「あたし、ぼーけんしゃに なるのーっ!」
幼い少女の心に、大きな影響を与えた一冊の本、『アドニス物語』。
冒険者だった父や母のように、自分も冒険の旅に出掛けたい。
そして、いつの日か白銀の勇者のような、人々に希望と平和をもたらす存在になりたい!
その熱い想いは、小さな胸にしっかりと刻み込まれた。
――それから十年の歳月が流れた。
少女の名は、シェイル・セルフィス。
父親譲りの燃えるような赤い髪を持つ彼女は、精霊使いである母親の血を強く受け継ぎ、簡単ながら精霊との交信をすることができるようになっていた。
勇者に憧れた少女の物語が、今ここに幕を開ける。
* * *
アステイル大陸から、北に数百キロ先に浮かぶ絶海の孤島、リノイ。
その小さな島の中にある小さな村、ライナ。
その村の通りを、一人の少女が足取り軽く歩いていた。
肩甲骨まで伸ばされた茶髪は、眩しい太陽に照らされて、つややかに輝く。
橙色のワンピースに身を包み、その手には青いリボンで飾られた赤い小箱を持っていた。
「今日も、いいお天気ねー」
誰に言うともなく、つぶやいた彼女は、その足を二階建ての民家の前で止めた。
片手で少し髪を整えてから、その扉を軽く叩く。
「はーい」
中から響く声。
ややあって扉が開き、亜麻色の服に身を包んだ、綺麗な女性が姿を現した。
「あら、村長さんとこのナーイちゃん」
「こんにちは、マチルダおばさま」
ナーイと呼ばれた少女は、微笑みながらお辞儀をする。
「ナーイちゃんは、いつも礼儀正しいわねぇ。それに比べてうちの子は……」
マチルダは短くため息をつき、家の中に目を移す。
その視線の先には、二階への階段がある。
「もしかして……まだ寝てるんですか?」
「そうなのよ~。お日様も、とっくに昇っているというのに……」
あごに手を当て、困ったように小首を傾げるマチルダに、ナーイは苦笑いを浮かべた。
「大丈夫です、おばさま。私が起こしてきますね」
* * *
「きゃあああああっ!!」
小さな部屋の中に響き渡る悲鳴。
「ナーイ、そんな……!!」
「シェイル……」
「やめて、ナーイ!!」
「ちょっと……」
「ナーイ! 生肉くわえて、どこ行くのー!?」
「ちょっと待て――っ!!」
今度は、ナーイの怒声が響き渡った。
「ん……夢……?」
その声に、ベッドからゆっくりと起き上がる少女。
そして、ん~~っと、背伸びを一つ。
「ふわぁぁぁ……。あ、おはよ、ナーイ」
「『おはよ』じゃないわよ、シェイル!」
シェイルは、むにゅむにゅと目をこすった。
「凄い夢見ちゃった」
「何だか、私が出てたみたいだけど……」
「うん! 六本腕のナーイが、生肉くわえて、コウモリみたいな翼で飛んでいっちゃうの!」
「か……勝手に、人をバケモノにしないで――っ!!」
「えへへ、ごめんねー」
必死に訴えるナーイだったが、シェイルは全く気にしてないようだ。
元気にベッドから飛び降りると、腰よりも長い赤色の髪がふわりと舞った。
「ねえ、ナーイ! 着替えるから向こう向いててっ」
寝衣姿のシェイルは言う。
「……え? いつも、そんなの気にしないじゃない」
「いいから! あたしがいいって言うまで、こっち見ちゃダメだからねっ」
首を捻りながらも素直に言う事を聞くと、すぐさま寝衣を脱ぎ捨てる音が聞こえてきた。
(ちょっと前までは何も気にしなかったのに……)
数日前は、本人は遠慮深いと言い張る、成長を少し放棄している胸をさらけ出しながら着替えをしていたものだ。
(やっと恥じらいを覚えたのかしら?)
親友の成長は素直に嬉しいが、少しだけ寂しさも覚えるナーイであった。
「ふぅ……」
気を取り直し、ナーイは目を前に向ける。
その瞳に、壁いっぱいに広がる本棚と、ところ狭しと並ぶ沢山の本が映り込んだ。
その量の膨大たること。
思わず、しばしの間、それに見とれてしまう。
「いつ見ても凄い本の量……」
「大陸からの商業船が来る度に買ってたら、こんな量になっちゃった」
そう言って、笑うシェイル。
「これ、全部ちゃんと読んだの?」
「うんっ!」
「凄い……」
ナーイの口から、感嘆のため息が漏れた。
「どの本も面白かったけど……。でも、やっぱり、あたしの一番のお気に入りは……」
「冒険物の王道中の王道、『アドニス物語』でしょ」
わかってる、という風に口を挟むナーイ。
「うんっ! あの本を読んで、あたしも冒険者になりたいって思ったんだっ!」
「アドニスは、十五歳で冒険者になったんだっけ?」
「そう! それで、その功績が認められて、姫の騎士に大抜擢!」
アドニスを話すシェイルは本当に嬉しそうで、思わずナーイの顔にも笑みが浮かんだ。
「十五歳かぁ……。今日からシェイルも十五歳だもんね」
「覚えててくれたの?」
「もちろん! シェイル、お誕生日おめでとう! これで私たち二人とも十五歳ね!」
「ありがとう、ナーイ……」
シェイルは背を向けたままの親友を見つめた。
その顔に、イタズラな笑みが浮かぶ。
「でもね……お尻向けたまま、お祝いの言葉って、どーなの?」
その言葉に、ナーイの顔が赤く染まる。
「な、なによ! シェイルが向こう見ててって言ったんじゃない!」
「あはは、ごめんごめん。冗談だって」
耳の後ろまで真っ赤に染めて反論するナーイに、シェイルは笑いながら謝った。
「まったくもう……」
いつもこうなんだから……と、言わんばかりのため息が漏れる。
「……ところで、シェイル。私は、いつまでこうしてればいいの?」
「あ、ごめんね、もうちょい……。よっ……と」
声に合わせ、革がこすれるような音が聞こえた。
(服を着替えるだけなのに、どれだけ時間かかってるんだろ……)
「……お待たせ~。こっち向いていいよ」
ややあって、明るい声が響く。
「もう、遅い……」
振り返ったナーイは、思わず息を呑んだ。
ポーズを決めるシェイルが着ているのは、足首丈の長い薄桃色のチュニック。
それは、動きやすくするために、スカート部分に太ももまである長い
そのチュニックの上から身に着けた、刺繍が施された藍色の
大きめな肩当てからは、鎧と同じ藍色の長いマントが伸びている。
腰には、これまた鎧と同じ色の帯を巻き、ブーツは上部を外に折り曲げて、くしゅくしゅとしたショートブーツにしていた。
「へへ~。これ、昔、お母さんが冒険で使っていたやつ。誕生日のプレゼントでもらっちゃった!」
シェイルは得意げに、その場でクルッと回ってみせる。
「とても素敵ね! まるで、本当に冒険者になったみたい!」
「うん、ありがとう。でもね……」
少し困ったような笑みを浮かべ、炎のような赤い髪をつまんだ。
「冒険するときに、この髪がちょっと邪魔になりそうかな~って……」
手を離すと、長くしなやかな髪は指から逃れるようにサラサラと落ちてゆく。
「せっかくここまで伸ばしたんだし……切りたくないんだけどね」
そう言って、ため息をつくシェイルにナーイは微笑んだ。
「そうだと思って……。はい、私からの誕生日プレゼント!」
ナーイは、青いリボンで飾られた赤い小箱を差し出す。
「わぁ、ありがとう!」
その笑顔とプレゼントにつられ、シェイルの顔にも笑みが戻る。
「ねぇっ、開けてみていい?」
「もちろん!」
シェイルは、胸を躍らせながらリボンをほどき、箱のフタに手を掛けた。
ゆっくりとフタが開いてゆく。
「わぁ……」
今度は、シェイルが感嘆のため息を漏らす番だった。
そこには純白のベルベット生地で作られた、くしゅくしゅとした形の柔らかい輪があった。
「綺麗……!」
「ふふふ、この輪は伸び縮みするのよ」
そう言って輪を引っ張ってみせる。大きく伸びた輪は、手を離すとまた元の大きさに戻った。
「すごい、すごい! どうしたのこれ?」
「私が作ったのよ。半年前に買った、ユニコーンの尻尾を使ってね」
* * *
――半年前、リノイ島に大陸からの商業船がやってきた。
所狭しと商人たちは自慢の商品を並べ、島民たちは物珍しげに取り囲む。
その集団の中に、例外なくシェイルとナーイの姿もあった。
「ねえ、ナーイ! これ見て!」
シェイルが、ふと足を止める。
「わぁ、なにこれ?」
それは、白い毛を幾重にも編み込んだ、幅広の組み紐ひもであった。
「ねえっ、これ、伸びるよっ!」
「うふふ、面白~い」
組み紐は、手で引っ張ると伸び、離すと勢い良く元の長さに戻る。
その弾力が面白く、二人は組み紐を引っ張って遊んでいた。
「おい、お嬢ちゃんたち!」
そのとき、不意に背後から掛けられる声。
「「ふぁ、ふぁいっ!!」」
驚きのあまり、二人の口から思わず間抜けな声が漏れた。
恐る恐る振り返ると、そこには草色の服に身を包んだ、二十代くらいの青年が立っていた。
「あ~、ごめんごめん。驚かすつもりはなかったんだけど」
「あの……あなたは……?」
「俺? 俺は、ここの露店商だ。いや、二人とも、なかなか目が高いなと思ってね」
「えっ……目が高い?」
「やっぱりこの組み紐、珍しいモノなの?」
「お嬢ちゃんたちは、ユニコーンって生き物を知ってるかい?」
ユニコーン、それは一角獣とも呼ばれる幻獣だ。
雪白色の馬の姿をしており、その額からは真珠色をした螺旋状の一本角が生えている。
その角には強力な癒しの力があり、そのため聖獣とも呼ばれていた。
角に込められた癒しの力は、ユニコーンから切り離されても効果を持ち、魔法の心得がない者でも使用することが可能だった。
ゆえに角は高額で取り引きされ、心無い狩人に命を狙われることもあった。
「遥か昔は、このリノイ島にもいたと言われているわ」
人差し指を立てて、ナーイが説明する。
「お、おう……正解だ」
面食らったような行商の青年に、ナーイは胸を張る。
「家にあった『精神力がゼロでも魔法が使えていいのだろうか』っていう古い文献に、ユニコーンのことが載ってたのよ」
そう言って、微笑むナーイ。
「――それで、この伸びる紐とユニコーンと、何の関係があるの?」
シェイルの言葉に、青年の瞳がキラリと光った。
「ああ。これは“ゴムウの組み紐”という名前で、稀代の魔法使いノービル・ゴムウがユニコーンの尻尾を編んで作ったと言われているんだ」
「「えっ!?」」
「じゃ、じゃあ、この紐には癒しの力があるの?」
「あー……いや……。残念ながら、それは……ない」
嬉しそうなシェイルに、青年は申し訳なさそうに言う。
「――でもな、どんなに伸ばしても、また元の長さに戻る再生の力を持っているんだ」
「おおおおおっ、すごいっ!」
「ちょ、ちょっと……シェイル、ちょっと」
無邪気にはしゃぐシェイルの袖を引き、ナーイは青年から距離を取る。
「あなた、まさか今の話を信じたんじゃないでしょうね!」
ナーイは小声ながらも、鋭い声を出した。
「えっ? だって、稀代の魔法使いがユニコーンの再生の力をって……」
「嘘に決まってるでしょ! ゴムウなんて魔法使いも、尻尾にそんな力があるなんて話も聞いたことないわ!」
「そ、そうなの? ……でも、嘘つくような人には見えないけど」
シェイルは、チラリと行商の青年を見る。
その視線に気付いた青年は、笑顔で手を振ってくれた。
思わず、引きつった笑みを返す二人。
そして、すかさず青年に背を向ける。
「ほら、あの怪しい笑顔!」
「え~?」
「もうっ、騙されないでよ! とにかく、私が断るから!」
そう告げると、ナーイは鼻息荒く青年の元に戻ってゆく。
シェイルも、その後に続いた。
「お嬢ちゃんたち、話は終わったかい?」
二人の会話の内容を知らない青年は、相変わらずの満面の笑みだ。
「この、ユニコーンの尻尾とやらですけど……」
ナーイは、青年を睨みながら口を開く。
「ああ、いい品だろ?」
「や……そ、そうじゃなくて……!」
「あ~、値段かい? 値段は2000ゴールドだよ」
「た、高っ!」
思わず、驚きの声が出る。
2000ゴールドと言えば、荷馬が一頭買えてしまうほどの金額だ。
「わ、私たちのお財布の中身を、理解してないでしょ!」
「あ~、そっか~」
青年は、ポリポリと頭をかく。
「ん――じゃあ、1000……。いや、500ゴールドでいいよ!」
「一気に下がった……」
「ますます、怪しいわね……」
じとーっとした目で見るナーイ。
その険しい顔に、青年の笑顔が引きつった。
「そ……そんな顔すんなって! 可愛い顔が台無しだぞ」
「そんな言葉に騙されるもんかー!」
シェイルが、ずいっと前に出る。
「い、いや、そんなつもりじゃ……」
「じゃあ、どういうつもりよー! ねぇ、ナーイ!」
振り返るシェイル。
ナーイの口がゆっくりと開く。
「か……」
「か?」
「か……可愛いって……ホントに……?」
「そうそう……って、うえええ!?」
頬を赤らめているナーイに、シェイルはアゴが外れそうなほど驚いた。
「あ、ああ。お嬢ちゃんたちくらい可愛い子は、大陸広しといえども、そうはいないよ」
「え~、そんな~」
「ちょ……ちょっと、ちょっと、ナーイ」
頬に手を当て体をくねらすナーイの袖を、今度はシェイルが引っ張る。
「ちょっとー、どういうつもりよ?」
「あら、シェイル。あの人、案外いい人ね」
「うええええ!?」
「お兄さーん、もう少し詳しく説明してー♪」
ナーイの明るい声が響き渡った。
――それから程なくして。
上機嫌で通りを歩くナーイの手には、先ほどのユニコーンの尻尾とやらが、しっかりと握られていた……。
* * *
「――なんてことが、あったね~」
「よ、余計なことまで思い出さないで!」
ニヤニヤするシェイルに、ナーイの顔が真っ赤に染まる。
「あ、あれは、あの人だって生活があるわけだし……買ってあげないと可哀想じゃないの!」
「そのわりには、あそこから更に値切ってたけど~?」
「う、うるさいなぁ……。とにかく、あのときの組み紐を使ったのよ!」
「そうなんだー!」
「作り方は簡単なのよ」
ナーイは、ユニコーンの尻尾が入った布を手に取る。
「ベルベットの布を中表の輪の形に縫って、その後に筒状に縫って……。それで、表生地を外に引っ張り出す。その中にユニコーンの尻尾を通して……生地をくしゅくしゅと縮ませて結べば――出来上がり!」
「すごいすごい!」
「シェイルは髪が長いから、これでまとめたらいいかなと思って」
「うん、ありがと! さっそく使ってみるねっ!」
そう言って、自慢の長い髪を束ねて手に取った。
「あまり上の方じゃなくて、この辺に……と」
シェイルは、ちょうど腰の高さでその髪飾りを巻き付け、髪をとめる。
「ずいぶん、下につけたわね……」
赤くつややかな髪は途中まで真っ直ぐに伸び、腰に向かうにつれ一つにまとまってゆく。
そして、腰の高さにあるその髪飾りで束ねられ、その下は狐の尾のような形で下に垂れていた。
「えへへー、似合うかな?」
嬉しそうに頭を左右に向ける。
そのたびに、尻尾のような赤い髪が、左右に勢い良く動いた。
「うん、似合ってる!」
「ありがとう、ナーイ! ……あ、この髪飾りって名前あるの?」
しかし、ナーイは笑いながら首を横に振った。
「名前なんて考えてなかったわ」
「そうなんだ、じゃあ――」
少しだけ考える素振りを見せたシェイルは、不意に人差し指を立てて突き出した。
「『シュシュ』って名前はどうかな?」
「シュシュ……?」
「うんっ! 前に本で見たんだけど、古代の言葉で『お気に入り』って意味なんだよっ!」
「シュシュ……うん、悪くない!」
「じゃあ、決まりっ!」
二人は、手を叩き合った。
「それじゃ、あたし、村のみんなに、この格好見せてくるねっ!」
「えっ……ちょ、ちょっと待って! 今日が何の日か忘れたわけじゃ……」
慌てて止めようとするナーイだったが、すでにシェイルは部屋から飛び出していた。
「もうっ! ちょっと待ってってばー!」
ナーイも、その後を追って部屋から飛び出してゆく。
不意に静けさが訪れた小さな部屋。
窓から入り込む優しい風が、ベッドの上に置かれた青いリボンをそっと揺らしていた。