「プールが終わった後の教室」
「あぁ、いいですね。それ」
「でしょ?」
時計の針は17時13分を指し示していた。
ただの17時13分ではない。
彼女といられる、最後の17時13分だった。
「雨上がりの善福寺川のにおい」
「……結構マニアックだね」
「あれがいいんですよ、あれが」
よせばいいのに、地球だって今日くらいはサボっていいのに、刻一刻と沈んでいく夕日は、まるで舞台を終わらせるカーテンのようだった。
「帰り道のコロッケ!」
「ソースは衣に染みない程度、でしたっけ」
「部活終わりの身体に効くんだよねー」
わたしたちに残されたのは、たったの12分間だった。
あと12分で家に着き、私たちの高校生活は情け容赦なく最期を迎える。
「荻窪でクラスメイトを見かけたときの、お互い気まずい空気」
「性格悪いよ、それ」
「わたし、カナちゃんとは違って友達が少なくてもいい派なので」
わたしたちは残された12分で、青春の化石を掘り返すことにした。
それは、お互いに好きなものを1つずつ言っていくだけの他愛のない遊びであった。
「みどりが貸してくれた本のにおい」
「なんか、変態っぽいですね」
「違う! そうじゃなくて、なんていうかこう…………落ち着くんだよ」
2人の顔が、夕暮れに溶けるように赤く染まっていく。
わたしたちは互いに目を合わせないよう、少しだけ目をそらしながら歩いていた。
ゆっくり、ゆっくりと惜しむように、歩くスピードを落としていることには気付いていたが、指摘は出来なかった。
残り8分。
それがわたしたちの些細な抵抗の成果だった。
「帰り道の猫」
「西荻、道が狭いせいか猫が逃げないんだよねえ。ていうかみどり、さっきからこの辺りのことばっかりだね?そんなに地元のこと好きだっけ?」
「別に好きじゃないですけど。ただ、カナちゃんとの思い出があるだけです」
残り6分。
わたしたちの化石はまだまだあるのに、掘り尽くせないほどたくさんあるのに、そんなものは知ったことじゃないとばかりに夕闇のカーテンは降りていく。
わたしたちの思い出も、今こうして歩いている時間さえも、刻々と過ぎ去っていく。
もうすぐ終わってしまうのだ。
あと5分もないかもしれない。
残り4分しかないかもしれない。
そう思うと、わたしは怖くて仕方がなかった。
「駅前にあったお茶屋さんのにおい」
「公園にあったふくろうのオブジェ」
「朝の気だるげな空気」
「テスト前のファミレス!」
「それから――」
残り3分もないかもしれない。
その恐怖が、わたしたちを饒舌にさせた。
言葉にしなくても分かることが多すぎて、どうしようもなくて、それでもまだ話していないことがあるような気がして、だから、言葉を紡ぐしかなかった。
「カナちゃん」
「ん、なぁに?」
「カナちゃんのこと、好きでしたよ」
「…………ずるいなあ」
もう、終わりの時間が差し迫っていた。
わたしたちが歩いた道は、まるで魔法のように真っ暗だった。
────でも。
「わたしも、みどりが好きだよ」
「知ってます」
「うん、そうだよね」
行き先の見えない、暗い道だとしても。
「ごめんね」
「ううん、ありがとう」
「一緒の道に進めなくて……本当にごめん」
「謝らないでください、カナちゃんにはやりたいことがあるんですもん」
「それでも、ごめん」
「…………」
でも、その暗闇の中を歩けば、きっといつかは明るいところにたどり着けると知っていた。
キミが教えてくれたんだよ?
だから、わたしたちは離れ離れになっても歩き続けることが出来るんだと思う。
「あーあ、なんか変な感じ」
「最後なのに、いつもどおりですね」
「そっちこそ」
「じゃあ、行きましょうか」
「うん、行こう」
わたしたちは、最後の1分間も、いつもと同じ調子で笑い合った。
そして、時計の針が17時25分を指し示した瞬間、わたしたちはどちらからともなく、駆け出していた。
「さようなら、カナちゃん」
「またね、みどり」
わたしたちは、闇の中に消えていった。
────わたしたちは、最後まで笑っていた。