がっている。

 ずいぶん呑んでいるというのに、霊斬の顔はいつもと変わらなかった。

 ――どういうこと?

 千砂は内心で突っ込みを入れる。

「……こんな時刻に、どうした?」

 千砂は本題を告げることにした。話をしている間に寝られてしまっては困る。

「美里家にいってきたんだけれど、伊之介は自身番を一枚岩にできないかと考えている。それから黒幕は別にいる。久五郎という男。伊之介が表立っていることをいいことに、好き勝手やっているらしい。それから六日後に、依頼人の主の家を襲うと酔った勢いで決めていた」

「酒は呑んでも呑まれるなとは、よく言ったものだな。決行日と同じか。そんな奴らさっさと自身番に突き出してやろう」

 霊斬は話しているうちにいつもの調子を取り戻したらしく、鼻で嗤った。

「で、どうするんだい?」

 千砂が先を促す。

「そうさな……。千砂はこの報せを自身番に流せ。武家同士のいさかいだ、動かぬわけにはいかんだろうさ」

「分かった。あんたはどうするんだい?」

「俺か? その間に、久五郎を叩く。灸をすえてやるのさ」

 霊斬はそう言って、口端を吊り上げて嗤った。

 ――怖い笑みだ。

「分かった」

 千砂は内心で心底そう思いながら、うなずいた。

 その場でくるりと背を向けると、肩越しに霊斬を見る。

「それと、呑みすぎ注意!」

「もう寝る」

 その言葉に思わず苦笑した霊斬は、言葉を返した。

 千砂はその言葉を聞くと内心で安堵し、店を去った。



 それから数日後の決行日前日。まだ日も高い午後に、岡っ引きが店を訪れた。

「それでどうなったんだ?」

「そう急かさずとも、話しますよ。美里伊之介ですが、あなたが思っているようなお方ではなかったようです」

 霊斬がたしなめながら、話を続けた。

「伊之介はあくまで看板。その実態を握っているのは久五郎という男。どうやら酔った勢いで、気に入らない武家を襲うことを決めたそうな」

 岡っ引きは青い顔をする。

「ってことは、旦那の屋敷が戦場いくさばになるっていうのかい!?」

「そうですね。それに乗じて、久五郎を痛めつけますので、ご心配なく」

 動揺する岡っ引きとは反対に、霊斬は冷静さを欠くこともなく、静かな声で続ける。

「それと、これをお渡ししておきます」

 霊斬は言いながら、預かっていた脇差を差し出す。

「あなたが旦那と呼んでいるお方の名を、教えていただけますか?」

古野ふるの太郎たろう様だ」

「では、決行後にまたお会いしましょう」

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?