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第8話「千葉県人は別に悪口やないと思うけど……」

 高校二年生の冬は、そうして静かに、雪のように積もっていく。


 たん、とん、たん、と。


 白銀真白はあのあと台所に逃げ込んで無心にリンゴを切り刻んでいた。タルトタタンを作るのだ。


 お菓子作りはいい……お菓子作りは人を幸せにする……。


 決して凛がいる居間には居づらいとか、先のことを考えたくないとか、頭を空っぽにしたいからとか、そういう後ろ向きな考えでお菓子作りに没頭しているわけではない。


 そう、言うなればこれは戦略的なテッタイであり、後ろ向きなゼンシンであり、逃げではなく次なる一手へのフセキなのだ。と、誰に聞かせるでもない言い訳を頭の中に並べ立てながら手を動かし続けた。


 リンゴとバター、それから薄力粉。

 あとはお好みでレモン汁やアーモンド、アプリコットジャムなんかを少々。

 隠し味に凛の好きなラム酒をちょっぴり。


 うん、いい匂い。これならきっと美味しく出来上がるだろう。あとはオーブンで焼き上げて盛り付けるだけ。


 もう少しでこのタルトタタンは出来上がる。出来上がってしまう。


「……終わらなければいいのになぁ」


 小さな呟きは誰にも届かないまま、台所の天井に消えていく。

 お菓子作りも青春も、ずっと続けばいい。

 こんなに楽しいことがずっと続かないなんて、何か間違っていると思う。


 時間よ止まれ、青春は美しい──なんて、使い古された言葉だと思っていたけれど。


 でも、本当に。終わってしまうのが怖いほど美しい時間はあるんだと、初めて知った。


「神様も、せっかく超能力をくれるんならもっと便利なヤツをくれれば良かったんですけどねぇ」

 はぁ、とため息を吐き、手をグーにして頭の中に金平糖を思い浮かべる。

 すると──いつの間にか、手の中に金平糖があった。それと同時にお腹がくーと鳴る。



 白銀真白は、超能力者である。

 世界で唯一、真白だけが簡単確実最速に痩せられる方法を知っている。



 何もないところから金平糖を創り出す能力。


 創り出す代償に、金平糖と同程度のカロリーを消費する。

 色も大きさも自由自在、自分の半径3m以内ならどこにでも出すことが出来る。


 それが、私の持つ超能力。


 いつからこれが出来るようになったのかは分からない。

 少なくとも物心ついた時には出来るようになっていた。


「……金平糖を創るたびカロリーを消費するので、ダイエット要らずなのは便利なんですけどねぇ」


 あと美味しい、高級なお砂糖の和三盆みたいに控えめながらもしっかりとした甘さがある。

 多分使っている材料が私の様な可憐で清楚で美しく荒波に差し込む一筋の月光の様な美少女から採れたカロリーだからだろう。

 美少女はカロリーまで美しいのだ。


 本当はみんなにも食べて欲しいのだけれど、面白ビックリ人間として見つかって政府? とか研究所? とかに解剖されたくはないのでこの能力のことは凛しか知らない。


 かりっ、と。金平糖を口に含んで、同時にため息が出る。


「はぁ……」


 たん、とん、たん、と。

 包丁を動かす度に、少しだけ視界がにじむ。

 ……凛がこの村を出て行くまであと一年。


 その事実を、まだうまく飲みこめないでいる。


 だいたい、凛はズルいのだ。


 初めて逆上がりが出来るようになったのは凛だった。

 初めてシャンプーハットなしで頭を洗ったのだって凛だった。

 水泳も、自転車も、思い付く限りの事は全て凛の方が先に出来るようになっていた。


 身長だって小学三年生までは同じくらいだったのに、今では彼女と顔を合わせる時はいつも上を向かなければならない。同じ家で育って同じものを食べている筈なのに、神様は不公平だ。


 それに、何かを始めるために一歩踏み出すのは凛が必ず先だった。

 自分は彼女の後を追いかけながら生きていくことしか出来なかった。


 凛は本当にずるい。


 凛はいつだって一人で勝手に大人になっていく。

 私を置いて先に行ってしまう。


 そして、次の春には本当に私を置いて村を出ていってしまう。


 そんなの、ずるいじゃないか。


 私はまだ子供のままだっていうのに。

 生まれ育った村を出て、知らない街へ一人で出て行くなんて、そんな恐ろしい事、絶対にできないというのに。



 言い訳はいくらでも思い付く。



 九頭竜村のことが好きだから。

 村の人みんなが好きだし、この何もない村が好きだから。


 みんなで協力して田植えや稲刈りをして、お祭りの日にはみんな集まってわいわい騒いで、たまに喧嘩したり仲直りしたりして……。


 そんな九頭竜村のことが大好きだから。



 言い訳はいくらでも思い付く。



 自分たち二人がこの村を出て行けば、この村から若者はいなくなる。

 きっとみんな寂しい思いをするだろう。


 力仕事だって私たちがいなければみんな困るに決まっている。

 それに、おばあちゃんが料理を作り過ぎた時に食べる人がいなくては困るだろうし、おじいちゃんが腰を痛めた時に誰がマッサージをするというのだ。

 源おじさんが作るへんてこりんな日曜大工を褒める人だっていないし、勘解由小路先生が賞に送っている小説の感想を言う人だっていなくなる。


 全部本当で、全部言い訳だ。


 どれだけ御託を並べても、本当は……。

「東京に行けば、料理の専門学校に通える」


 小さな頃からお菓子作りが好きだった。

 お菓子は甘くて美味しい。


 作れば作った分だけ地球の総幸福量が増えるのだ、完全に作り得だ、アドだ。

 それに、自分が好きなものを作って他人に喜ばれるというのは、なににも代えがたい素朴な嬉しさがある。


「東京の学校に行けば、夢がかなうかもしれない」

 九頭竜村で、大好きなおじいちゃんやおばあちゃん、それから村のみんなにお菓子を作り続ける人生は、それはそれで幸せなのかもしれない。


 でも、そこに凛はいない。

 次の春にいなくなる。


 きっと凛だけじゃない。

 変わらないものはこの世になくて、形あるものはいずれ壊れてしまうから。

 そして、お年寄りばかりのこの村で、その日がやって来るのはそう遠くないから。


 頭では分かっているのだ。


 分かっているからって、どうにも出来ないことはあるのだ。

 凛のように、最初の一歩を踏み出す勇気は私にはないから。

 そしてきっと、凛はその一歩を軽々と踏み出してしまうから。


「凛は、本当にズルいです」


 そんなことを考えては、自分が何をしたいのかもよく分からなくなって、ただぐちゃぐちゃとリンゴを切り刻んでいた。もう切らなくていいはずなのに。


 仕方がないからこれはジャムにでもしよう……リンゴを適当に鍋に放り込み、その上に砂糖とレモン汁を合わせる。


 甘くて酸っぱくて、すこしだけ切ない匂いが台所を満たしていく。

 もし時間が止められるならいつまでもお菓子を作り続けていたいけれど、でもそれはできないから……せめて今だけはもう少しだけ。


 そう願いながらぐつぐつとリンゴを煮込むわたしの耳に──ふぅっ……と、凛の吐息が吹きかけられた。


 突然のことに「ひぃゃんっ!」と、素っ頓狂な悲鳴を上げて、背筋をぴん! と伸ばしてしまう。同時にチン! とオーブンが鳴り、タルトタタンが焼きあがった。


「りっ……! 凛⁉ なにするんですか⁉」

「え? いやなんかめっちゃ真剣に料理してはるし、からかわんと関西人の血が廃るなと」

「貴女生まれも育ちもこの千葉県九頭竜村でしょう! このエセ京女! 千葉県人!」

「千葉県人は別に悪口やないと思うけど……」


 そう、何を隠そうこの京都の女ぶっている黒沢凛は九頭竜村生まれ、この村育ちの女子高生である。京都には縁もゆかりもないのだ。


 わたしも大概インドア派だしアニメも漫画もそれなりに嗜むが、凛はそれに輪をかけてインドア派で重度のオタクで幼い頃から家でアニメばかり見ていた。

 特に彼女は魔法少女ものが好きで、中でも京言葉の魔法少女が大のお気に入りだった。


 いちおう彼女の名誉のために言っておくが、当時は幼かったのである。

 幼い子供なんてものは憧れの人の真似をするものである。


 幼い凛は憧れの魔法少女の真似をし続け──ついに、と言うべきか、当然というべきか、京言葉が抜けなくなってしまった。

 ついでに住所自認が京都になってしまった。


 多様性の時代である。

 多様性の一言でまとめていいのかは大いに疑問が残るが、多様性さんに頑張ってもらわない事には彼女がいい歳こいてアニメキャラに憧れて京都人ぶってる千葉県民という事実からは目が反らせなくなってしまうので、この話はこの辺で終わりにしてあげるとしよう。


 千葉で一番かわいい天才美少女女子高生ことこの白銀真白は、心まで広いのだ。


「と、とにかく、いきなり耳に息を吹きかけるのをやめてください!」

「せやかて目の前においしそうな耳垂らしとるのが悪いんちゃう?」


 そんな言い訳をしながら、凛はぺろりと小さな舌を出して唇の周りを舐める。


 全身エロマンガ野郎は仕草までエロマンガみたいだ。

 服装だって肩がまる見えのエロニットで、下はそれこそ下着が見えそうな丈をしている。


 エッチの押し売り屋さんみたいな恰好だ。

 年頃の女の子として本当にどうかと思う。

 どうせまた何かのアニメとか漫画とかラノベに影響されたのだろう。


「で、真白ちゃんは何作ってはるん?」

「タルトタタンですよ。リンゴのタルトみたいなやつです」


「ああ、アレ真白ちゃん好きやったよな。月イチくらいで作っとるし」

「タルトタタンはとてもありがたいお菓子ですからね」

「? そうなん?」


「ええ、タルトタタンは失敗から生まれたお菓子と言われています。昔のそそっかしい人がアップルパイを作ろうとして生地を作り忘れちゃったから、もういいや後から生地を作って上に載せちゃえ! と、出来たのがこのタルトタタンなのです。どうですか、いい話でしょう? 失敗を失敗で終わらせず、その失敗すらも利用してしまう。前向きでたくましさすら感じる、とても素晴らしいお菓子なのです」


「相変わらず好きなもののことになると早口さんやねぇ……で、タルトタタンはんのありがたいエピソードは分かったけど、結局なんで真白ちゃんはタルトタタンが好きなん?」


「……え? なんかカッコ良くないですか? そういうエピソードありきでお菓子を好きになるのって。バームクーヘンは幸せを重ねるという意味があるから結婚式の引き出物になっているみたいな奴とか」

「………………………………浅っさ」


「浅っ⁉ い、いいじゃないですか! 別に!」

「はいはい。ま、真白ちゃんがそれでええならかまへんけど」


 そう言って凛はタルトタタンを眺めたあと、

「ま、せっかくやし味見させてもろうて……」

「ちょっ、あっ!」


 そう言って、凛はわたしの後ろから手を回して抱き着いてくる。


 そして、ふにょんとした感触と少し硬い下着の感触のハイブリッドな感触が接触面である背中から脳みそに刺激をもたらし……なんかこう、えっちな感じのいい匂いがして……驚いている隙にタルトタタンを一切れひょいっと取り上げて、自分の口に運んでしまった。


「あ! もう! 冷ましてから食べるものなんですよそれ!」

「ええやないのええやないの。んー……うん、美味いわ~。真白ちゃんほんま料理上手やなぁ」

「…………一切れだけですからね」

「んふふー、おおきに」


 そう言って、凛はノータイムで二切れめのタルトタタンを口に運ぶ。

 一応抗議の視線を向けるものの、幸せそうにタルトタタンを頬張る彼女の横顔を見ていると、まぁいいか、という気分になってしまう。


 結局、この子はこの笑顔がズルいのだ。この笑顔で大抵の事は許してしまう気がする。この前この笑顔で村長おじいちゃんに最新のゲーミングPCを買わせていたのでエビデンスもある。


「……まったく」


 わたしはため息をひとつ付いて、ジャムを作っていたコンロの火を止める。

 鍋からリンゴの甘い匂いが漂い始めていた。


「私も一切れだけいただきましょうかね」


 そう言って、わたしもタルトタタンを一切れ口に運ぶ。

 うん、美味しい。我ながら上出来だ。


 天才美少女の私が作ったのだから美味しいのは当然なのだが、それでもやはり、実際口にしてみるまでは分からないものだ、未完成だったし。


 そして、わたしがタルトタタンを食べている内に凛はお茶を淹れていた、自分の分だけ。


「でも、ほんまに真白ちゃんのお菓子は美味しいなぁ。なんか安心する味やわ」

「ふふん、そうでしょうともそうでしょうとも! もっと褒めてください! さぁ! ほら! 具体的に愛と尊敬と敬愛をこめて!」

「あはは、やかましー」


 凛は笑いながらお茶をすする。

 それはいつもの九頭竜村の、いつもの私たちの、いつもの日常の風景で。

 退屈で、平和で、何の変哲もない、大切な時間だった。

 本当に、このままずっと続いていけばいいのにと、そう願わずにはいられないほどに。


 一方で、その願いが叶わない事を受け入れつつある自分がいて。


 だからだろうか。

 ずっと聞けなかったことを。

 なんとなく先延ばしにしていたことを、


「ねぇ、凛」

「んー?」

「どうして東京へ行こうと思ったんですか?」


 うっかり、口に出した。


「なんやの、いきなり」

「いえ、そういえば聞いていなかったなぁと」


 口に出してしまえば、案外どうってことの無い質問に思えた。


「まぁ……そうやなぁ」

 凛は湯呑をことりとちゃぶ台の上に置いて、それから少し考えるように天井を仰いだ後、ゆっくりと口を開く。



「……負けたくなかったから」



 彼女の美しい柘榴のような瞳が、少しだけ細まった。


「負けたく、なかった……?」


 その言葉の意味が分からずにオウム返しをして首を傾げる。

 そんなわたしを見て凛は苦笑し、お茶をひと口飲んでから続けた。


「そ、くだんない子供の意地みたいな話。自分でも馬鹿だと思っとるよ」


 そう言って、少しだけ寂しそうに微笑み目を伏せる。

 これ以上この件について話すつもりはないという様に。


 負ける。彼女が。誰にだろうか。

 いつだって彼女は私の前を走っていた。

 いつもの飄々とした笑顔で、はじめてのことも、むずかしいことも、大した問題ではないと笑い飛ばして乗り越えてきた。


 臆病な私は、いつだっておっかなびっくりついて行くのがやっとで。だから、彼女が何かに負ける姿というのが上手く想像できなかった。

 そんなことを考えていたわたしに、凛は肩をすくめて応える。


「まぁでも、肝心の相手には伝わってへんみたいやけどな」

「……はへ?」

「なんでもないわ、独り言。なんとなく行ってみたくなっただけやわ、タピオカとか飲みたいし」


 凛はそう言って、お茶をすすり……「あち」と小さく舌を出す。

 そして、少し何かを考えるように眉根を寄せて。


「うん、決めた」

「? なにをですか?」


 わたしが聞き返すと、凛はこほんとひとつ咳払いをして。

 それからわたしの目を真っ直ぐに見つめて、言った。


「真白ちゃんは東京に行く気がない。ウチがどれだけ誘っても」

「まぁ、天才かわいい私がこの村を離れたらみんな寂しがりますし……」

「お菓子の勉強はええの?」

「うっ……」


 それは確かに……そうなのだけど。

 お菓子の勉強をしたいという気持ちはあるし……なによりも、こうやって美味しいお菓子を作れた時は真っ先に凛に食べもらわないと、なんというかこう、しっくりこいない。


「それに、うちかて真白ちゃんと離れるのは寂しいんやけどー」

「ううっ……」


 だが、そうだからと言って、凛の様に生まれ育った村を出て行く勇気なんてものは持てない。


「せやから」


 わたしの頭の中を見透かした様に、凛は続ける。


「真白ちゃんがウチと一緒に東京に行きたくなるように、魔法をかけたる」


 そう言って彼女はわたしの目の前に小指を差し出し、いつものからかうような笑みを浮かべる。


「魔法、ですか?」

「そ、ええやろ? 子供のころようやってたおまじないみたいなもんや」

「まぁそれくらいならいいですけど……」


 わたしはその笑みにつられるように笑って、同じように小指を彼女の前に差し出した。

 すると凛は満足そうに頷いて、自分の小指を絡める。


 そして、歌うように呪文を唱えた。


「指切りげんまん」


 確かに、私の金平糖の様に摩訶不思議な力というものはこの世に存在する。


「うそついたら」


 だが、まさか。


「ハリセンボン、のーます」


 こんな子供じみた『約束』が、あんな事件を引き起こすだなんて。


「ゆび、きった♡」



 この時の私は、想像もしていなかったのだった……。

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