「今こそ、全てを取り戻すんだ!」
アドニスはダークパレスの庭園を走る。
この先にある扉を抜ければ玉座の間、魔竜王との決着のときだ。
長かった旅も、これで終わる……。
しかし彼は、扉を前にしてその足を止めた。
目の前に、黒いドレスを身にまとった一人の女性が現れたからだ。
夜の闇で染め上げたような漆黒のドレスは胸元が大きく開いており、そこには宝石の入ったネックレスがきらめいている。
戸惑いを隠せないアドニスに、女性は優しい笑みを送った。
「久しぶりね、アドニス」
透き通った声、鮮やかな金色の長い髪。
そして、この微笑みは忘れもしない。
「ディアドラ、何故ここに!?」
しかし、彼女はその問いには答えない。
「あなたの活躍は聞いていたわ。冒険者になり、白銀の勇者と名乗って魔竜王の軍勢を次々と撃破してゆく……簡単にできることじゃないわ」
ディアドラは、両手を広げ褒め称えた。
だが、アドニスは表情を崩さない。
「そんなことを言う為に、ここまで来たのか?」
その瞬間、ディアドラの表情が変わった。
「違う! 私は……これ以上あなたに進んでほしくないの!」
その顔から笑みが消える。
「確かにアドニスは強くなった……。でもね、それでもジャグナスには勝てない! 次元が違いすぎる! 魔竜王は神でもなければ倒せない存在なの!」
ディアドラは、必死にアドニスにすがりつく。
「ねえ、お願い、わかって……お願いだから……」
悲しみの色に染まるその瞳は、真剣そのものだった。
ややあって、アドニスは口を開く。
「……すまないが、やはりそれはできない」
アドニスはディアドラの肩を両手でつかむと、すがりつく彼女を優しく引き離した。
「そっか……。うん、そうだよね……。アドニスならそう言うと思ってた」
ディアドラは少しだけうつむいた後、顔を上げて笑顔を見せる。
だが、その刹那、ディアドラの目が鋭く細く変わった。
「でもね……そうもいかないの」
低く冷たい声でそう言うと、腰に帯びた細身の剣をスッと抜き放つ。
次の瞬間、ディアドラは素早く剣を突き出した。
刃はアドニスの頬をかすめ、切られた金の髪が数本宙を舞う。
その頬に一筋の赤い線が走った。
「今のはワザと外した……」
冷淡な声を響かせて彼女は背を向ける。
そして、二歩、三歩と距離を取った。
「先に進みたければ、私を倒してから行って!」
「バカなことをっ!! お前と闘うなんて、俺にはできない!」
「来ないなら、こっちから行くわよ!」
振り向きざまに放つ、ディアドラの鋭い一撃。
それを後ろに飛び退いて避けるアドニスの瞳には、戸惑いの色が浮かんでいた。
(ディアドラ、泣いてた!?)
彼女が振り向いた瞬間、頬を伝う涙が飛び散ったのが見えたからだ。
「やめろ、ディアドラッ!!」
「あなたが引けないように、私にも引くことができない理由がある!」
鋭く睨むその瞳に、もはや涙の影は見られなかった。
「戦ってアドニス! このまま無抵抗で死ぬつもり?」
ディアドラは、無意識のように胸元で輝く宝石を握りしめる。
その背後で、壁に掛けられた灯台の火が大きく揺れた。
「それでも、俺はお前とは戦わない!」
「そう……。なら、戦いたくなるようにしてあげるわ!」
次の瞬間、灯台の火から〈
だが――。
「な……避けない!?」
アドニスは避けるどころか、防御すらしなかった。
「バ……バカにしてっ!!」
次々と〈
そして、それらは全てアドニスを直撃した。
「ぐっ……!!」
アドニスが身に着けている白銀の鎧には、対魔法防御の力が込められている。
だが、いくら魔法の鎧といえど、これだけの攻撃を受けて無事でいられるわけがない。
全身は傷つき、いたるところから出血をしていた。
だが、それでもディアドラを見つめる瞳には、一片の曇りもない。
「な、何でここまでされても!!」
「お前が、苦しんでいるように見えるから……。苦しいよ、痛いよ、怖いよって、必死に叫んでいる気がするから」
「な、何を根拠に……」
「その目だ」
懐かしそうに、アドニスは目を細めた。
「ディアドラは、感情がすぐ目に出るんだ。嬉しいこと、悲しいこと、全て」
ディアドラは、慌てて目をそらす。
「それは今も変わらない。純粋な瞳で俺を見つめてくる」
「やめて! わ、私はそんなんじゃない!」
ディアドラの拳が、強く握り締められた。
「私は、純粋なんかじゃないーっ!!」
叫ぶと同時に、ディアドラは呪文の詠唱に入る。
「『灼熱の息、烈火の心、破壊を司る炎の精霊王よ……』」
先ほどよりも複雑な印を描くディアドラに、アドニスの顔色が変わった。
「『その姿を、今ここに示せ。その力で全てを塵に、その炎で天と地を焦がせ!』」
首から下げた宝石が赤く激しく輝く。
「こ、これは〈
至る所から火柱が吹き上がり、それは渦巻きながら上空に集まってゆく。
「やめろ、ディアドラ!! ここでそれを使ったら、お前まで炎で焼かれるぞ!!」
「ふふ……。それも……悪くはない……」
「ディアドラ!?」
「一緒に……焼かれようか……」
「まさか、炎の王に飲まれている!?」
宝石の輝きが更に増し、それに呼応するかのように大気が震えだす。
「あの宝石、精霊石か!!」
精霊石は、術者が精霊との交信を潤滑に行うための補助的効果がある。
また、精霊の力を掌握し制御する効果もある。
そのため、精霊使いは好んでこれを身に着けていた。
そして、それは純度が高ければ高いほど、その効果も高くなる。
ディアドラが身に着けている高純度の精霊石は、精霊の王との交信も可能にする力を持っていた。
だが、精霊王との交信は強大な力を得られる分、危険も多い。
力を制御しきれず、その力に飲まれてしまう者もいる。
今のディアドラが、まさにその状態だった。
「くそっ!!」
上空では、いくつもの炎が渦巻き球を成している。
それは、次第に大きさを増してゆく。
「ディアドラ、しっかりしろ!!」
アドニスはディアドラの肩をつかみ、強く揺らした。
「燃え散ろう……アドニス……」
紅い瞳、逆巻く髪、真っ赤に染まる精霊石。
「炎の王と、意識が同調しているのか!!」
このまま上空の炎が炸裂したら、二人ともタダでは済まないことになる。
「どうすれば……!!」
炎はどんどん大きくなってゆく。
もう、一刻の猶予もない。
そのとき、アドニスの脳裏にあることがよぎった。
「炎の王とのつながりである、この精霊石を壊せば!」
アドニスは、ディアドラの胸で紅く輝く精霊石を握りしめた。
「熱っ!!」
だが、強すぎる炎の力を受けた精霊石は、まるで灼熱の炎のよう。
その熱は籠手をすり抜け、アドニスの手を容赦なく焦がしてゆく。
「ぐ……ぐぁ……」
辺りに、皮膚が焼ける嫌な臭いが漂った。
しかし、それでもアドニスは手を離さない。
(た……ためらっている暇はない! 今はこれを壊すことだけを――)
石を握った右手に左手を添える。
「うおおおおおおおおお――――っっっ!!!!」
そして、気合いと共に力を込めてゆく。
手の中で、炎が暴れているような熱さ。
しかし、同時に石がきしむ手応えも感じていた。
「ディアドラ……」
アドニスは、渾身の力を込める。
「帰ってこい、ディアドラ――――ッ!!!!!」
――ピシッ!!
甲高い音が鳴り響き、精霊石は手の中で粉々に砕け散った。
「や……やった!」
だが、制御を失った上空の炎球は、その瞬間に暴走し始める。
球から溢れ出た炎は飛散し、周囲に滝のように降り注ぐ。
空中に残された巨大な炎の核は光を強め、みるみるうちに収縮してゆく。
そしてそれは、ある一定のところまで収縮すると、目がくらむほどの輝きを放った。
「くっ!!」
アドニスは、とっさにディアドラに覆い被さる。
その瞬間、爆発が起こった。
激しい爆風、降り注ぐ炎、辺り一面は火の海と化す。
炎球の爆発は、城を半壊させるほどの力を持っていた。
崩れ落ちた壁、廃墟と化した庭園の中、全てを焼き尽くそうと炎は盛る。
……その中で、動く影があった。
「ぐ……」
瓦礫を押しのけ、アドニスが姿を現す。
その下には気を失っているディアドラが姿がある。
彼女は気絶しているものの、その呼吸は安定しているようだ。
「良かった……」
アドニスの口から、安堵のため息が漏れる。
「しかし……」
アドニスは、周囲に目を向けた。
美しかった城と庭園は、今や無残な姿を晒している。
「未完成な力でこれか。もし魔法が完成していたら、どうなっていたんだ……」
背筋に冷たい汗が流れるのを感じ、思わず身震いをした。
「アド……ニス……」
そのとき、不意にアドニスを呼ぶ声。
「大丈夫か、ディアドラ!」
アドニスは、意識を取り戻したディアドラを優しく抱き起こす。
「戦いは……あなたの……勝ちね……」
「そんなのどうだっていい!」
しかし、彼女は静かに首を横に振った。
「私の負け……。さぁ……私を殺して……」
「な……!? そんなこと、できるわけないだろっ!」
「そうよね……。あなたなら……そう言うと思ってた……」
アドニスの腕の中のディアドラは、悲しげに微笑んだ。
その瞳が、突如、冷たい色を放つ。
ディアドラは、腰に帯びた鞘から音もなく短剣を引き抜いた。
鍔に赤黒い
その刀身は、周囲の炎を映し込み紅く輝く。
「甘いよね……」
次の瞬間、ディアドラはそれを一気に突き立てる。
真っ赤な鮮血が、辺りに飛び散った。