「ルニグ……」
「私の事なんか放っておいて良かったのに……でもここまでありがとうね、ルニグ」
しかしその身に付く血は自身のものではなく、彼女の腕の中で眠る仲間、ルニグの物。彼の身体は腹から切断され、下半身は見当たらない。光が抜けた虚ろな瞳を見れば命はここにないのがわかる。
一方、シルヴィは風が吹けば倒れてしまいそうなほど満身創痍。それでも数多の仲間を失った辛さに耐え、腕に抱えるそれをその場に置くと、大岩からゆっくりと身を出して赤い空を見上げる。
彼女の霞む視線の先には硬そうな黒鱗の鎧で身体を覆い、大きな翼で宙に浮いている人の姿をした何かがこちらを見下ろしていた。
否、何かではない。世界を統べし魔王、アデルキア。赤い長髪に空から見下ろす怒りの乗った冷たい顔が相まって、まるで棘のある薔薇を眺めているよう。
先ほどまでその美麗な魔王とシルヴィ
「ハッ……せっかく自由にしてやったのになおも我に挑むか……まあ逃げたところで、その身体じゃあ直ぐに死ぬだろうがな」
鼻で笑う魔王の言葉は正しい。シルヴィ自身満身創痍で仲間は全滅。強大なる敵に全力で戦えるほどの力は彼女にはなく、逃げる選択肢もあった。
それでも逃げずに立ち向かおうとするのは、ここまで来たからには武器を、剣を構えなければならないから。どんなに嫌でも、辛くても、苦しくても、逃げるわけにはいかない彼女の強い思いがあるからだ。
だからこうして解放されたとしても、彼女一人だけ逃げるなんて到底できない。
故に霞む視界の中に魔王を捉え、痛みに身体を震わせながらも一歩、また一歩と歩みを進める。
彼女は魔法使いだが正確には剣を魔法媒体とする魔剣士。そのため手に持っているのは杖ではなく扱いなれた不格好な片手剣。それも瘴気を断ち切ることができる剣があった。
それは瘴気に耐性のある者しか扱えない剣であり、彼女が持つ願いを叶えるためのものだ。
扱い慣れているはずだが満身創痍の彼女にはとても重たく感じ、恐怖で足は竦んでいた。それでも剣を引きずりながら、着実に魔王の元へと歩く。
「……ヒール、アンチペイン……!」
痛みに耐えながら残り僅かの魔力を使って自分の傷を癒し、痛みを和らげる魔法を自分にかける。この状況下で自分の命は長くはないと既に悟っており、今の二つの魔法は言うなればせめてもの悪あがきだ。
「本当に懲りないな……そんな玩具ではこの我を倒せないというのに」
「貴女を……助けたいから」
「……まだそんな戯言を。忘れたとは言わせんぞニンゲンが我ら魔族にもたらした厄災を……!」
人が魔族に対して犯した罪には心当たりはある。けれど加担したわけではなく、寧ろ止めようと試みていたシルヴィ。今更それを言ったところで、魔王の怒りは変わらないのは見えている。そもそも魔王の敵は人間。それも魔族を消そうとしている人間だ。今更どう言おうが決して許されることはない。
「確かに私たちはあなた達にひどいことをした……でも、だからこそ……終わらせたいんだ」
「全ては貴様らから始めたことだろう! それを終わらせたいだと? ふざけるな!」
「ふざけて、ない……私は本気……生命代償、身体能力、強化!」
シルヴィは魔族との共存を望み剣を握る。だが仲間は彼女の行動は許さないだろう。仲間たちの思いはシルヴィとは正反対で魔王を討伐し、人類の平和の時代を作り上げることなのだから。
それでももうこの場にはシルヴィのみ。仲間の思いは確かに彼女に受け継がれてはいるが、それを実行する義務はない。
そこで自らの命を代償に足りない魔力を補い身体能力を強化する魔法を使用し魔王に向かって飛ぶ。
「目には目を……! 歯には歯を……!」
「……っこんなもので私を止められるとでも思うな!」
飛び掛かったシルヴィは大振りに剣を振るったが、魔王の身体をすり抜け、剣には黒煙が纏わりついた。肉体を切るのではなく瘴気を切るための作用であり、黒煙は瘴気を切り剣が食べた証。魔族であるアデルキアには確かに効果がある一撃だったがアデルキアの様子からまるで効いていない。
とはいえ多少は通用している。だからこそその武器が厄介であるのは気づいており距離を離すために空中で無防備になったシルヴィを蹴り、地面に打ち付ける。
「貴様らニンゲンは、我ら魔族を道具のように扱い。あるときは見もののように弄ぶかのように殺す……わかるか? 我らがニンゲンから受けた痛みを!」
「……わかるよ……だからこそ、もうやめにしよう、アデルキア」
「わかっているならこの周りのニンゲンはなんだ! ……所詮人間と我ら魔族は敵だ。私を殺そうとしていたやつらがこんなにもいる。それが全てを物語っているだろう!」
「それは……」
聞いているだけでもわかる程溜め込んだ心の傷を吐き出すように、声を荒げる魔王。
魔王が抱えている痛みをシルヴィはわかっている。彼女は人間だが、魔族にも命はあり人と平等に生きるべきだと思っておりだからこそ無実無害の魔族が目の前で殺される辛さを知っているのだ。加えてそれを助けたくても助けられない辛さも経験している。
そもそもこの戦争が起きたのは全ては魔族を恨む人間のせい。確かに魔族は過去に人を殺め、嬲り、物として扱っていた。だがその多くの原因は魔族ではなく魔物。人は魔族と魔物の違いを知らず、魔物の仕業すらも魔族に押し付けて人に害する種族だとしてやり返しているのだ。
だがシルヴィは魔族と魔物の違いを理解している。故にこの戦いをやめ、アデルキアを含む魔族と共に共存する道を歩みたいと願っているのだ。しかしそれは何もわからず武器を納めずに立ち向かう仲間たちが敵意を示し、魔王に牙を向いたことで叶わないものとなった。
「返す言葉はもうないか……ならば去れ、この世からな」
シルヴィを空から見下すアデルキアは右手に黒く濁った炎を出すとそれを彼女に向かって放り投げる。
それはかわすこともできるものだが、地面に打ち付けられた衝撃が体に響き、うまく体を動かせない。そのためシルヴィはただ黒い炎の塊を見つめることしかできず、やがてそれがシルヴィに触れると、黒い炎の龍がぐんっと空へと昇るように彼女を包み込んだ。
「――っ!!!」
炎に包まれた彼女の悲鳴は一切聞こえない。
先ほど使用した魔法アンチペイン――痛みを和らげる魔法により痛みを感じていないのだ。故に悲鳴を全く上げることなく、ただ肉が焼ける嫌な臭いと音だけがその場に広がっている。
――ああ、もしもやり直せられたら、今度こそ……今度こそ――
体の感覚がなくなり小さな願いを最後にゆっくりと目を瞑った瞬間、彼女の意識は闇に溶けた。