「ディア……ドラ……!?」
短剣は――。
ディアドラの腹部に深々と突き刺さっていた。
「アドニス……その甘さが……あなたの優しさ……あなたの強さなのかもね……」
腹の中から熱いものが込み上げ、彼女は吐血する。
「何故こんなことをっ!!」
アドニスは叫ぶ。
しかし彼女はそれには答えない。
かわりに、その目をある場所へと向けた。
彼女の瞳に映る重厚な扉。
それは、玉座へと続く扉だ。
玉座周りは他よりも強い防御障壁の魔法が掛かっているため、その姿はいまだ健在である。
半ば廃墟と化した城の中で傷一つない玉座は、ひときわ異彩を放つものだった。
「ジャグナス……見ていたでしょう!」
ディアドラは扉に、そしてその向こうの玉座にいるはずのジャグナスに叫ぶ。
「私は約束を守った……。今度は、あなたが守る番よ!」
「約束!?」
『クックックック……』
その瞬間、二人の耳に笑い声が響く。
地の底から響くような禍々しい声に、アドニスは聞き覚えがあった。
『久しいなアドニス……。あのときの若僧が、よくぞここまで力を付けた』
アドニスはギリッと奥歯を噛み締める。
「ジャグナス、約束とは何だ! ディアドラに何をした!!」
『その娘と契約をしたのだよ……。我に、お前か……その娘の命を捧げるというな』
「何だとっ!?」
『そのかわり、この世界に人が住める場所を残してくれと。……泣かせる話ではないか』
「ディアドラ、何てことを!!」
アドニスは、ディアドラを真っ正面から見据えた。
「ごめんなさい……。でも、人間が生き残る方法は、これしかなかったから……」
「だからって!」
「それに……」
ディアドラも、アドニスを見つめる。
「私、誰にもあなたを渡したくなかった……。ジャグナスにも……姫にも」
その瞳に、涙が浮かんだ。
「それであるとき、ジャグナスの声が聞こえてきて……。誰かにあなたを奪われるくらいなら、あなたを殺して私も死のう。そう思ったんだ……」
涙はこぼれ落ち、彼女の頬を濡らしてゆく。
「……だけど、やっぱり私には、あなたを殺すことなんてできなかった」
「だから、自分で自分を刺したのか!!」
「ごめんなさい。でも、これで人の居場所は守られたから……」
ディアドラは、そう言って力無く微笑んだ。
「バカやろう! そんな約束、ヤツが守るとでも……」
『約束は守ろう』
アドニスの言葉を遮って、ジャグナスの声が響く。
『我としても、人の住む世界を消してしまうのは本意ではない。人間には生きてもらわねば困るのだ。……我が糧としてな!』
「そ、そんな!」
「わかっただろ。これがジャグナスなんだ」
「アドニス、私……」
「大丈夫、心配するな。とにかく今はその傷を癒そう」
アドニスは、突き刺さったままの短剣の柄に手を掛けた。
「……剣を抜くぞ」
そして、それを一気に引き抜く。
「あうっ!」
押さえがなくなった傷口から大量の血液が吹き出し、辺りを赤く染めた。
「『神よ……癒しを!』」
アドニスは短剣を投げ捨て至高神に癒しの奇跡を願う。
その力により傷は瞬く間に塞がって――。
「何っ!?」
そして、再び広がった。
「くっ、もう一度!」
アドニスは、先ほどよりも精神を集中して祈りを捧げる。
だが、傷口は一旦は塞がるものの、またすぐに広がってしまう。
「くそっ、何故だっ!」
辺りに、ジャグナスの押し殺した笑い声が響く。
アドニスはハッとして、投げ捨てた短剣を見た。
「この短剣は、まさか……」
苛立ちを隠せないアドニスに、魔竜王は冷やかに笑う。
「くっ……! この短剣でつけた傷は呪いとなり、決して癒えることはない」
『ククク……正解だ!』
「くそっ!!」
爪が手のひらに食い込み血がにじむほど、アドニスは拳を握り締めた。
魔竜王の呪い。
それは、おそらく魔竜王本人にしか解くことはできないだろう。
怒りに震えるアドニスを楽しむように、ジャグナスは言葉を続ける。
『更に、こういう趣向も仕掛けてある』
パチン、と魔竜王が指を鳴らすと、それに呼応し、短剣が音もなく浮かび上がった。
ブゥン――。
という音と共に、鍔にはめられた血の色のような宝玉に紋様が現れる。
『――喰らい尽くせ、魂喰い!』
その瞬間、宝玉が輝き、放たれた黒い光がディアドラを包み込んだ。
「きゃああああああっっっ!!!」
ディアドラの悲鳴が響き渡る。
「ディ、ディアドラ!?」
「うあああああああああ――っっっ!!!!」
黒い光はその体に絡みついてゆく。
赤黒かった宝玉は鮮やかに紅く輝き、やがて心臓のように脈打ちだした。
全身を襲う激しい痛みと、魂が抜けてゆくような虚脱感に襲われ、彼女は悲鳴をあげ続ける。
『この娘……このまま失うにはあまりにも惜しい……』
ジャグナスの静かな声が響く。
『ならば、その力を我がものとし、その魂は我の中で永遠を刻ませよう!』
「キサマ……ディアドラを取り込むつもりか!!」
『我が力となれることを誇りに思うがいい!』
「あああああああああああああ――――っっっ!!!!!」
ディアドラの体が次第に薄く透けてゆく。
それに伴いアドニスの腕に感じる重みも軽くなる。
これは、彼女がこの世から消滅しようとしていることを意味していた。
「くそ――っ!!」
アドニスは叫び、その体を強く抱きしめた。
もう誰も傷付けたくない。
誰も失いたくない。
その想いから、アドニスは一人で戦うという道を選んだ。
しかし、それが逆にディアドラを傷付けることとなった。
そして今、目の前で命が失われようとしている。
「くそっ、くそっ、くそーっ!!」
アドニスは怒りのままに叫んだ。
卑劣なジャグナスに。
そして、無力な自分自身に向かって。
「アドニス……」
そのとき、腕の中のディアドラが不意に口を開いた。
「……ごめんね」
「違う! ディアドラは悪くない! お前は利用されただけなんだ!」
「ううん……私の心が弱かったから……ジャグナスに付け込まれたんだ……」
ディアドラは瞳を閉じる。
「最後まで……迷惑掛けて……ごめんね……」
再びその目が開かれたとき、そこにはいっぱいの涙が浮かんでいた。
「最後なんて言うな! 俺がすぐに魔竜王を倒してやる! それまで頑張るんだ!」
だが、その間にも彼女の体はどんどん透けてゆく。
「ありがとう……」
微笑んだディアドラの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「私……アドニスの手伝いがしたかった……。光ある世界を守りたかった……。良くやったな! って……アドニスに誉めてもらいたかったんだ……」
ディアドラは手を伸ばし、アドニスの頬にそっと触れた。
「ふふ……アドニスは温かいな……」
触れた頬は温かくて――。
優しくて――。
もし、生まれ変わることができたとしても、その温もりを決して忘れないよう――。
ディアドラは、心に深く刻み込んだ。
「ねぇ……アドニス……。私……生まれ……変われたら……今度……は、アドニスと……ね……」
しかし……。
その言葉を、最後まで聞くことは叶わなかった。
「ディアドラ――――――ッッッッ!!!!!」
空になったアドニスの腕の中。
つい先ほどまで、確かにこの腕に重みと温もりを感じていた。
だが、それはもう何も感じられない。
彼女の声も、
姿も、
微笑みも、
もはや見ることはできない。
ディアドラは、ジャグナスに喰われたのだ。
「うわあああああああああああああっっっ!!!!!!!」
アドニスは吠えた。
心のままに吠え続けた。
宙で静かに輝く紅い宝玉は、空腹を満し満足しているかのようにも見える。
『ククク……戻れ魂喰い』
その言葉に呼応し、短剣は姿を消す。
『クックック、アドニスよ……。なかなか良い
「許さん……許さんぞ、ジャグナス!!」
アドニスは、怒りに任せ立ち上がった。
『アドニスよ……一つ良いことを教えてやろう』
地の底から湧き上がるような声が響く。
『あの娘、生まれ変われたらと言っていたな……』
「それがどうした!」
『だが、それは叶わぬ! 娘の魂は、我の中で永遠にさまよい続けるのだ!』
ジャグナスの笑い声が響き渡る。
「ならば、キサマを倒して魂を解放するまでだっ!!」
アドニスは叫び走り出す。
魔竜王の待つ玉座に向かって。
その背中では、砕けた精霊石が風に吹かれキラキラと輝いていた。
それはさながら、ディアドラに向けられた精霊たちの