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第4話『想い、伝えたくて……』

 小さな村の宿屋には少々不釣り合いなバルコニーで、アドニスは一人たたずんでいた。

 幾千、幾億もの星が降りしきるような夜空と、時折、頬をなでてゆく心地よい風。

 その星と風に抱かれて飲む蒸留酒スピリッツ

 それは、最高の気分になれるひとときだろう。


 しかし、傍らにある背の高い円卓にグラスを置いた彼の表情は曇っていた。


「……ふう」


 ため息が夜空に響く。

 寄りかかった手すりが、ギシリと音を立てた。


「俺は、このままでいいのか……」


 闇の中、自分の存在を示すかのように輝く星々に、アドニスはそう問い掛けた。


「やっぱりここにいたのね」


 不意に響く声に振り返ると、そこにはグラスを手にしたディアドラが立っていた。


「アドニスは悩み事があると、昔から星を見上げて夜風に吹かれていたものね」


 ディアドラは円卓に自分のグラスも置くと、アドニスの隣に並び、同じように手すりに寄りかかった。


「子供の頃は、それで風邪を引いたこともあったっけ……」

「ディアドラ……傷はもういいのか?」


 険しい表情を崩さないアドニスを和ませるように、彼女は微笑んでみせた。

 ディアドラは、昼間のダークエルフとの戦いで瀕死の重傷を負った。

 アドニスの〈癒しヒーリング〉で傷は回復してはいるものの、失われた血液まで再生できるわけではない。

 おそらくは立っているのも辛いはずだ。


「そんな顔しないで、アドニス」


 しかし彼女は、そんなことはおくびにも出さず、逆にアドニスを励まそうとする。


「村の人たちだって、怪我人は出たけど亡くなった人はいなかったんだから」


 確かに、あれだけの魔物に襲われながらも、二人の活躍により死者は出なかった。

 これは誇っても良いほどの快挙と言えよう。

 にもかかわらず、アドニスは首を横に振った。


「俺にもっと力があれば、誰も傷つかずに済んだかもしれない!」

「でも、結果的にはみんな無事だったんだし……」

「お前は、死に掛けたんだぞ!!」


 語気を強め、アドニスはディアドラの肩をつかむ。


「ゴブリンに襲われていた姉弟だって、一歩遅かったらどうなっていたか……。俺にもっと力があれば、あんなに怖い思いをさせることはなかったんだ!」

「ちょ……ちょっと落ち着いて!!」

「姫がさらわれたときも、俺は……俺は……!!」

「アドニス、痛いっ!」


 ディアドラの悲鳴にも近い叫び。

 その声で、アドニスは我に返った。

 慌てて肩から手を放す。


「……すまない」

「うん……」


 少し広めの襟元からのぞく、細く白いその肩には、くっきりと手の跡が付いていた。


「アドニス……エメラルダ姫がさらわれたこと、まだ自分せいだと思っているの?」


 その言葉に、アドニスは目を閉じる。


「でも、あなたは立派に戦ったじゃない!」


 しかし、アドニスは力なく首を横に振った。


「俺以外の親衛騎士は全て殺され、大切な姫を目の前で奪われた……」


 吐き出すように言うアドニスは、自分の胸を強く握りしめた。


「俺はもう……誰一人として失いたくないんだ……」


 二人の間を夜風がすり抜ける。

 風は、色の違う二人の金髪を優しく揺らしてゆく。


 沈黙――。


 二人の間の静けさ。

 口を開くのがためらわれるような空気が、そこにはある。

 静かな夜の中、ただ聞こえて来るのは風の音だけだった。


「……ディアドラ、いつもありがとうな」


 その沈黙を破って、アドニスは笑顔を見せた。


「な、何よ……そんな改まって」 


 不意に見たその笑顔を前に、胸の鼓動が早くなる。

 それを隠すために、ディアドラは一際明るい声を出した。


「ねぇ、乾杯しない?」


 二人は、グラスを取ると静かに合わせる。

 星が瞬く空に、澄んだ音色が響き渡った。


「……それじゃ、夜も遅いし、そろそろ休むとしようか」


 程なくして、グラスの蒸留酒を飲み干したアドニスは、そうディアドラに言う。

 しかし、彼女は笑顔のまま首を横に振った。


「私は、もう少しここで星を見てるわ。アドニスは先に休んで」

「そうか……ディアドラ、風邪引くなよ」

「昔のあなたじゃないから引きませんー!」


 少しだけ微笑んだアドニスに、ディアドラはべーっと舌を出して答える。


「あははは、おやすみ」


 笑いながらアドニスは、部屋に向かって歩き出した。


「心配してくれてありがとう……」


 すれ違いざま、ささやくように言うアドニスに、ディアドラは笑顔で手を振って見送る。




 その姿が完全に部屋の中に消えてから、彼女はくるりと外に向き直った。

 手すりにもたれかかり、輝く星空を見上げる。

 口から、ため息が漏れた。


 ディアドラは、そっと瞳をとじる。

 幼いときのこと、これまでの冒険、アドニスとの数々の思い出が、鮮明に蘇ってくる。

 それらを全てこぼさぬように掌を胸に当て、そして、ゆっくりと瞳を開いた。


「私……やっぱりアドニスが好きだ」


 明日、この想いを伝えよう。

 夜空の星々に、そう誓うのだった。



* * *



 部屋に戻ったアドニスは、グラスを置くとベッドに横になった。

 仰向けになり、天井の木目を眺める。

 その瞳は何かを決意していた。


「俺は――」


 それぞれの想いを乗せ、夜は静かに更けてゆくのであった……。




* * *




 静かな闇、そして輝く星々が次第に息を潜め、空の端が色付き始める夜明け。

 光と闇が混じり合うこの刻。

 太陽と生活を共にしている者以外は、まだまだ夢の中にいてもおかしくはない。


「はぁ……」


 が、部屋の中に響くため息。

 ここには、すでに目覚めている者がいた。

 村の宿屋の粗末なベッドで毛布にくるまり、横になったままのディアドラは一人ため息をつく。


「あれこれ考えていたら、あまり眠れなかったな……」


 夕べ、アドニスに自分の想いを伝えようと決めてから、あっという間に時が流れた気がする。


「私……なんでアドニスのこと、好きになっちゃったんだろ」


 幼馴染である二人は、一緒にいるのが当たり前だった。

 常に側にいて、ともに笑い、ともに泣き、そして高めあう存在。

 だが、そこに恋愛感情は存在しなかった。


「でも、あのとき……」




 十歳のとき、ちょっとした冒険心からアドニスと二人で森の中へと入った。

 森の中は神秘的で、本や、人の話でしか知らない景色が広がっていた。


「もっと奥へ行こう!」


 そう提案するとアドニスには反対されたが、無理やり説得し、強引に足を進める。


 きらきらと輝く木漏れ日の中で、見たことない草木に心躍り、見たことない動物たちを追い掛ける。

 空腹になれば切り株に腰を下ろし、手提げ籠バスケットに入れてきたディアドラの手作りクッキーを食べた。

 生まれて初めて作ったクッキーは砂糖の分量を間違えていたり、焼き具合が甘かったりしてとても食べられたものではなかったが、それでもアドニスは笑顔で全て食べてくれた。


 初めての冒険。

 そこには、何ものにも代えがたい充実感があった。


 だが、その代償は大きかった。

 案の定と言うべきか、二人は道に迷ってしまったのだ。


 次第に日は暮れ、森の中はどんどん暗くなってゆく。

 それと共に、優しかった森は表情を変えた。

 大木は月の明かりを遮り、うっそうと茂った草木は、二人を通すまいと枝葉を広げているように感じる。

 どこかで、狼が遠吠えしている声も聞こえてきた。


 後悔、恐怖、悲しみ、そして空腹。

 様々な感情が、幼い胸の中で渦を巻く。

 うつむく視界が涙でにじんだ。


 そのとき、不意に手が強く握られた。


「泣くな、ディアドラ!」


 顔を上げると、そこには真っ直ぐな瞳でこちらを見るアドニスがいた。


「大丈夫、心配いらないよ!」

「なんで……そう思うの?」

「直感かな。俺の直感は当たるんだ! だからさ……帰ったら、またクッキー作ってほしいな」


 その予想外の言葉に、ディアドラは一瞬言葉を失う。


「……バカ! どうして今、そんなこと言うの!」

「え? だって……」


 アドニスは少し照れ臭そうに頬をかいた。


「美味しかったから……かな」


 そう言って見せる屈託のない笑顔は、ディアドラの心に深く深く刻み込まれるのだった。


 その後、アドニスは背負い袋バックパックから松明を取り出すと、それに火を付けて歩き出す。

 暗い森の道を、松明の明かりを頼りに進む二人。

 そこに言葉はない。

 だが、その手は強く握られたまま。

 確かな温もりと、高鳴る胸の鼓動を感じながら、ディアドラは手を引かれて歩いた。


 やがて、捜索に出ていた大人たちに保護されて、二人の初めての冒険は事なきを得るのだった。




 それからだ。

 それから、アドニスを異性として見るようになってしまった。


 彼への想いは、日に日に大きくなってゆく。

 だから、アドニスが冒険者になると言ったときは、ディアドラも迷わずその道に踏み込んだ。

 姫の親衛騎士に選ばれたときも、ずっと側で支え続けてきた。


 二人で生きてゆく。

 それが、変わらず続く未来だと思っていた。


 だが……


「未来どころか、明日さえわからない状態で、私はちゃんと告白できるのかな……?」


 不意に、昨日のダークエルフとの戦いが脳裏に蘇り、ディアドラは身震いをした。

 初めて隣に感じた死の存在。

 今になって恐怖が込み上げ、毛布で顔を覆い隠す。


「私もアドニスも、明日は生きている保証なんて……」


 つぶやきながら、細い指先で胸を押さえた。

 思わず吐息が漏れる。


 次の瞬間、ディアドラは激しく頭を振って起き上がった。


「違う!」


 毛布が床に落ち、不意に肢体が現れる。

 その恰好は下着姿だった。

 均整の取れた体つきがあらわになる。


「明日がどうなるかわからないからこそ、私は想いを伝えなきゃいけないんだ!」


 ディアドラは下着のままベッドから下りると、窓を開けた。

 輝く朝日と、少しひんやりとした爽やかな風が部屋の中に流れ込み、絹のような頬と形の良い胸をなでてゆく。

 それはまるで、光の精霊と風の精霊が祝福してくれているかのようだった。


 少し気持ちが軽くなったディアドラは、窓から広がる景色に目を向けた。

 宿屋の三階にあるこの部屋。窓からは、村の広場に向かう道が見える。

 その道を挟むようにして、若い木々がさながら街路樹のように立ち並んでいる。


 しばしの間、その緑を眺めていたディアドラは、窓の下の道を歩く人の気配で我に返った。


「こんな朝早くに……」


 つぶやくディアドラ。

 だが、その者の姿を見た途端、表情は一変する。

 口を開く。

 しかし、上手く言葉が出てこない。


「なん……で……」


 二度、三度と口を動かし、ようやくうめくような声が漏れた。

 次の瞬間、はじけたように部屋を飛び出すと、廊下を走り、階段を駆け下りる。


 まだ薄暗い宿屋の中に、ディアドラの足音が響き渡った。




* * *




 ひんやりとした早朝の空気の中、静かに開いた宿の扉から一人の青年が姿を現す。

 青年は、宿の前の広場に向かう道を歩く。

 広場の先には、この村の出口がある。


 通りを少し進んだところで、青年はふと足を止め、ゆっくりと振り返った。

 静かな瞳で見つめる先、それは宿屋の三階の部屋の窓だった。

 開け放たれた窓。

 そこに人影はない。

 朝の風だけが、彼に優しく触れてゆく。


 しばしその窓を見つめていた青年は、やがて前を向くと、再び歩き出した。


「待って、アドニス!!」


 そのとき、不意に響く声。

 振り向くと、そこには下着姿のままで走り寄ってくるディアドラがいた。

 彼女はアドニスの元に辿り着くと、肩で息を切らせながらも笑顔を作る。


「こ……こんな朝早くにどこに行くの? 旅支度までしちゃって……。まるで、今すぐ出発するみたいじゃない」


 アドニスは目を伏せると、身に着けていたマントを外しディアドラの肩にそっと掛けた。

 その悲しげな瞳に、彼女の顔が不安に染まる。


 二人の間を一陣の風が吹き抜けてゆく。


「そ、そう……。じゃ、じゃあ、私も急いで準備してきちゃうから!」


 ディアドラは笑顔を作り直すと、くるりと彼に背を向けた。

 長い金髪が、動きに合わせてふわりと舞う。


「いや、そのままでいい。話を聞いてくれ」


 走り出そうとした彼女の手首をつかみ、アドニスは首を横に振った。


「実は……」

「ね、ねえ!」


 しかしディアドラは、背を向けたままアドニスの話を遮って話し出す。


「次は、どこに行ってみようか?」

「違うんだ……」

「私は、どこでも大丈夫よ!」

「ディアドラ、もう一緒には……」

「あ……あのね、この前すごく美味しい果実酒を見つけたんだ! 次の街に売ってるかな? 私の手作りクッキーにも合うから、アドニスもきっと気に入って――」

「話を聞くんだ、ディアドラ!」


 話し続けるディアドラの肩をつかみ、無理やりに自分の方へ体を向けさせる。

 次の瞬間、アドニスは言葉を失った。

 目の前には、笑顔を浮かべたディアドラがいる。


 だが……。


「ディアドラ……泣いているのか?」


 涙をこらえ、必死に笑顔を作るディアドラ。

 しかし、頬を伝う涙は抑えられない。


「すまない……」


 その言葉で、ディアドラの心の箍は崩壊した。


「やだ……やだよ……」


 喉の奥から漏れるように声が出る。


「なんで……なんで一人で行こうとするの? なんで私を置いて行くの? 私……魔力マナだって前より上がってるし、今は古代魔法も勉強してるんだよ?」


 全ての魔法は、魂の力である魔力を精神の力で練り上げ、呪文を唱えて発動させる。

 アドニスの神聖魔法は神と接触しその加護を受け、ディアドラの精霊魔法は精霊と交信しその力を借り、それを術者の練り上げた魔力と掛け合わせて行使する。


 それに対し、古代魔法は自らの魔力のみを用いる、神々の時代に栄えた王国が生み出した力だ。

 魔力を練り、古代の言葉を詠唱することで、様々な力を発動させることができる。


 精霊魔法と古代魔法、どちらも非常に強力で便利ではあるが、使いこなすには熟練を要する。

 その二つを使いこなせる者が仲間にいたなら、間違いなく旅の力になれるだろう。


 しかし、アドニスは首を横に振った。


「違うんだディアドラ、そういうことじゃないんだ。これからの旅は、間違いなく困難なものになるだろう。昨日のように大怪我……いや、次は命を落とすかもしれない」

「そのときは、私の力が足りなかっただけ! アドニスは気にしないで……」

「そうはいかない!」


 アドニスは、悲しみの瞳でディアドラを見つめた。


「俺は……もう誰も失いたくないんだ!」


 アドニスの手は、爪が食い込み血がにじむほど固く握られている。

 親衛騎士たちをはじめ、これまで沢山の人たちが命を落としてきた。

 魔竜王ジャグナスのために。


「じゃあ……じゃあ、もう旅なんて、やめちゃえばいいじゃない!」


 それは、口にしてはいけない。

 わかってはいるはずだが、昂った感情はもう抑えがきかないのだろう。


「ねっ、そうしよう? ジャグナスは、きっと誰かが倒してくれるよ!」

「ディアドラ……それ、本気で言っているのか?」

「だって……だって……」


 ディアドラは泣きじゃくりながら言葉を続ける。


「……だって、アドニスが死んじゃうかもしれないんだよ?」


 とめどなく溢れる涙。

 頬を伝い、流れ落ちた滴が地面に黒い染みを作ってゆく。


「そんなのやだ……いやだ……」


 アドニスはディアドラの頬の涙を指で拭うと、微笑みながら首を横に振った。


「大丈夫、俺は死なないよ。俺には神の加護がある。必ず帰ってくると約束する!」


 そして、遠くを見るように目を細めて空を見上げた。


「それに……姫は、きっと俺を待っている」



* * *



「それじゃ、元気でな」


 別れの言葉がディアドラの胸に突き刺さる。

 背を向けるアドニス。

 伝えたい想いはたくさんある。

 しかし、言葉が出てこない。


(アドニスのあんな表情……見たことなかった)


 空を見上げたアドニスの瞳に浮かんでいたもの。

 それは世界を救うという使命感だけではない。

 譲ることのできない強さが、そこには感じられた。


(アドニスは姫のことが……)


 気付いてしまった、アドニスの想い。


 胸が痛い――。


 息が苦しい――。


 アドニスの背中が、どんどん小さくなる。

 感情に身を任せ、あの背中を追い掛けたい。


 だが、ディアドラにそれはできなかった。


 今は、胸を裂く痛みに耐えて見送ることしかできなかった。

 涙でにじむ愛しい背中を、ただ見つめることしかできなかった……。

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