ダークパレスから最も近い街、エルティオール。
かつて、ホワイトパレスの城下町として栄えていた場所だ。
その街の中心にある広場に大勢の人が集まり、一様に空を見上げている。
「お、おい、あの光は……」
一人が怯えた声を出す。
空一面に広がる金と黒の光。
激しく輝く様は、天をも焦がすかのようだ。
「あれは……城の方だぞ!」
人々が見つめる中、光は激しさを増してゆく。
まるで、この世界を全て飲み込むかのように。
「ひいっ! この世の終わりだ!」
不意に、誰かが悲鳴をあげた。
「私たち、もう終わりなんだわーっ!」
その悲鳴に押されるように、泣き崩れる街娘。
嘆きの輪は、波紋となって次々と人々の心を押し潰してゆく。
「いや――――っ!! 私は、ここで死ぬのね!!」
「お、俺は、まだ死にたくない!!」
人々の嘆きは恐怖を呼び、そしてそれは混乱を招いた。
光が輝きを増す度に、その恐怖と混乱も激しくなる。
警備隊も出動していたが、もはやこれを抑えることはできなかった。
そのとき――。
「大丈夫だよっ!」
突如として響く幼い声に、人々は一斉に振り返る。
「お、お前は……ラームの村のヨンカス!」
「お姉ちゃんもいるよ!」
ヨンカスと呼ばれた少年は後ろを見た。
そこには、穏やかに微笑む少女がいた。
「いや、しかしヨンカス、あの空の光は尋常じゃ……」
「でも、大丈夫だよっ!」
ためらいがちに口を開いた男に、言葉を重ねるヨンカス。
「白銀の勇者様は強いんだ! 僕の村をゴブリンたちから守ってくれたし、お姉ちゃんのケガだって治してくれた! 白銀の勇者様は、絶対に負けないんだ!」
人々を真っ直ぐ見つめて叫ぶその声と瞳はとても力強く、揺るぎない自信に満ち溢れていた。
「皆さん、白銀の勇者様を信じましょう」
姉はその場にひざまずくと、顔の前で手を組み、そっと瞳を閉じた。
「私たちにできること……それは、勇者様を信じて祈ることです」
曇り一つないその姿に、いつしか人々の混乱は収まっていた。
「わ……私も祈るわ!」
一人の街娘が、姉の隣りにひざまずいた。
その瞳には、もはや恐怖は見られない。
一人、また一人と、祈りを捧げるために、ひざまずいてゆく。
そして、それはいつしか街全体に広がっていった。
人々の祈りは、天の光へと向けられる――。
* * *
「――アアアアアアアアッッッ!!!!!」
天に輝く金色の光の中に、アドニスの叫びが響き渡った。
目、鼻、口、耳から光が吹き出してゆく。
そして光の線は、その体からも吹き出し始めた。
魂と肉体の崩壊。
それはさながら、一つの星が終焉の時を迎えようとしているようだった。
(ここまでか……)
光が広がり何も見えなくなる――。
――気が付くと、アドニスは真っ白な空間にいた。
どこまでも何もない、上も下も真っ白な世界。
その白さが眩しくて、思わず瞳を細めた。
「ここは……死後の世界なのか……!?」
死後は神のもとへ導かれると信じていたアドニスには、意外な光景だった。
「そうか……。〈
自嘲気味に笑うアドニス。
「――いいえ。ここは、死後の世界ではありません」
そのとき、不意に響いた声にアドニスは驚き振り返る。
その目に映るもの、それは鮮やかな翠色の長い髪。
きらびやかなドレスから伸びる、しなやかな手足。
全てを包み込むかのように微笑む、紺碧の瞳。
間違いない。
間違えるわけがない。
「エメラルダ姫!」
「お久しぶりね、アドニス」
「姫、なぜここに?」
「あなたのおかげです。あなたが魔竜王の角を斬り落としてくれたから、私はジャグナスの魔力から解放されました」
アドニスを真っ直ぐに見つめる姫の姿は、かつての輝きを取り戻していた。
しかし、アドニスの顔は曇る。
「姫っ!」
アドニスは、勢い良くひざまずき、頭を下げた。
「私は、姫を……世界を救うことができませんでした! 私の肉体と魂は崩壊し、後は消滅を待つばかり……」
悔しさをにじませ、拳を強く握り締める。
爪が、皮膚に深く食い込んだ。
「私は……無力です……」
そんなアドニスに、姫は静かに首を横に振った。
「あなたがいたから、人々はこの闇の時代に希望を失わずにいられたのです」
姫は腰を落とし、アドニスの手を握った。
「さぁ、顔を上げて。……それに、あなたの魂と肉体は、まだ砕けていません」
「えっ!?」
「信じられないという顔をしていますわね」
姫は、そっとアドニスの頬に手を当てた。
その温もり、そして鼓動が伝わってくる。
「姫……」
「アドニス……」
姫の顔が近づく。
静かに触れる額と額。
アドニスは瞳を閉じた。
そして――。
ぐにっ!
「いててててっ!?」
思わず悲鳴を上げるアドニス。
姫は、その頬をつねり上げていた。
「ふふっ、痛いでしょう? それは、あなたがまだ生きているという証拠です」
姫は、手を離して微笑んだ。
「ここは、あなたの心の中。私は、あなたの心に直接話し掛けているのです」
「俺の……心の中……」
「今から私の全魔力を使って、あなたの肉体と魂の崩壊を抑えます」
「し、しかし、姫の力を持ってしても、神の力に抗うことは……」
「確かに、私の力だけでは不可能でしょう……。ですが――」
白の空間に映像が浮かび上がる。
それは、ひざまずき祈りを捧げる街の人々の姿だった。
その中心には、一年前にゴブリンの魔の手から救った姉弟がいた。
「この街だけではありませんよ」
姫のその言葉に応えるように、空間に各地の様子が次々と映し出される。
市民、貴族、王族、そしてエルフをはじめとした数多の妖精たち。
そこに映る人々は、皆、天の光に向かって一心に祈りを捧げていた。
「今、世界は一つです。アドニス、あなたならできますね?」
「……はい!」
姫を見つめる瞳には、もはや迷いは見えない。
「姫に気合いも入れてもらいましたし」
そう言って、頬をさするアドニスを前に、エメラルダ姫の頬が赤く染まる。
「姫は、しばらくお会いしないうちに、ずいぶんたくましくなられましたね」
「い、色々ありましたから……」
顔を伏せる姫。
その顔は、耳まで真っ赤である。
「でも……おかげで、力を頂きました」
「アドニス……」
姫は顔を上げると、姿勢を正し、紺碧の瞳でアドニスを真っ直ぐに見つめた。
「今から、あなたの肉体と魂をつなぎ止めます。アステイルの未来は、あなたに託しましたよ」
「はっ! 必ずや、ご期待に応えてみせます!」
アドニスは右手を胸に当てると、頭を下げた。
姫は手を伸ばし、そんなアドニスの頬にそっと触れる。
「死なないで……アドニス」
二人は瞳を閉じ――。
そして唇を重ね合わせた。
温かな光が包み込んでゆく――。
雲も、風も、金色の光も消え去った空は、驚くほど静かだった。
だが、それは嵐の前の静けさだということを、誰もが理解していた。
魔竜王から出た闇の光は、再び魔竜王に吸い込まれてゆく。
角があった額にスッと縦線が入ると、そこに紅く染まる第三の眼が現れた。
魔竜王に飲み込まれた黒い光は、闇の衣となってその身を包み込む。
「『グフフフフ……。コノ時ヲ待チワビタ……』」
その体から立ち上る邪悪な瘴気は、先ほどの比ではない。
首を巡らせる魔竜王の眼が、不意に輝きを増した。
次の瞬間、口から激しい炎が吐き出され、高くそびえる山脈を直撃する。
山脈は吹き飛び、麓の森は燃え上がり、瞬時にして辺りは景色を変えた。
「『ハ――――ッハッハッハ――――ッ!!! チカラガ、ミナギッテ来ルゾ!!!!!』」
「――完全に魔竜王に飲み込まれたか」
不意に聞こえた声に、魔竜王はゆっくりと振り返る。
そこには、アドニスの姿があった。
「『……マダ生キテイタトハナ』」
「あいにく、しぶとさには定評があるのでな!」
「『ソレハ ソレハ……』」
次の瞬間、魔竜王の鉤爪が振るわれた。
「『ハッハッハッハッハ――――!!!』」
しかし、その笑い声は瞬時に凍りつくこととなる。
金色に輝くアドニスは、魔竜王の強大な爪を、片腕で受け止めていたからだ。
「『バ……馬鹿ナッ!!』」
叫ぶ魔竜王は、弾けるように上空へ飛び上がると、巨体をひるがえして下を睨む。
「『ナラバ、山ヲ吹キ飛バシタ炎ヨリ数十倍上……我ノ全テヲ込メタ炎デ葬ッテヤル!』」
アドニスは、静かに息を吸い込んだ。
体から金色の光が立ち上る。
「『コレデ終ワリダ――――――ッッッ!!!!!』」
魔竜王の果てしない邪悪な炎が、アドニスを目掛けて放たれた。
しかし、アドニスは微動だにしない。
「ジャグナス……力に溺れ、愛の意味を見失った哀れな男……」
頭上に、闇の炎が迫る。
「紅三眼の魔竜王……。全てを破壊する闇の竜……」
アドニスは上空の魔竜王を睨んだ。
その体から立ち上る金色の光は燃え盛る炎の形を成す。
「邪悪なるその魂よ」
アドニスは、スッと天の魔竜王に手を向けた。
「闇の住人は、闇の中に帰れっ!!」
その瞬間、伸ばした手から眩い炎が放たれる。
光の炎は、魔竜王の闇の炎を飲み込んでなおも突き進む。
「『バ、馬鹿ナッ!? コレハ神殺シノ炎!!』」
「消え去れ魔竜王――――――っっっ!!!!!!!」
「『ニ、人間ゴトキガ、コノ我ヲ――――!!!! ギャアアアアアアアアアアアアア―――――――ッッッッッ!!!!!!!!!』」
魔竜王の断末魔の叫び。
光の奔流は、魔竜王を跡形もなく消し飛ばした。
光の中、いくつもの淡い輝きが天へと昇ってゆく。
喰われた魂たちが解放されたのだ。
その中には、ディアドラの魂もあった。
「やった……やったぞ……」
アドニスは静かに瞳を閉じた。
世界に光が広がってゆく――。
* * *
「――こうして、わるい じゃぐなすを こらしめた あどにすは、えめらるだひめと しあわせに くらしましたとさ。めでたし めでたし」
小さな部屋の中に一人の少女がいた。
燃えるような赤い髪の少女は、パタンと本を閉じる。
そして、小さな体を振って椅子から飛び降りた。
床に足が届かないため、こうしないと降りられないのだ。
開け放たれたままの窓から入る風が、少女の頬を優しくなで、赤い髪をそっと揺らしてゆく。
少女は、ふらふらとした足取りでその窓の方へと歩を進めると、窓枠に手を掛けて勢いよく身を乗り出した。
「あたしも……!」
響き渡る、興奮に満ちた幼い声。
「あたしも、ぼーけんしゃに、なるっ!」
大きな瞳を、キラキラと輝かせて少女は言う。
「そして、あどにすみたいに、なってやるのっ!!」
少女の純粋な想い。
それは、青く澄んだ空の彼方へと吸い込まれていった。
――少女が出逢った『アドニス物語』。
この本が、彼女の運命を決めることになろうとは、まだ誰も想像すらできなかった……。